日蓮正宗・創価学会の一尊四士像否定に対する批判。

 

弘安元年九月『妙法比丘尼御返事』や、

「教主釈尊を立てまいらせ法華経を手ににぎり蓑をき笠をさして居たりしかども、」(昭定1563頁)

また、建治二年三月『忘持経事』にも、

「教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し」(1151頁)

とあるので、佐渡においても、身延山においても立像釈尊を本尊として礼拝していた事がわかります。

 

ただし身延山においては、弟子信徒に大曼荼羅を御本尊として授与されていたので、御自身も大曼荼羅を掲げ、その前に立像釈尊を奉安した御宝前であったでしょう。あるいは、さらに法華経一部を置いてあったかも知れません。

 

佐渡においても、身延山においても、立像釈尊を無始久遠の釈尊として礼拝されていた事でしょう。

 

什門の永昌院日鑑上人が『金剛亀羊辨・巻上』に、

【「立像仏は独身で脇士が無い」と即断することは、物の見方に暗く、道理に疎い者の云うことである。

海中出現の立像仏は、伊東の浦に出現して、本眷属(地涌上行菩薩)

を待っていたのである。故に高祖が此の尊像を感得し随侍恭敬されることになったのである。日蓮聖人は上行菩薩の応生であるから、これは地涌上行菩薩が本仏の脇士となった事とではないか。本化を脇士とする釈尊は、本門寿量の教主であろう。】(宗全第六巻366頁・取意)

と、「立像釈尊は一仏にして脇士無し、小乗の釈尊にも及ばず。物の数ならず」と主張する日蓮正宗(創価学会でも同様)の考え方を批判しています。

さらに、日鑑上人は

【日蓮正宗の「立像釈尊は墓の側に立て置くべしと御遺言されている。故に本尊ではなく奴僕とされたのである」との主張に対して、

御遺言の文言は、「立て置くべし」ではなく、「之を安置奉るべし」と記されている。奴僕に扱われたなら、こんな丁寧な文言を使わなかったであろう。

そもそも、大聖人は御入滅して本土に帰りたまへば、下方空中常寂光土に、六万恒河沙の諸大菩薩の眷属に上首として尊ばれるご身分である。故に、何の不足を感じて三徳有縁の釈尊までを奴僕とする必要などあるわけがない。

石徒(日蓮正宗)は、宗祖を褒め持ち上げる奉らんとして還って、宗祖を大慢の外道と同様にしてしまうことは恐ろしいことである。

「月氏の大慢婆羅門は・・・世間に尊崇する者は大自在天婆籔天那羅延天大覚世尊此の四聖なり我が座の四足にせんと座の足につくりて坐して法門を申しけり、」(撰時抄・昭定1039頁)

とあるが、色は替われども釈尊を奴僕とすることは、大慢婆羅門の慢心と同様である。大聖人がどうして、このような無礼を命じることがあろうか。

龍口の大難にも離したまわず、佐渡の島でもただ此の尊像を本尊と憑のみ、ご臨終まで離し給わなかった故に、世に随身仏と申すのである。何れの御書を拝しても、釈尊を奴僕とするなどとの文は見えない。石徒の主張は、恐ろしき罵仏であり堕罪必定であろう。】

と、批判しています。

「釈迦は脱仏、用無しの仏」と釈尊を軽視する大石寺の方では

「墓の傍に捨て置かれた」と解釈して、日蓮聖人が釈尊像を軽く扱ったと主張しているのですが、「御遷化記録」を見てみますと、

「御遺言に云わく

仏は(釈迦立像の事)墓所の傍に立て置く可し云云

経は( 注法華経の事)

