大乗仏説についての諸学者の見解。

井上円了博士の見解。

《  大乗仏説非仏説の断案
余おもえらく大乗は仏説非仏説を今日に於いて論ずるは水掛け論の甚だしきものなり。今を去ること二千余年の古にありて印度の地に起こりし非仏説論すら水掛け論となりて遂に勝ちを制すること能わざりし問題が、今日に於いて決すること能わざるは無論の事なりと信ず。

もし今日にありては到底仏説とも非仏説とも決すべき確証を得難きに於いては、我が日本の如き既に千数百年の間、仏説として伝え来たり大乗は、やはり仏説として後世に伝えて毫も不可なることなかるべし。たとえ之を非仏説とするも、現今の佛教を佛教として弘むるには何等の差し支えあるを見ざるなり。
大乗仏教を非仏説と論断するは一種の懐疑より起こる、故に其の論者は懐疑派の一人に加えて可なり。もし懐疑の眼光を以て論断すれば、独り大乗のみならず、小乗もまた非仏説と云わざるべからず。是れただ五十歩百歩の相違なり。なんとなれば今日伝われる大小両乗の経論は一として釈尊自ら編述せられたるものにあらずして、悉く仏滅後遺弟の手に成りしは皆人の知る所なり。

我人、阿難迦葉等を信ずるより小乗は真に仏説なりと判ずるも、もし之を信ぜざるに於いては小乗もたちまち非仏説となるべし。阿難迦葉其の他の羅漢は皆大いに記憶に富み仏の説法を一言半語も漏らさず余さずして之を結集したりとするも、尚ほ小乗は未だ仏説の真相を伝えたるものと許すべからず。
その故如何と云うに、
第一に仏の説法は応病与薬にして機根に応じて説かれたりとするも、仏其の人は広大無辺の思想を有し、之を聴く所の羅漢連中は小乗劣根にして、狭隘なる知見を有すとすれば、仏所説の法の小部分が僅かに聴衆の脳中に入りて留まる道理なり、之を喩ふるに、太陽より発する所の光線は広大無辺なれども、我人の眼孔中に入るものは其の最少部分なるが如し。
故に阿難迦葉等の脳中に入りて記憶に存する部分は決して仏所説の法の全壁に非ずして、幾分の断片に過ぎざること明らかなり。
また其の間には誤聞誤解なきを保すばからず。是れなんぞ仏説の真相を伝えたりと称するを得んや。
もし細密に之を論ずれば、言語文章は人の思想を表詮する唯一の器械なるも、其の力よく思想の全分を表詮すること難し。是れを以て往々言語文章の為めに思想の誤聞誤解を招くことあり。しかのみならず、もし広大甚深の思想に至っては到底言語文章のよく尽くす所にあらざれば、言語道断とも廃詮断思とも言亡慮絶とも云うなり。
果たしてしからば仏の言語の上に発したる説法は仏の思想大海の真相全分を表詮する能わざるは疑いを容れず。之を聴受せる羅漢達の見解及び其の結集はまた仏説の真相全分を伝えざるは明らかなり。
故に大乗のみならず、小乗も仏説を直伝せるものと謂うばからず。かくして釈尊と迦葉阿難の間に誤聞謬伝ある上に、祖祖相承のあいだには一層の誤聞謬伝あるべし。
そのしかる所以は祖々相伝の間に小乗教中に20部乃至五百の異論を生じたるを見て明らかなり。是れ一は言語文章は不完全なるより起こり、一は祖々相伝の見解同じからざるより起こる。その上に我々が今日仏教として学ぶ所は襟度の原文にあらずして、支那の訳文なり、而して我々はその訳文を支那及び日本の先輩諸師の註釈に拠て講ずるものなれば、その間には幾層の誤解謬伝あるや計るべからず。是れに由って之を観るに、大乗も小乗もすべて仏教は皆な非仏説なりと断定するも一理ありと謂わざるべからず。
此の如く懐疑的に論断すれば、大小乗とも非仏説の疑難を免れず。もし祖々の相伝を始めとし、今日に伝われる経論は皆な仏説の真相を得たるものと信ずつときは、小乗も大乗も共に仏説と論断して可なり。而して二者の相違は五十歩百歩の等差に過ぎざるなり。

其れ本土たる印度にありて大乗非仏説の疑難を起こすものありしは、大乗の興隆に際して之を抑圧せんと欲する反対者の言論なること疑いなし。
仏滅後百年を経て小乗に上座大衆の二部競い起こるに当たりて、常座部は大衆部の説を斥して妄言妄語となせしことあり。是れ小乗の一部より他部を見て非仏説なりとなすものなれば、小乗家が大乗を斥して非仏説となすは当然のことにして、敢えて怪しむに足らず。已に我が邦に在りては日蓮上人は他宗を斥して念仏無間禅天魔真言亡国律国賊と公言したるあらずや。
是に由って之を視るに、小乗家及び外道にありては大乗の勃興して其の勢い他を圧せんとするを見て、之を排斥せんとするの余り世間に対して非仏説論を提出したりしも、敢えて其の論点を証拠として大乗は真に非仏説なりと断定するを得んや。
顕揚論唯識論等に大乗非仏説論に答える論理の極めて薄弱なるを見て、余は非仏説論者の論点のまた極めて薄弱なりしを知る。
なんとなれば、もし非仏説論者の方に鞏固なる論拠あるに於いては、此の如き薄弱なる答弁を以て世人に満足を与うること能わざりしは明らかなり。之を喩うるに昔時の城壁や砲台の弱小なるは敵勢の微弱なるを示すと同じく、答弁の薄弱は問難者の論拠の薄弱を示すものと知るべし。
およそ佛教家の記憶すべきは仏教と耶蘇教とのその性質を異にする点を知るにあり、耶蘇教は単純の天啓教にして、仏教は天啓教に道理教を兼ねたるものなり。世間仏教を評して一半は哲学、一半は宗教なりと唱うるは、天啓兼道理教なるに由る。もしそれ天啓教の見解に依るときは、大乗非仏説論に対して、飽くまで仏説の弁護を要するも、之を一種の道理教とするときは、仏説非仏説の問難は孰れに決するも差し支えなかるべし。
もし大乗は迦葉の新造なりとせば、迦葉其の人を仏祖として崇拝して可なり。大天より起こるとすれば、大天即ち仏なり。龍樹より始まるとすれば、龍樹即ち仏なりとして敬重して可なり。
ただ仏は宇宙の真理を開発せるものなれば大乗の真理を発見したるものは、みな大乗の仏祖たるべき道理にして、必ずしも三千年古迦毘羅衛国浄飯王の子たる悉多太子に限るを要せんや。
既に仏教中に小乗の外に大乗ありて現に行わるるとすれば、必ず之を開説せるものなかるべからず。その初めて開説せる人を大乗の祖と定めて可なり。馬鳴にても龍樹にても、印度人にても、支那人にても、敢えてその人の如何によりて其の説を上下するを要せんや。
また我々が仏教を信ずるにも其の説の高妙甚深にして、而もよく凡俗の迷いを転じて悟りを開くことを得る点にある以上は、之を説きたる人の如何に依って大乗の価値を異にするの理なし。換言すれば仏教を信ずるは其の説の高妙なるを信ずるにありとすれば、如何に大乗非仏説論のガクガクとして四隣に喧びしきも、毫も意に介するに足らざるなり。請う我が国の仏者が大乗を奉信する点は何れにあるかを見よ。
其れ之を信ずるは小乗と大乗とは其の祖を同じうする点にあるか、はたまた大乗の教理は小乗より高妙甚深なる点にあるか。
仏者は必ず之に答えて大乗の教理は小乗より高妙なるにありと云わんのみ。果たしてしからば大乗非仏説問題は我が国の仏者に対しては痛くもかゆくもなき争論なれば、傍観座視して其の勝敗の決するを見て可なり。
然るに耶蘇教は之に異なりて、もし他教より「バイブル」は悉く皆な非基督説との疑難提出せらるときは、必死を以て弁護せざるを得ず。是れ単純の天啓教なればなり。
仏教は一半道理教たる所以は、其の教説はすべて真理を以て本となすを見て知るべし。故に仏教にては世間一般の学術といえども、いやkしくも真理を本とするものは皆な是れ仏説となす。其の証は涅槃経文字品に出ず。
曰く「仏、迦葉に告げたまわく、善男子よ所有(あらゆる)種々の異論呪術言語は皆な是れ仏説なり」是れ一切の学術皆な仏説なりとの意にあらずや。果たして然らば釈尊は此の世に生まれて宇宙の真理を我人に啓示せられたるものにして、仏説は宇宙の真理を説きたるものに与うる名目なりと解して不可なかるべし。
もし此の解釈に依るらば大天の説でも、龍樹の説でも、いやしくも宇宙の真理を胚胎する以上は、皆な仏説と称して可なるべき道理なり。故に仏教を道理教として観るときは、大乗非仏説論は佛教の利害得失に更に関係なきを知るべし。
仏教は一種の哲学にして、其の所立の教説は多く之を哲理に考えて証明するは、正しく其れ道理教たる所以にして、予は之を哲学的宗教と称す。
倶舎にありて七十五法を立てて論ずるも、唯識にありて百法を分かちて論ずるも、みな世間もしくは宇宙の道理に訴うるものなれば、之を哲学的論究と謂わざるべからず。
かくして仏教は一種の哲学なる以上は、大乗非仏説問題は毫も仏教の価値を下落するに至らず。殊に仏教中には禅宗の如き不立文字教外別伝の宗風を伝え、釈迦何人ぞ我れ何人ぞの主義を取るものあり。これらの宗旨にありては大乗非仏説の攻撃は全く徒労に属する道理なり。故に仏教其の物に就いては大乗非仏説論は一二の蚊か蚤が大象の手足に触るるよりもなお其の痛みを感ぜざるは余が信ずる所なり。
然れども仏教は一半、天啓教にしてその宗教たる所以は、全く此の天啓の部分にあり、故に更に天啓教の方面より大乗非仏説の影響如何を考えざるべからず。もし之を天啓教とすれば、耶蘇教と同じく、釈迦は人間以上の仏世尊にして、涅槃の都城より此の土に来現して十九出家三十成道の跡を垂れ玉へる者と為さざるべからず。
しかるときは大乗も小乗も同じく一仏の所説にして釈尊の啓示に出づる者となさざるを得ず。是に於いて大乗非仏説論の大いに影響する所あるを知るべし。故に余は是れより大乗は仏説なりとして論明せんと欲す。
大乗仏説論も非仏説論も積極的に証明すること能わずして、消極的に証明せざるを得ざることは前に論じたる所によりて明らかなり。もし消極的に証明せんと欲すれば、一には発達的に考うると、一には存立的に考うると、二様の見解あるを知る。
第一の発達的見解とは、
釈迦は大小二乗を説かれたるに相違なきも、滅後の発達は小乗先ず行われて大乗後に興るは発達の順序なりとす。或いは釈迦は小乗の内部に大乗を含めて説かれたるを以て、滅後の発達も小乗の内部より大乗を開発するに至れりとなす。
外面より忽ち之を見れば、小乗と大乗とは全く別物なるが如きも、内実より深く之を検すれば、大は小を離れず、小は大を離せず、大小両乗其の躰一なるを知るべし。
而して其れ開発するや、小乗の枝葉先ず成りて、後に大乗の花実を現ずるは、実に発達の順序なり、もに理論上僅かに小乗の説を延長拡充すれば、忽ち大乗の理に達するは仏教の一端を窺うものの皆な知る所なり。果たしてしからば小乗は其の躰内に大乗を包含するもの、即ち大乗内包の教説なること明らかなり。
此の如く解し来たらば、釈尊は大乗を説かずして、独り小乗を説きたりとなすも敢えて不可なることなし。換言すれば釈尊は大乗内包の小乗を説きて、後人をしてその中より大乗を開発せしむる様に説き示されたりとなすも、敢えて不当にあらざるべし。而して其のしかる所以は小乗と大乗との関係を一言すれば容易に了知することを得るなり。
古来仏教に三法印と称するものあり、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静是れなり。此の三印は仏教の真偽を鑑定すべき標準なれば、小乗は勿論大乗といえども、此の三印を具せざるはなし。
大乗は別に実相一印を以て標準と立つる説あれども、其の実、三法印を離れたる者にあらず。唯だ三法印中、涅槃寂静を説くこと小乗より詳かなるのみ。
小乗は表面より世間の転変無常を観察して、最後に不生不滅の理あることを説き、大乗は専ら不生不滅の理を開説したるは、両乗の相違なる要点なり。はたして然らば、大乗は小乗を延長もしくは拡充したるものに外ならず。是れを以て大乗家は決して小乗を非仏説視せず、他人視せずして、却って之を助けて己の説を進長する要具となせり。故に小乗の中には大乗の全分もしくは過半を包有すと称して可なり。
是れに由って之を観れば、小乗にして真に仏説なれば、大乗は別に証明を待たずして仏説たるの権利を有すと謂うもあに敢えて理なしとせんや。
かくして小乗は其の胎内に大乗を包有せる孕婦にして、釈尊滅後漸く生育して大乗の胎児を産出せりとなすときは古来の伝説と照合するを得べし。
けだし大乗は馬鳴龍樹に始まると称するも、小乗異部二十部中には、大乗と其の差一髪を隔てざる者あり、大天の説は大乗の一端を唱道したるものなりとは、先輩の既に論ずる所なれば、大天以来漸く大乗の開発ありて、馬鳴龍樹に至れるが如し。是れ皆な小乗の胎中に内包せる大乗を外発したるものに外ならず。然るに世間此の説明を聞きて是れ山芋より鰻を生じ、雀より蛤を生ずるの論法なりと評するものあらん。
然れども今日の仏教は大乗中といえども、種々なる変遷発達を経て此に至れることは、小乗より大乗を生じたるの比にあらざるなり。今日の天台なり、華厳なり、真言なり、禅、浄土なり、皆な二千年の古代印度にありては全く見ざる宗旨にあらずや。
況や真宗日蓮宗に於いておや。此の如き宗旨は印度に於いて見ざるも、日本の仏教家は二千年前の印度仏教の胎中に内包したるものなりと解するに相違なかるべし。果たして然らば馬鳴龍樹以後の大乗は其れ以前の小乗中に内包すと謂うも、敢えて不可なるの道理あらんや。
故にもし今日の大乗仏教の馬鳴龍樹の大乗仏教に於けるは、馬鳴龍樹の大乗教が大天の小乗仏教に於けるが如しと云える比例を立つることを得るならば、小乗の仏説なるは大乗の仏説なる所以なりと断定して不可なかるべしと信ずるなり。
以上は佛教発達上に於いて大乗の仏説なる所以を論じたりしが、仏者中には大乗も小乗も釈尊在世の間に兼説し玉ひ其の滅後も併せ行われたることの証明を望むものあるべし。
余おもえらく之に三種の証明あり、
其の一は口伝密授説、
是れ普寂師等の唱うる所なり。其の説に依るに、釈尊は在世の間、小乗と大乗とを兼説したるに相違なきも、大乗は釈尊の極意を説きたる者なれば、其の滅後之を相伝するもの世間に対しては独り小乗を伝道し、深く大乗を秘して人に知らしめず、ただ師弟相承の際、口伝を以て密授したるものなり、故に大乗は仏滅後数百年の間には経典文字を以て世につたはざりしに相違なし、是れ大乗経の馬鳴以前に伝わざりし所以なり、然るに仏滅後数百年を経て外道諸派漸く勃興し、大いに理論を闘わすに至り、仏教の小乗にては到底是れと雌雄を争うこと能わざる勢いなれば、馬鳴龍樹の如き諸氏は従来口伝にて密授したる大乗の法門を世間に開示し、以て外道をして其の後に瞠若たらしむるに至れり、是れ馬鳴以後大乗の俄に興りし所以なりとす。
此れ秘密伝受は古来印度に行われたる一種の風にして、日本の仏教にもなお其の風を存ぜり。其の他柔道剣道の如きもその極意に至りては口授密伝を守る者となれり、是れに由って之を推すに大乗の口授密伝説もやや一理あるが如し。