同じ墓所の寺に篭め置き六人香花当番の時之れを被見す可し」

とあります。

「注法華経」を「同じ墓所の寺に篭め置き」と有ります。

「同じく」の意味は、釈迦立像と同じくとの意味と思われます。

故に釈迦立像は「墓所の傍に立て置く可し」とあっても、墓の傍の墓所の寺に置くことを意味すると、理解したほうが良いのではないでしょうか。

いずれにしても、釈迦立像を墓の脇に捨て置いて雨ざらし状態にして置けなどと云う御遺言などではないでしょう。

 

釈尊の命を受けた使者として、釈尊に信順し給仕報恩の誠を尽くされた御自身の事跡を後世に示し伝える為めに、また、死後も釈尊にお仕えする立場であることを表徴するために、「墓所の傍」に奉安することを御遺言されたと解釈すべきでしょう。

 

釈尊一体像でも、寿量品の仏(無始久遠三身具足の釈尊)として

拝しえるから、文永七年九月(中尾堯教授は建治三年説)の富木殿宛『真間釈迦仏供養遂状』に、

「法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせて」(457頁)

と教示され、

四条金吾宛の建治二年七月の『釈迦仏供養事』にも、四条金吾さんが釈迦仏木像一体を造立したことに対して、

「此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ、優填大王の木像と影顕王の木像と一分もたがうべからず、梵帝日月四天等必定して影の身に随うが如く貴辺をばまほらせ給うべし」(1184頁)

と教示されているのでしょう。

 

ところが、大石寺の方では、「予が法門は四悉檀を心に懸けて申す。と有るが如く、当時の檀信徒に一時的な方便をもって釈迦像を祀ることを容認され褒められたのである」などと云って、日蓮聖人は内心としては釈迦像を祀ることには反対であったと云うような事を説いています。これも理に合っていない言い訳です。

 

「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか、」(太田左衛門尉御返事1496頁)

とあるように、「強ちに成仏の理に違わざれば 」とあって、「成仏に重大な関係の無い事柄については、相手の気持ちや考えに添って説明してもよい」と云う文意です。

しかし、本尊は仏道修行上、極めて重大な事柄です。折伏すなわち対治悉檀を面にされて弘経された日蓮聖人が、信徒に向かって、こと、本尊について方便的な教示をするわけはありません。

まして富木殿や四条殿は身命を賭して日蓮聖人に信順している強信の人です。日蓮聖人が「駄目」と教示したら「はい承知しました」と信順される人たちです。この人たちに「方便的な本尊」を勧めることなど有るわがないでしょう。

弘安二年五月の富木殿宛の『四菩薩造立抄』に、

「本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき、」(1647頁)

とあるように、日蓮聖人は「本門寿量品の久成の釈尊を表現するには、四菩薩を脇士とすべきである」と教示されていたことは確かです。

「中山常師目録」(富木殿の記録)に一尊四士像があり、「中山祐師目録」には、中山本妙寺に、二尊四士像が在ると記しています。

中山法華経寺の一尊四士像は『四菩薩造立抄』の教示に基づいて造立されたものでしょう。

 

日蓮宗では本尊形式として

一尊四士像。

二尊四士像。

大曼荼羅。

の三形式があります。

大曼荼羅と二尊四士像とは紙木広略の異なりで、ともに本門八品の化儀に基づいているとします。

二尊四士像の文証としては、

文永十年五月『諸法実相抄』の、

「日蓮末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏迹門宝塔品の時涌出し給う多宝仏涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等を先作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり、」(725頁)

との文。

一尊四士像の文証としては、

『観心本尊抄』の

「地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(720 頁)

との文。

弘安二年五月『四菩薩造立抄』の、

「本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき、・・・本門の教主釈尊並に本化の菩薩を造り奉りたる寺は一処も無し・・・久成の教主釈尊並に久成の脇士地涌上行等の四菩薩・・・本仏本脇士造り奉るべき時なり」(1647頁)

の文などが有ります。

 