第二に大乗非仏説の弁護は時機相応説なり。
最初、釈尊は大小両乗を兼説したるも、其の滅後時機相応の法と不相応の法との別ありて、小乗は能く時機に相応したるを以て世に行われ、大乗は時機に不相応なるを以て漸く滅亡するに至れり、然るに馬鳴龍樹の時代に至りては、時世一変して大乗相応の時機となれるを以て、従来世間に埋没したりし大乗仏教が、山間の僻村もしくは海外の孤島より捜り得て、之を世に伝えたりしならん。
古来龍樹が大乗教を竜宮より将来せりとの伝説に就きて、大いに疑団を懐く者ありて、付会の説、随って起こり、却って世人をして惑わしむるに至れり。其れ一説には龍樹将来とは自己の心門を開きて其の中より現示したるを云うと為す者あれども、是れ禅家流の解釈にして、大乗教は以心伝心を以て相承したりと為さば、其の説明にて足るべしとおえども、大乗非仏説の疑難は以心伝心を云うに非らざること明らかなれば、己れの心を指して竜宮と為す説は決して取るべからず。
余、おもえらく竜宮とは海外の孤島を云うならんか。古来支那及び日本に竜宮に遊ぶの説あるは、多く海外の孤島を云う、古代風波の為めに漂泊して孤島に着し、未だかって見ざる異人及び異風に接する時は、必ず奇異の思いを為し、竜宮もしくは仙境と為せり。古代他邦おり日本を呼びて蓬莱と為し、あるいは徐福が不死の薬を此の地に索めたりとの伝説は、元より信ずるに足らずといえども、古来海外の孤島を竜宮仙境と考えし一例と為すに足る。
また浦島太郎の竜宮談の如きは、もし之を実説とすれば、海外の孤島に漂泊せし者と考うるより外なし是れによって之を推すに、龍樹の竜宮談も海外の孤島を云うならんか。しからざれば山間の孤村にして人跡の多く到らざる処ならん。
かくの如き場所は世間より仙境霊地と呼ぶことは、古代に於いて孰れの国にもあることなり。而してかかる孤島もしくは孤村には一時世間に廃滅したりし古代の風俗言語を伝えて後世に及ぼすものなれば、仏滅後一時世間に廃れたる大乗仏教が斯の如き僻地に存すべきは道理上、やや信ずるに足る。果たして然らば龍樹の竜宮将来は世間普通の道理を以て解説するを得べし。

第三は地位相応説なり。
古来の学者は教法には時機相応と不相応との別あるを説くも、未だ地位相応と不相応との別あるを説かず。
是れ其の一を知りて其の二を知らざる論なり。故に余は此に地位相応論を掲げて大乗仏説の一証と為さんと欲す。
地位相応とは、土地及び気候の異なるに従うて、人の思想も嗜好(しこう)もまた異なりて、之に弘まる教法上に相応と不相応との別を生ずるに至るを云う。尚ほ時機に相応不相応の別あるが如し。
例えば日本は古来之を称して大乗相応の地と為し其の初め大乗小乗共に此の国に伝わりしも、小乗は早く滅びて、大乗のみ独り存するに至れり。是れ日本の地理気候人心人情の大乗に適して小乗に適せざる所以なり。之に反して印度は昔時大乗小乗共に行われしも、今日は大乗を失って唯小乗のみ存するは、其の地味人情が小乗に適して大乗に適せざる所以なり。・・・・
今哲学思想と地理気候との関係を一言するに、山深く谷幽に之に加うるに気候寒冷なる土地に住する者は多く深遂なる思想を有す。之に反して気候温暖にして而も海浜に接し、交通便なる場所に住する者は思想深からずして万事多く実際を主とするに至る。
蓋し西洋に在りて独逸哲学は尚、深遂の趣ありて、英国哲学は経験実際に傾く風あるは、地理気候と人心との関係あるを証するに足る。また支那に在りては孔孟の学風と老荘の学風と大いに其の趣を異にし、前者は実際に適して解し易く入り易く、後者は深遂幽玄にして解し難く入り難し、是れ老荘の地方と孔孟の地方とは山海其の地位を異にするに由る。・・・
是れに由って之を観るに、地理と思想とは大いなる関係を有し、従って地理気候の異同に応じて学問宗教の適不適を見るに至るを知るべし。・・・
そもそも印度の地たるや自然に半島の形勢を有し、北方に山を負い、東南西三面海をめぐらし、中央に恒河信度の如き大河横流するあり。之を以て中央及び南方と北方とは地勢上山海高低の異同ありて、従って気候上大いに寒暖の不同を見るに至る。果たして然らば人の思想も南北其の処に応じて大いに不同あるを免れず。従って学術宗教も北方に適するものと南方に適するものとは必ず大いに異ならざるを得ず。此の理を以て大小両乗の其の伝来を異にする所以を知るに足る。
釈尊は其れ在世の間に小乗と大乗とを兼説したるに相違なきも、其の滅後に至りて大乗の深遂幽玄なる哲理は印度の中央及び南部の気候炎熱交通自在の地に適せずして早く之を失うに至り、北方喜麻拉山の近傍地位高く気候寒冷なる場所に至れば、独り大乗の哲理の之に適するありて、仏滅後永く其の地に行われたりしは明らかなり。
是れより仏教が北方西蔵及び支那の諸国に伝播するに及びては、独り大乗教の適するを見るも、また北方の気候と人心とが大乗相応の地なるに由る。
之に反して小乗の如き議論に乏しくして実際に適するものは、印度の北方に伝わらずして、中央及び南部に行わるるに至れり。かくして数百年の後には中央及び南部の人は小乗あるを知らざるに至るはまた自然の勢いにして、敢えて怪しむに足らざるなり。
かくして馬鳴龍樹の時代に至り、北方の山間に埋没せし大乗が漸く一般に知る所と為り、之を中央印度に伝うる者ありて大乗再興の機運を見る至れり。
一度隠れたる大乗が再び世に出でたるは全く時勢変遷のしからしむる所にして、中央印度に諸派の外道競起して其の勢い仏教を圧せんとするに至りしに由る。
けだし小乗仏教は其の理論卑近にして到底之と抗争すること能わざれば、自然の勢い北方の大乗を呼び起こすに至りたるや疑いなかるべし。
然るに中央印度の仏教家は其の当時既に小乗あるを知りて大乗あるを知らざる者なれば、大乗を目して非仏説と為すに至る。是れ中央印度の仏教は小乗仏教の伝灯のみを知るに由る。今日支那及び日本にて伝うる仏滅後の伝灯も矢張りそれ小乗伝灯なれば、大乗仏説を立つるに甚だ困難を感ずるなり。
然れども余が論ずる所敢えて空論臆断にあらず、前に掲げたる法華経伝来の一節に北方雪山の間より大乗を伝え来れりと云う、此の説によれば大乗は北方の山間に行われしは明らかなり。
然るに龍樹竜宮将来の説あれども、其の竜宮とは孰れの処なるを知るべからず。余は之を海外の孤嶋もしくは山間の孤村なりと知る。もし之を孤村とすれば喜麻拉山間の一仙郷より大乗を将来したりしならん。
法華経伝記の説によるに、雪山中に宝塔ありて大乗諸経を収む、龍樹ここに到りて大乗経を得たることを記し、また大海龍王、龍樹を愍れみて七宝函を発して華厳法華等の諸経を授けたることを記せり。是れに由って之を観るに、竜宮とは海外の孤島を指すにあらずして雪山中の一地方なることを知るべし。然るにまた真言にては南天の鉄塔説を伝うれども是れ釈迦所説の教にあらずして大日所説を唱うるものなれば、之を別説として此処に論ぜざるも可なり。
また瑜伽論等の大乗論は弥勒降天して伝えたりとの説あれども、之を世間普通の道理に考うれば、降天説は信じ難し。故に余おもえらく此の当時にありて北方喜麻拉山間の地方より降りて恒河近傍に来たりしものは、之を天より降ると伝えたるならん。
なんとなれば世間一般に北方に須弥山ありて其の山頭に諸天あることを唱えたる時節なれば、北方の山地より来たりたるものを見て、須弥山頂の天より降れりと考うるも当然のことなればなり。
果たした然らば弥勒菩薩都率天より中天竺阿瑜遮国に降りて五部の大論を説きたりと伝うるは、雪山の山中より出でて中天竺に来たりしを云うならん。
而して其の伝灯は仏より弥勒に伝え、弥勒より無著に伝えたりとなすは解し難きに似たれども、名義集によるに弥勒は唐に慈氏と云う、即ち姓なりとあれば、仏在世の時の弥勒と、五部の大論を講じたるものとは同姓異人なるやも知るべからず。
或いは雪山中にありて仏滅後数百年の間、弥勒姓の家にて大乗を伝承したりと解するも敢えて不可なかるべし。
之を要するに大乗伝来は北方喜麻拉山の地方なりしは稍(やや)疑いなきが如し。是れ大乗相応の地なるに由るなり。
以上、余が大乗仏説論の大要を述了したれば、是れより大乗非仏説論者の大乗の開祖と立つるもの誰なるやを考うるに、或いは言う大乗は龍樹より起こると、是れ龍樹が竜宮より大乗経を将来せりと伝うる事実によりて想像せしに相違なきも、龍樹以前に馬鳴ありて大乗を唱えたりし事実を如何に解説するや、馬鳴の大乗と龍樹の大乗と一致する所以如何、かつ龍樹の当時にありては外道婆羅門諸派大いに熾んにして、仏教将に滅せんとする際なれば、龍樹の偽作せる大乗にては決して世人が其の説を容るる筈なかるべし。
けだし其の当時にありて龍樹の説が真に仏説たることの信ずべき点ありしを以て、其の説世間に行われたる者なるべし。
もしまた非仏説論者は大乗は馬鳴の偽作となすも、同一の理由を以て其の説を否定するを得べし。
或いはまた大天の偽作となすも、大天は僅かに小乗部中に異説を立てたるまでにて、未だ大乗を創説せるにあらず。
然るに大天の説は小乗中大乗に近きものなりとして之を視れば、或いは大天は北方所伝の大乗流を探知して、其の理を小乗中に混説したるやの疑いなきにあらざれども、其の伝記明らかならざれば事実の証明を与うる能わず。
或いは大乗は一人一時の所説にあらずして数人数代の所説なりとする説あれども、果たして其の説の如くんば大乗諸派の共に一致し、かつ小乗と道理上契合する所あるの理を解し難し。其の他大乗非仏説論に就きて疑難頗る多ければ、其の論未だ決して信許すべからず。
以上余が所見を一括すれば左表の如し。

大乗仏説論→ 哲学的(道理教)
→宗教的(天啓教)→大乗発達説(内包的解釈)
→大小存立説(外延的解釈)
                →口伝密授説
                →時機相応説
                →地位相応説
仏教は一半哲学的にして、一半宗教的なり。哲学的方面にありては大乗非仏説なるも、仏説なるも敢えて論ずるを要せず。宗教的方面にありては大乗仏説を立てざるべからざるも、是れに内包的外延的両様の解釈さり、また外延的にも口伝、時機、地位の諸説ありて、大乗仏教たるの論拠甚だ多しとす。なかんづく地位説の如きは余が新たに考出したる証明にして、最も仏説論の考証とするに足る。
もし以上の証明は皆な以て信を置くに足らずとするも、之を非仏説とする論者の根拠も矢張り薄弱にして確信し難し。果たして然らば更に数歩を譲り、仏説論も非仏説論も双方共に確乎たる論拠なしとするときは、結局今日まで仏説として伝へたる以上は、矢張り仏説として伝うるより外なしと考うるなり。是れ余が非仏説論に対する意見なり。 》
(大乗哲学附講・抄出)
以上が井上円了博士の見解です。

平川 彰博士の見解。

『法華学報・第四号』掲載の、平川 彰教授の講演要旨「教団の原型」には、
《  私は大乗経典に殆ど例外なく附されている「如是我聞」(聞如是)の語に注目したい。これは第一結集のとき阿難が釈尊から聞いたことを述べたときの言葉とされる。故にこの場合の経典の作者は阿難であるが、その内容は釈尊の説法を主としているから、経の説者は釈尊と観ることができる。
大乗経典が経の劈頭に「如是我聞」の語を置いたのは、無批判に阿含経を真似たというのではなく、彼等自身がその経の内容を仏陀から聞いたと信じていたからと考えるのである。
それは大乗経典は、菩薩達が深い三昧に入って、その三昧の中で体験した宗教体験を三昧からで出てから記述したものと見られるからである。
大乗経典が三昧の体験に基づいて説かれたものであることは多くの学者が認めているところである。
そして三昧における「見仏」の体験が種々の経典に説かれている。
例えば華厳経の「十地品」では、不動菩薩地の菩薩が三昧において、無辺の諸仏を見、これらの仏から教授を受けることが知られる。
郁伽長者経でも、在家菩薩が在家地に住して出家戒を学ぶことを説いており、その中に頭陀戒が加えられていた。この頭陀戒の中に、阿蘭若処において頭陀を行じつつ三昧を修することが説かれていて、在家菩薩でも出家戒を受けて、阿蘭若に住して禁欲生活をなしつつ三昧を修することが可能であることが示されている。
そして、十地経でも、初地の歓喜地や二地の離垢地にも、「見仏」を説き、在家菩薩でも見仏を体験し得ることを示している。初地や二地の菩薩には在家菩薩が含まれているからである。
このような三昧の実習の中で、見仏した仏陀から法を聞いて、それを経典の形で示したので「如是我聞」の語を経の劈頭に置くことになったと考えるのである。 》
(『法華学報・第四号』77頁抄出)
と述べています。
また、平川教授は『大乗仏教の教理と教団』においても、
《 以上、二、三の例を示したが、大乗経典には「観仏三昧」の体験を説くものが多い。そしてその三昧の体験において、仏から教えを受け、三昧から出定してから、定中に受けた仏の教えを中心として、経典を述作したと考えてよかろう。そのために、菩薩がみずから述作した経典を「仏説」と受けとったのではなかろうかと考える。
大乗経典には、仏陀が三昧に入り、その三昧を出てから説いたとなす形式の経典がある。あるいは弟子が、仏の威神力、加持力を承けて、説法をなしたという形式の経典もある。このように大乗の経典は、経作者たちが自己の背後に仏陀の支持力を感じて、その力に乗じて経典を作ったと見られるのである。そこに深い宗教的な体験が認められる。そのために大乗経典が「仏説」であると主張されても、受持者に奇異の感じなしに受け入れられてきたのであろう 》
(平川彰著作集5・72頁)と述べています。