ところが、日蓮正宗や創価学会では、日蓮聖人のこうした教示を無視して、「一尊四士像などは本尊にならない」などと主張しています。

しかし、先学が指摘していますが、日蓮正宗の派祖の日興上人の確実なる書の

『与波木井書』に

「仏は上行無辺行浄行安立行の脇士を造り副えまいらせて、久成の釈迦に造立しまいらせ給うべし」(宗全第二巻169)

とあり、

『原殿御返事』に

「日蓮聖人の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未だ木像は誰も造り奉り候に・・・

御力契い給わざれば、御子孫の御中に作らせ給う仁、出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし」(宗全第二巻172)

とあるので、日興上人は久成の釈尊に副えれば本尊として容認していたことがわかります。

もっとも、日蓮正宗や創価学会では、「与波木井書」「原殿御返事」の教示は方便的な教示であると言い逃れを云います。

しかし、日蓮聖人の教えを護ることに厳格であったと云われる日興上人が、重大な本尊に関して、方便的な教示をしているとは首肯できません。

日蓮正宗や創価学会では、

「当今、下種の時、至れり。本因口唱の人法を用て、以て本尊を定べし。法はいわく南無妙法蓮華経なり。人はいわく大聖人なり。

観心本尊抄に『此の時、地涌千界出現して、本門教主釈尊を脇士として』とある。この文は、釈尊を以て地涌の脇士と為すと云う意味である。色相荘厳の本尊は是れ、在世脱益の形像であって、都て末法には用無いものである」などと主張しています。

 

この主張に対して、

日蓮宗の先師が(祖書綱要刪略巻の七)次のように、批判しています。

【彼等が証文としている観心本尊抄の文は、地涌千界が出現して、地涌の四菩薩を脇士とした釈尊を本尊とすると云う文意であって、是れは一尊四士像の根拠となる文である。

観心本尊抄では、この文より前の方に、「地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり、例せば大公・周公旦等は周武の臣下、成王幼稚の眷属。武内の大臣は神功皇后の棟梁、仁徳王子の臣下なるが如し、」

とあって、周の武王、神功皇后を久成釈尊になぞらえ、成王、仁徳を衆生になぞらえ、幼稚の成王を補佐した大公・周公旦や、神功皇の御孫の仁徳の補佐をした武内の大臣を以て地涌に類している。

臣下は君主を補佐し、君主は臣下を左右におく事が道理である。臣下が還って君主をして眷属と為す事はない。

また『観心本尊抄』には、

「我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」(719頁)との教示がある。弟子が師を脇士とする道理もない。

それなのに、正宗などは、こうした前後の文を無視して、「為」の字を曲げて訓じて、地涌が釈尊を脇士とするなどと、恣に倒解をしている。

また彼等は、「色相荘厳の形像は末法には用無し」といって一尊四士像などを否定している。もしも、「色相荘厳の形像は末法には用き無し」ならば、大曼荼羅をも除却しなければならないであろう。

と云う訳は、「御義口伝に云く。霊山一会儼然未散の文なり、・・・時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出ずるなり・・・本門事の一念三千の明文なり御本尊は此の文を顕し出だし給うなり、」(御義口伝)とある。

故に、大曼荼羅は霊山一会厳然の姿でもある。其の倶に霊鷲山に出ずるの仏菩薩等は此れ色相荘厳の聖容ではないか。

もし、「大曼荼羅中の諸尊は色相を離れている」と言い訳するなら、

その言い訳は、「此等の仏菩薩大聖等総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」(日女御前御返事・1375)との教示に背くことになる。】

以上のように一妙院日導上人が(「綱要刪略」)批判しています。

 

重複しますが『祖書綱要巻二十二』に有る、大石寺門流の本尊観に対する批判を次に紹介します。

 