田上太秀博士の見解。

田上太秀駒澤大教授は、
《 これら大乗佛教のブッダは「不受後有」への反省から生まれたブッダたちと言えよう。つまり「不受後有」、つまり世間に再生しないはずの諸仏が世間に到来するという信仰は大乗仏教典の力説する点である。
経典中の諸仏は現実には生存していなかった。したがって耳で説法を聞くことができない。姿を肉眼で見ることができない。諸仏の声を聞いたり、姿を見たりできたのは大乗仏教の菩薩だけである。
彼らは三昧に入って諸仏の声や姿を見たり聞いたりできた。世間に再生しない諸仏が生類救済を願ってこころを傷めている姿を菩薩たちは三昧の中で見たのである。一方、諸仏は菩薩たちの三昧を介して姿を現し、声を聞かせたというべきであろう。
大乗仏教には数百千の種々の三昧が説かれている。たとえば般舟三昧は、自己に対面して立つブッダを観察する三昧という意味で、また、仏立三昧ともいう。
また、首楞厳三昧は、すべての三昧を修行し終わった後で取得する三昧である。この三昧の第八番目の段階に諸仏現前三昧がある。これも般舟三昧である。『大集経菩薩念仏三昧分』にある念仏三昧もブッダを見るための三昧である。
『華厳経』の「入法界品」の獅子奮迅三昧は生類救済のために獅子が奮い立つような勢いの姿を見せるブッダの三昧である。
このように菩薩の側からブッダを観察するための三昧とブッダの側から姿を表すための三昧などがあり、大乗仏教では肉眼で見えないブッダを三昧の中で見て、諸仏がどんな説法をしているかを聞き取り、それを文字に表記したのが、大乗仏教の経典である。」(大蔵出版刊「仏性とはなにか」111~112頁)
と、大乗経典の成立について述べています。

マックイーンの見解

下田正弘博士が著書「涅槃経の研究」(春秋社)に、次のような、マックイーンの見解を紹介しています。
《  阿含経においてもすでに仏説と言えないものが含まれているが、そのように厳密な意味でブッダ自身のことばでないものが、経典とされている基準に
1,弟子が説いたものを後に「仏」が承認したもの。
2,説法する前に「仏」が承認してとかせたもの。
3,その説法に「霊感」が認められるもの。
の三がある。
大乗と関連を持つのは「3」である。
この霊感構造のタイプは、
1,十分な訓練のもとに説法が自然に出てくることを内容としており、前提として三昧や修行を必要とする。
2,まったくの霊感によるもので、ウダーナ(詩偈)の形で説かれることを特徴とする。代表的比丘はバァンギーサである。
もちろん最後にはブッダによって承認されることが必要なのだが、「仏説」とは「歴史的なブッダのことば」である必要はなく、むしろ「霊的に価値のあることば」として捉えることができる。
般若経に見られる法師のタイプは阿含経に言う霊感の流れに沿うものであるが、法華経に見られる法師は、霊的な人格と、いわばチャネリングできる性格の者であった可能性が高い。
いずれにしてもここでは仏語(仏説)のイメージがすっかり変わってしまっており、「法師から伝えられる、真実を伝えようとする生きたことば」が仏語なのである 》
以上がマックイーンの見解です

私の領解。

以上のような諸学者の見解をもとにして私は、
「現存阿含テキスト以外にもテキスト化されなかったが在家に随時説かれた教えも数多くあったのであろうと推測されます。それらの説法にも基づき思索を深め、さらに、三昧による見仏により、自らの思索の結果を仏に確かめたり、定中において仏の説法を受けたりして、釈尊の証悟の核にせまり、その結果を成文化したのが法華経であったのであろう。
法華経法師品の
「かの説法者が山林に在れば・・かの説法者のために私の顔を現し見せるであろう。また、彼がこの法門の字句を忘れるようなことがあれば、彼が読誦するときに、私は彼が思い出すように繰り返し説くであろう」(中村瑞隆現代語訳)
などの文も法華教団の出家菩薩の観仏体験が有ったことが推測できる。」
と、領解しています。

深い道理に立っている法華経の教相。

業感縁起が成立するには空・無自性でなければならないと云う理由から、般若経の空思想が生じ、龍樹の空・無自性の縁起論が出たり、また、縁起で変化するには、たとへば仏の依正や、地獄の依正を現出するのは、もともと仏の性や地獄の性があったと想定出来ると云うで、妙有思想とか十界互具の思想も出てきた。
「本無くして今有る」道理は無いと云う理由から、本有の十界互具と云う考えに進み、さらに本有の仏界は、迷いの衆生の活動が始まると同時に衆生教導の活動をはじめる常住不滅の仏と考えられる。インド出現の釈尊もこの常住不滅の仏を体現した仏である。
こうした思想の進展から寿量品が著された。

釈尊は入滅されるけれど、病子ほど気に掛かると云う仏の慈悲は入滅後の特に末法の救済をしないはずはない。
一世界に一仏しか出現しないとのきまりから、釈尊が再度、肉体をもって出現することはしない。
そこで弟子を仏使として出現させる必要がある。
末法は極めて教導が困難な時代であるから、それに対応出来る仏使は高位の菩薩でなければならない。
高位の弟子と云えば最初に教化を受けた弟子である(本化の菩薩)
久成釈尊は本化の菩薩に末法弘経を命じているはずである。
高位の菩薩でない者には末法以前の弘通や脇的な弘通を委嘱したはずである。
こうした考えの上に、涌出品や宝塔品の弘通の勧奨や神力品や安楽行品が著された。

荒っぽいですが、このように推定しますと、法華経の教相は深い道理の上にたって著されていると思います。

補遺
水野弘元博士の仏説・非仏説についての概説
村上専精博士の大乗非仏説論には、その根拠として三つのものがあげられています。
第一には、大乗の経典や論書の中に出で来る釈尊は、歴史上の釈尊ではなく、法性身としで人格を超絶した存在であること。
第二には、大乗経の中で、釈尊説法の相手となっで教えを聞いでいる菩薩は、弥勒以外では、普賢でも、文殊でも、智首でも賢首でも、その他の諸菩薩でも、すべで理想概念を人物化したものであっで、実存の人物ではない。聴聞の菩薩が理想寓意の存在であるとすれば、これに説法する仏も具体的な肉身の釈尊ではないはずである。
第三には、有名な大乗経の多くは竜宮界から将来されたとか、南イソドの鉄塔から取り出されたとがいうような、その来歴が神話怪談をもっで伝えられ、そこには歴史的事実の参考となるものがないから、大乗経は実際に釈尊の説法を記録したものとは考えられない。
しかし博士は右のような歴史的立場のほかに、より一層重要なものとしで教理的立場をとられました。博士によれば、大乗非仏説といっても、それはかならずしも大乗非仏教とか大乗非仏意とかいうことではない。大乗仏説ということも、これを歴史的立場からと教理的立場からとの両方から論ぜられるのであって大乗を非仏説といっているのは、歴史的立場からだけのものであり、教理的立場からすれば、大乗は仏説としなければならないと力説されでいます。
さらに理論的に見れば、大乗は仏教であり、小乗よりも一層よく仏意を伝えたものであります。
博士によれば、大乗経が歴史的な仏陀の説でないから、仏教の信仰がくずれるというのは、真の信仰をもっでいるものではない。信仰の確立にとっては、大乗非仏説の論は関係のないものであるとされでいます。・・・ 
前田慧雲博士は、史的事実として、釈尊に大乗の説法があったことを論証しようとされたけれども、満足な結果は得られなかったのであります。・・・

大乗が仏説であることを論証するためには、前述のように、
第一には、大乗経はたとい歴史的な釈尊の説法そのものではないとしでも、その中には仏教の真理が含まれでいるから、これを仏説であると見なすべきであると主張すること。

第二には、仏説としで伝えられている阿含経の中に、大乗説の要素は萌芽的にではあっても、すでにその多くが含まれでいること、そして大乗経に阿含経で簡略に説かれでいたことを詳細に明示したものであることを明らかにすることであると思われます。
この第二の点について見るに、現存の阿含経の中には、仏が説かれた説法がすべで含まれでいるとは限らず、重大な教えがすでに失われでしまったり、低俗な教えに改悪されでしまったものもあると思われますが、それでも現存の阿合経の中だけでも、後世に大乗思想となっで発達しでいったものが、不完全な形ではあっでも、かなりに多く含まれでいると思われます。従っで原始経典の中に、大乗思想の萌芽がどのように存在しでいるかを明らかにすることは、大乗仏説の論証には大いに役立つと思われるし、これ以外に納得のいく事実的証明はないでありましょう。
村上、前田両博士以後の日本の仏教では、大乗経の仏説・非仏説の問題はあまり論ぜられなくなりました。それは一方では大乗が史上の釈尊の説であることを証明することができないことが知られたこと、しかし他方では大乗経典は仏滅後五百年以後の成立ではあっても、その中に仏教本来の思想が含まれ、阿含経などよりもむしろ深い高い釈尊の教えを伝えているために、これを仏説と見で一向にさしつかえないという昔からの考え方が、仏教学者の中に暗黙のうちにあったことによると思われます。
むしろ今日では、大乗経がいかなる経過をたどって歴史的に成立するようになったかということを、いろいろな方面から、学問的に研究しようとする風潮が起っています。それと同時に大乗経典と阿含経や根本仏教との密接な思想的つながりを研究することも大切であります。
そしでこのような努力をこころみようとした人に姉崎正冶博士(一八七三~一九四九)があります。・・・「現身仏と法身仏」、「根本仏教」などの著述がありますが、とくに後者では、般若空観が原始仏教の須菩根の空観を受けたものであり、法華の諸法実相や開示悟入の思想は根本仏教の法思想や釈尊の人格に由来するものであり、また阿弥陀仏や弥勒の信仰なども、傍系ではあっても、根本仏教の生天思想から展開したものであることを論ぜられています。たとえば法華経については、 法華経は抽象的に久遠の如来を説くものにあらずして、徹頭徹  尾、現世出現の仏陀に基きてその永遠の本性を明かにし、而してこの本性を一切衆生の中に開顕せんとするにあり。とし、さらに無常流転の中に諸法実相を見るのも根本仏教にほかならないとされています。
(水野弘元博士著『経典ーその成立と展開』43~49頁抄出)

荒牧典俊京都大名誉教授の大乗興起観

インドで大乗佛教運動が起こったのは、疑いようのない事実ですが、どのようにして大乗佛教運動が始まったのかということに関しては、現在に至るまでの学界においていろいろな説があって、いまだに決着がついていません。これほどの大問題に答えが出ていないのは、根本の前提が間違っているから、学者がいろいろなことを言いながら、答えが出ないのではないかと思います。
 私の考えでは、インドで大乗佛教運動が始まったときに、まさしくそのときそのところにおいて、佛像がつくられるようになってくるという事実をよくよく考えてみないといけないと思います。同じ時代で同じ場所に、大乗佛教経典がつくられ、そして佛像が出現してくるのですから、そこには同一の宗教運動が展開しつつあると理解すべきであると思いますが、現在までの学者たちは、大乗佛教運動と佛像とは関係がないという根本前提のうえで研究をしてこられました。インド各地でたくさんの佛像が出土しますから、そういう佛像とか考古学的に発掘された遺跡等をきちっと踏まえたうえで、佛教文献を研究しなくてはいけない、佛教哲学を理解しないといけないということを私たちに教えてくださったのは、実は長尾雅大先生です。しかしその長尾先生ですら、大乗佛教と佛像を関係させるのはなかなか難しいと考えておられたようです。それはどうしてかと言いますと、佛像が出土した場合、そこに銘文といって文字が彫られています。その文字を読みますと、「何々の小乗部派のために寄進する」と書いてあるものですから、佛像は小乗部派が製作していたということになっていました。小乗であれば大乗とは関係がないのではないかということで、小乗部派の佛像と大乗佛教の経典や哲学は関係がないということになってしまいました。
それに対して私はたぶん紀元後一、二世紀の頃に小乗部派の内部から大乗経典運動が起こっているという事実を熟慮すべきであると考えます。そのことを少し説明いたしますと、次のように考えられるのではないかと思います。釈尊は確かに紀元前三八三年頃に涅槃に入られました。しかし釈尊は、永遠の真実とか永遠の生命を説法された方ですので、身体が涅槃に入られた後も永遠に実在しておられる。その釈尊を礼拝するために、インドの人は佛塔を作ったわけです。ご存じのように、釈尊の身体を火葬した後に、舎利を分配して舎利を中心にして佛塔が作られるようになりました。
佛塔があるところに釈尊が永遠に実在しておられると人々は考えて、その佛塔のあるところに佛弟子達は集まって、そこで釈尊の教えを皆で声を合わせて歌ったり、釈尊の教えについて説教するということが行われていました。釈尊がこのようにお説きになりましたということを人間の言葉で言います。そうすると、この人間の言葉は、佛の言葉になるのです。
そういう仕方でインドの佛弟子たちは、佛塔という場所に佛陀が実在しておられ、その場所で佛陀の教えを言葉で伝えながらお説教をしました。そのお説教は「如是我聞」、つまり釈尊の教えをこのように聞きましたという形で原始佛教経典になっていきます。佛塔のところに釈尊は実在しておられて、実在しておられる釈尊の御心から、インスピレーションをいただいて人間が経典を作っていくとき、それはブッダの言葉という意味を持ち得ます。そういう仕方で三百年ほどにもわたって、つぎつぎと原始佛教経典が作られていったとわたくしは考えています。
ところが、三百年たち四百年たちますと、佛塔が、インド各地に無数に作られるようになりました。そうすると、そこにブッダが実在しておられるということがだんだん体験し難くなってきたようです。大乗経典の最初の経典は『八千頌般若経』という経典ですが、そこに「佛なき世に、佛を求める人は」という言い方が出てきます。ですから、大乗経典をつくりはじめた方々は、どうも佛なき世になってしまった、佛はどこかへ行ってしまわれた、どうしたら佛をもう一度よみがえらせることができるのかというニヒリズムを超克しようとして、大乗経典運動を展開していったと、私は理解しようとしています。
それでは『般若経』をはじめとする大乗経典運動は、どのようにして、「佛なき世に佛をよみがえらせていった」のでしようか。そのように「佛なき世」において大乗諸経典が「佛をよみがえらせた」としますと、いったいその諸佛は、どこに存在しておられたのでしようか。私は授業中、よく学生たちに聞いてみます。「この教室の中に佛はいますか」と。彼らはきょとんとしてしまって「こんな教室の中に佛がいるはずがない」というような顔をしております。しかしよく考えてみますと、私は佛教学の授業をしているのですし、学生たちは佛教学の勉強をしているわけですから佛の説法を聴開しているわけですし、佛が説法しつつ存在しておられないはずはないわけです。それではいま現在の教室の中のどこに諸佛は存在しておられるのでしょうか。それはいま現在生きている私たちの心が佛の説法を聴開しているわけですから、いまここに生きている心の内に諸佛が説法している、諸佛が存在していると言わざるを得ません。
大乗諸経典を創作していった佛教者たちは、インド古来の叙事詩や物語文学の伝統、また佛教内部のジャータカ物語や頌めうた文学の伝統を継承して、例えば「マハーヴァスツ」の十地の菩薩行を頌めうたい、八地においては諸佛の名号のみをうたいつづけてエクスタシーに入り、いまここの心の内に諸佛や諸菩薩の根源に生きている生命の真理そのものを直証するというような「不退転」の宗教体験を体験していたと考えられます。「八千頌般若経」はそのような諸佛、諸菩薩、衆生の根源に生きている生命の真理そのものは、いまここに生きている生命の真理そのものであって、無限にコミュニケートしあっていると直証して、その無限に開かれた生命のコミュニケーションの真理を「空性」、即ちゼロ=無限大、無限大=ゼロなる生命の根源の真実と呼んだのでした。そのような根本の宗教体験が「不退転」であり、また「無生法忍」であると呼ばれて、大乗佛教運動の根本の宗教体験となっていきました。
(自照社出版・光華選書・荒牧典俊著『ブッダのことばから浄土真宗へ』11~15頁抄出)