【大曼荼羅と二尊四菩薩とは、名像と木像と、広と略との異りのみにして、倶に是れ寿量品の三千常住所化同体、己心本尊の相貌なり。

もし、吾が門流の諸山の木像の本尊を斥つて、在世脱益末法無益の本尊と為せば、則ち大曼荼羅もまた当今無用の本尊とするや。

在世色相荘厳の仏菩薩等の名号を書き顕したまうが故なり。

もし会して「大曼荼羅の中に書き顕したまう所の釈迦多宝本化迹化等は在世脱益色相荘厳の仏菩薩に非らず」と云わば、本尊の名義に違す。

『日女抄』に、具に本門八品虚空会の為体を挙げ畢って云く

「此等の仏菩薩大聖等、総じて序品列座の二界八番の雑衆等、一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是れを本尊とは申すなり」と。文に、此の御本尊中と曰いたまえるは、日女尼に授与したまう所の大曼荼羅なり。

謂く上に挙げる所の虚空会の諸仏菩薩大聖等、総じて序品列座の二界八番の雑衆に至るまで、一人も漏れず此の大曼荼羅の中に住して、妙法五字の光明に照らされて、本有無作の尊形と為る、故に本尊とは云うなりと、文意此の如し。

明らかに知んぬ。大曼荼羅勧請のの諸尊とは、在世色相荘厳の妙体を改めずして、直ちに本有無作の尊形なることを。

是の故に色相荘厳の仏像を以て、当今無益の本尊と為さば、須くまた大曼荼羅を除去すべし。何ぞ従来安置の仏像を除去して、更に大曼荼羅を奉懸せんや。

問う。彼の門徒(大石寺)また云く

「日興門流には、血脈相承の奥義有って、釈尊上行日蓮大聖人三名即一体なりと談じて、大聖人を中央に移したてまつり、人の本尊と為して之れを尊敬したてまつると云々」此の義如何。

答う。人法一箇の本尊とは、所謂、南無妙法蓮華経是れなり。

『御義口伝』に云く

「無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり。寿量品の事の三大事とは是れなり」と。

『諸法実相抄』に云く

「釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏なり」と。

当に知るべし、仏に約すれば則ち是れ本仏釈尊なり、法に約すれば則ち是れ題目の五字なり。豈に人法一体の本尊に非らずや。

故に『本尊抄』に云く

「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於いては・・八品を説いて之れを付嘱したまう。其の本尊の為体・・正像に未だ寿量品の仏有さざず。」等と。

是れ則ち唯一箇の大曼荼羅、上よりして之れを云はば則ち法のほんぞんなり。下より之れを云はば則ち人の本尊なり。豈に人法一箇の大本尊に非らずや。

また、釈尊上行日蓮大聖人と三名即一体と談ずとは、是れ一体なりといえども、しかも差別有り。釈尊は是れ総体、四大菩薩は是れ別体なり。釈尊は本有の仏界、四菩薩は釈尊所具の菩薩界なり。釈尊は本有の本尊、四大菩薩は本有の脇士なり。高祖は佐前に於いては天台宗の日蓮、佐後は乃ち上行菩薩の後身なりと。豈に全く三名一体ならんや。】(68紙~70紙)

 

また、永昌院日鑑上人も『金剛亀羊辨巻上』(宗学全書第六巻391~394頁)に、日蓮正宗(創価学会も同様)の「大曼荼羅御本尊とは、法は南無妙法蓮華経、人は日蓮大聖人とする人法一体の御本尊である」と云う主張に対して、一妙院日導上人とは、また別の面から、下記のように、批判しています。

 

【問うて云く、

石徒が、「人法体一とは南無妙法蓮華経は蓮祖の御魂、即御身の当体なり。「日蓮がたましいを墨にそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり。日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(文永十年八月・経王殿御返事)

「去れば無作三身とは法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(御義口伝下)