法華経成立に関する松本史朗博士の見解。

「方便品」散文部分の作者も、伝統的な出家僧団に属していなかったとは、まず考えられない。「方便品」散文部分に示された阿含経典に関する知識という確固たる仏教的教養を見れば、彼もまた伝統的な僧団に属する歴とした比丘であったであろが、しかし、彼は所謂"大乗経典"には目もくれようとしない"阿羅漢である比丘"たちとは異なって、新たに作成された経典群に一定の仏教的価値、仏教的真理性を認め、自らもまた経典の作成という伝統的な僧団では全く認められなかった作業に踏み切ることになったのであろう。
(法華経思想論・185頁)

参考
『法華経思想論』の113~119頁に於いて、「方便品」散文部分の中に、『増支部』第八六経・『大芯喩経』・『出入息念経』・『火バァッチャ経』・『経集第二八二偈前半』等の文が下敷きに成っている部分がある事を論じています。

袴谷憲昭博士の大乗教団起源説
袴谷憲昭著『仏教教団史論』(大蔵出版)を読む。その一。
袴谷憲昭博士は『仏教教団史論』(大蔵出版)に置いて、平川彰博士の「大乗仏教在家教団起源説」に対する批判をしています。

【大乗仏教とは・・・伝統的仏教教団が教線を張った、その中枢で育ったもの、としか言い様のないものとなる。その点では、私の説は、(ショペン教授の『大乗仏教周辺地域起源説』より)むしろ平川彰博士の『大乗仏教在家教団起源説』に近い。ただし、それは、在家教団は伝統的仏教教団とは別途には全く存在しなかった、という付帯条件の下においてのみである】(仏教教団史論・110頁)

と袴谷教授は自身の基本的な見解を記しています。
佐々木閑博士の『インド仏教変移論』の
【仏塔は僧団の中に建てられた仏塔には、在家の大乗教徒たちは僧団の中へ出向いて出家菩薩と共に仏塔供養や経典読誦などの修業を行ったろうし、僧団とは別の場所に建てられた仏塔には、決まった日時に在家、出家両方の大乗教徒が仏塔に集まったことになる(取意)】(331頁)
との説を全面的に支持し、
【大抵の仏塔は、考古学的知見の示すように伝統的出家教団所属し僧坊(僧地)に隣接して存在し、市街地や聖地に建立された仏塔はむしろ例外的だったと考えている】(99頁)
と記しています。
【菩薩成仏論が成り立っているところであれば、そこには既に大乗仏教が成立していると見て良いと思うが、説一切有部所属の『ディブィヤ=アブァダーナ』には明らかに、かかる菩薩成仏論が成り立っていると見なしえるのである・・・このような話は、大乗仏教が説一切有部の教団内に既に存在していたことを証して余りある。・・・事実、大乗経典の粋とも見做しうる『一音演説法』や『優婆塞戒経』の一節は明らかに説一切有部の『大毘婆沙論』にも知られていたのであるが、右に要約したような『ディブィヤ=アブァダーナ』の話はまた、『法華経』の小善成仏とも明らかに通底したところのものなのである】(104頁)

第二部第六章、第七章において、『大毘婆沙論(大正蔵27巻410頁上)』で 『一音演説法』に対し批判的に言及していることを論証し、
【この例は、伝統仏教と大乗仏教とが同じ教団を共通の場として共存しあいながら、前者の正統説的厳格さが後者の通インド的通俗さをひはんした有力な証拠の一つ】
と述べ、補いとして、
『大毘婆沙論(大正蔵27巻735頁中)』に、
仏と声聞縁覚との違いについての諸説が列挙している部分が、大乗経典とされる『優婆塞戒経』の「三種菩提品」の記述をほぼ相応していることを明示し、
「大乗仏教は部派の論書にも説かれていない」とする平川博士説の反証としてます。
そして、袴谷教授は
【『優婆塞戒経』は基本的には苦行者たる[出家菩薩]の権威のもとに大富豪たる[在家菩薩]の救済を保証しようとする大乗経典である。・・・

インド社会の展開と共に大規模化した仏教教団塔地の仏塔や僧院周辺の出家苦行者に[悪業払拭]のために寄進をなす在家者に対して、その功徳の有効性を通インド的習慣に迎合する形で保証しようとしたものが大部分の大乗経典であり、『優婆塞戒経』はいわばその典型的な一つの例である。・・・
出家菩薩から三帰依と五学処を受けた優婆塞の在家菩薩が大乗独自の教団組織を整備したり出家教団的な組織を導入したりするなどということはおよそ夢想だにできないことである。
従って、大乗仏教の成立や展開に時代においても、存在したのは基本的に伝統仏教教団だけだったのであり、そこに比丘が住し、そこへ在家信者としての優婆塞が集まっていたにすぎない。
それが[悪業払拭の儀式]の浸透と共に、大乗仏教運動が台頭すると、それに共鳴するものの中で、前者が[出家菩薩]、後者が[在家菩薩]と呼ばれるようになったのである。】(280~281頁)
と論じています。
さらに、
【大乗経典最古の一つである『法鏡経』に、身口意の三業を浄めるために「三品経(三品法門)」誦することが説かれている。
「三品」とは「悪業の懺悔」「福業の随喜」「諸仏の勧請」といわれるものである。
恐らくは、寺院の塔地を舞台として、出家苦行者(出家菩薩)を中心に諸仏の勧請が行われ、施主として参加している在家者(在家菩薩)は、自ら作した布施などの福業(作善)に随喜して自らの悪業を懺悔したのであろう
仏教誕生以前からインドの「習慣」や「生活」を支配していた「悪業払拭の儀式」の波は、教団の大規模化した仏教教団にも押し寄せた。
仏塔に寄進し供養をする在家信者(在家菩薩 )たちが、「悪業払拭の儀式」の執行者として崇めたのは、僧院にあって日夜、仏教の正統説を追求している学僧ではなく、寺院の周辺の多くの場合は、森林に居住していた苦行者であったにちがいない。その苦行者は何らかの意味において仏教教団に所属していたであろう。また、学僧とは異なったあり方であるが僧院に住していた出家菩薩もあったと推定できる。
(大乗経典初期の一つである法鏡経には、山沢者・受供者・思惟者・道行者・開士道者・佐助者・主事者の七種を挙げていいる)
「悪業払拭の儀式」にとって必須条件とは、インド人の宗教的通念に見合った神聖なる場所を媒介とした出家苦行者と在家寄進者との役割分担であり、出家苦行者のマジカルな霊力を宗教的権威として在家寄進者の布施などの作善を強調する事である以上、在家寄進者が出家菩薩抜きに勝手に集団を構成して「悪業払拭の儀式」を行うことは考えられない。
在家菩薩とは当時新興の富豪などであり、「奴婢や使用人や日雇い」の所有者でもある。かかる菩薩には、行うべき作善の筆頭として布施が求められることが多い。
かかる「在家菩薩」は、彼らの通念に見合った宗教的権威を求めて伝統的仏教寺院に出かけて行ったのであり、そこに、更なる宗教的権威としての寺院内の僧院に居住するようになっていた苦行者的「出家菩薩」に帰依し、そのマジカルな霊力に預かろうとしたのである。
在家寄進者(在家菩薩)は寄進が無駄に帰さないためにも、霊験灼かな出家苦行者を擁し華美な儀式も可能であった伝統的な大仏教寺院にこそ寄進をなしたであろうと考えられる。
それゆえに、寄進を受領するのは伝統的部派教団もしくはそこに所属する比丘たちでなければならないという当然の結果になる。】
と、袴谷教授は「大乗仏教出家教団起源説」を展開しています。
苅谷博士の大乗興起説