とある。この文は、南無妙法蓮華経は大聖人の宝号であると云う意味である。

「妙法蓮華経は名にはあらず、我が身の体なり。我が身法華経にて法華経は我が身をよび顕し給うなり(略抄)」(正嘉二年の十如是事)此の文によれば、妙法蓮華経は高祖の御身当体であり。他門流は「我が身」と有るを見て、「我等凡夫の事」だと解釈するが、是れは不相伝の故にそう解釈してしまうのである。当門の意は我が身と云うは蓮祖の御事と云うが第一の相伝である。

と、主張しているが、

『経王殿御返事』についての石徒の解釈を批判すれば、

題目と法華経と各別と心得たるは文盲至極なり。総別の不同なり。法華経を離れたる題目なく、題目を離れたる法華経なし。もし法華経なき題目は袋なき宝珠なり、もし、題目なき法華経ならば、宝珠なき宝蔵の如し。

『文句記一(本六)』にも、

「妙法の唱えはただ正宗のみに非ず、二十八品倶に、妙と名づく故に、故に品品の内、咸く体等を具し、句句の下通じて妙名を結す」とある。二十八品即ち妙法蓮華経であると云うことである。(是一)

また『一代大意抄』にも、

「一部八巻(乃至)一一の字の下に皆妙の文字有るべし。是れ能開の妙なり。」とあり、

『法華題目抄』にも、

「妙とは具足の義なり。具とは円満の義なり。法華経の一一の文字に余の六万九千三百八十四文字を納めたり。たとえば海の一滴の如く如意宝珠の如し(略抄)」とある。

これらの文によれば、法華経と題目と各別で無いことが分かる。

「仏の御心は法華経、日蓮が魂は題目」との書かれたのは、ただ文の彩である。(是二)

次に『御義口伝』の文についての石徒の解釈を批判すれば、

 

無作の三身とは末法の法華経の行者と判じられている。それなのに、大聖人御一人の事だと限ることは、浅ましきことである。

万法無作の覚体と説き顕す是れを妙法と云うのである。しかるを高祖御一人に限ると解釈することは、妙法を還って麁法としてしまうことになる(是三)

『十如是事』の文についての石徒の解釈を批判すれば、

「妙法蓮華経は我が身も体なり」と遊ばすは、十界己己の当体、即ち妙法蓮華経の体と判じられているのである。

石徒が如く、ただ高祖御一人に局しめば、法華経に背き御書に乖(ソム)く。(是四)

『当体義抄』に云く、

「問う。一切衆生皆悉く妙法蓮華の当体ならば、我等が如き愚癡闇鈍の凡夫即妙法の当体なりや。答う。(乃至)実経の法華経を信ずる人即当体の蓮華、真如の妙体是れなり。」と。

また、云く、

「所詮、妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是れなり。(乃至)無作の三身本門寿量の当体の蓮華仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。」と。

御書明らかに日蓮一人に限ると仰せられず。もし限ると仰せあれば妙法にあらず、麁法なり。(是五)

予が門流は日蓮法華宗なる故に阿鼻の依正、妙法の当体と談ず。況や我等衆生をや。石徒は魔王の相伝宗なる故に蓮祖御一人に局らしめ、仏法の深義を破壊するのみ(是七)。】(以上、金剛亀羊辨巻上。宗学全書第六巻391~394頁の要旨)

と批判しています。

 

『経王殿御返事』の

「日蓮がたましいを墨にそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり。日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」の文は、

「日蓮が全身全霊を籠めて書きました。釈尊の御心は妙法五字を説き置いてある法華経である。日蓮は釈尊の御心を受け止めて、その妙法五字を最も大事なものとして、命がけで護り弘通している。故に妙法五字はまさに我が魂である」

との文意でしょう。

 

「妙法蓮華経と申すは総名なり二十八品と申すは別名なり」( 四条金吾殿御返事・665頁)

 

「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり、」(曾谷入道殿御返事・1409頁)

 

「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」(四信五品抄・1298頁)

と有りますから、上の、日鑑上人の指摘通り「題目と法華経と各別ではなく、総別の不同である」でありましょう。

 

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