苅谷定彦博士の論文『大乗仏教運動と法華経』(東洋学術研究135号掲載)を入手しました。
20頁の論文の趣旨の一端を紹介します。

苅谷博士は、仏塔供養礼拝によって醸し出された「大乗仏教に先行する信仰」の項において、
「成仏道としての仏塔信仰」と「凡夫のボサツ成仏道」との二つの在俗信仰があったと想定されるとし、
「成仏道としての仏塔信仰」とは、釈尊が前生において在家の一青年であった時、然灯仏に花を供養し礼拝した行為によって、然灯仏から「未来に釈迦牟尼と云う名の仏になるであろう」と記別を受けたが、いま自分も、仏塔を礼拝し花を供養している。「仏塔への供養は千里の道も一歩からのその一歩であり、さらに積功累徳を続けていけば遠い将来、いつか成仏するに至るであろう」と云う信仰であるとし、

「凡夫のボサツ成仏道」とは、釈迦ボサツが成仏のための修行中に、在家にあって布施行を行ったと云う本生譚があるが、それを聞いた民衆のなかには、「教団や仏塔にささやかでも供養を続ければその功徳によって、いつか遠い将来において仏果を獲得できるのではないかと云う信仰が生まれたであろう」と論じ、この宗教感情を「凡夫のボサツ成仏道」であると述べています。

苅谷博士は「仏滅後  大乗仏教の原点」の項に於いて、この「成仏道としての仏塔信仰」と「凡夫のボサツ成仏道」の二つの信仰がそのまま大乗に進展したのではない。それは『大阿弥陀経』の第6願に「次生にアミダ仏の国に往生した時点で、はじめてボサツになるのだと主張して、成仏道としての仏塔信仰を厳しく批判している」と述べ、「釈尊は入滅より数百年過ぎ、仏は生きて在さずと云う仏不在、無仏にして五濁悪世であると云う現実認識が一部の知的エリートに強くなったことが大乗仏教興起の原点であろうと考えられる」と論じています。

瞑想中に観仏の宗教体験した法師等は自身は無仏・悪世は超克し得、この観仏体験を、一般民衆の誰でもが容易に参入できる信仰の場に持ち出そうとした。その結果が『阿弥陀経』など他方現在仏往生信仰を説く大乗経典類の登場であり、「往生することによって仏滅後、無仏・悪世の現実から脱出し、いま一度仏陀に会いたいという願いを成就させようとした。と論じています。

苅谷博士は続いて「前般若経の存在」の項で、
大乗仏教は他方現在仏のもとへの往生を説く『大阿弥陀経』などの信仰運動だけではなかったと、静谷正雄博士の説「原始大乗は『般若経』に先行する大乗経典として『大阿弥陀経』などの他方現在仏往生信仰とは別の全く異なった信仰を説く経典として『阿難四事経』、『月明菩薩経』、『竜施女経』、『七女経』、『梵志女首意経』、『仏説心明経』がある」との研究を挙げ、それらの諸経典こそは後に『金剛般若経』や『小品般若』『八千頌般若経』などの初期般若経典を産み出した『般若経』に先行する原始大乗であると論じ、「これらの諸経典が、凡夫の自己の菩薩たることは仏の授記によって保証されているという主張は、観仏三昧中に面と向かい会った仏から授記されたという宗教体験に基づいていることは想像に難くない。それ故、無仏・悪世であろうとも、他方の仏を求める必要は無いと主張するのである。他方現在仏往生信仰とは別の大乗仏教運動の一つである」と論じています。

苅谷博士は続いて「前般若経の存在」の項で、

大乗仏教は他方現在仏のもとへの往生を説く『大阿弥陀経』などの信仰運動だけではなかったと、静谷正雄博士の説「原始大乗は『般若経』に先行する大乗経典として『大阿弥陀経』などの他方現在仏往生信仰とは別の全く異なった信仰を説く経典として『阿難四事経』、『月明菩薩経』、『竜施女経』、『七女経』、『梵志女首意経』、『仏説心明経』がある」との研究を挙げ、それらの諸経典こそは後に『金剛般若経』や『小品般若』『八千頌般若経』などの初期般若経典を産み出した『般若経』に先行する原始大乗であると論じ、「これらの諸経典が、凡夫の自己の菩薩たることは仏の授記によって保証されているという主張は、観仏三昧中に面と向かい会った仏から授記されたという宗教体験に基づいていることは想像に難くない。それ故、無仏・悪世であろうとも、他方の仏を求める必要は無いと主張するのである。他方現在仏往生信仰とは別の大乗仏教運動の一つである」と論じています。

苅谷博士は続いて「般若経の出現」の項で、

一部の人(知的エリートの人々)が、仏滅後の無仏・悪世という危機を克服したところに、大乗仏教という新しい宗教運動が起こったのであるが、そこに登場した他方現在仏往生信仰は、仏陀釈尊をいわば見捨てるものであった。これに対して、菩薩としての自覚をもって、仏滅後の無仏・悪世を生き抜いていこうとする信仰運動から『般若経』が出現した。
『般若経』はボサツの成仏行の六度の中でも般若ハラミツ(智慧の完成)を重視し、それこそが諸仏を産み出す(仏母)であるとし、凡夫も般若ハラミツを求め行ずれば、必ず仏果を獲得出来ると云う思想である。
『般若経』は他方現在仏のアミダ仏往生信仰を厳しく批判し、超克せんとするものである。

しかし、『般若経』が空思想に裏付けられた「無執着」と「不住涅槃」の実践を要請しているのであるが、それは言うは易く行じ難く、大乗の菩薩として、いかにあるべきか説けば説くほど一般民衆の仏教とは言えなくなって行く。

そこで一般民衆をつなぎ止めようとして『般若経』は「経巻供養」を打ち出した。『般若経』の「経巻供養」は「ストゥーパ崇拝に対して批判を加える」ものと言う見解が有るが、ただ仏塔を『般若経』の経巻に置き換えただけと言えよう。と論じています。

苅谷博士は続いて「法華経の登場」の項に於いて、

『般若経』は「法を中心とする出家専門家の行(と学)の宗教」出家道の仏教に立ち戻ってしまったことになる。
凡夫に手の届く仏教として登場したのが『法華経』である。
『法華経』は「一切衆生は本来ボサツであるという仏智を根拠に、一切衆生は成仏出来ると主張し、「釈尊はなぜ滅後の衆生を見捨てて入滅してしまったのか」という無仏と言う一大難問に対して「仏の入滅は衆生を不顛倒にするための衆生教化に他ならない」として超克した。と論じ、
さらに、
苦海に没在する人々に『法華経』を説いて聞かせ、ぼさつたることを自覚せしめるという、これほどの利他行は他にないから、『法華経』は、その後半において、『法華経』を聴聞したからには、今度はその聞いたところを憶持(受持)し、それを他人に語って聞かせ(読誦)、さらに余力があれば意味を解説し、あるいは文字化(書写)せよと繰り返し説いているのである。この《仏滅後》における『法華経』の唱導は、決して薬の効能書、宣伝ではない。それは、他人をして自己と同じく本来よりぼさつであることを自覚せしめるというまさしくぼさつの利他行であるからである。と論じています。

法華経の編纂順序についての植木博士の見解

岩波書店刊・植木雅俊訳『梵漢和対照現代語訳・法華経』にある「解説」に、

「第一類=方便品~授学無学人記品まで。
 第二類=序品と法師品~嘱累品まで。(提婆品は除く)
 第三類=薬王品以降。

の三段階が順次に成立したと云う見解がもっとも支持されているが、対告衆が異なりが必ずしも成立時間差とは決めがたい。

法華経は声聞と菩薩に対して区別することなく、『菩薩のための教え』である『法華経』が説かれているという視点を持てば、対告衆の違いは何ら問題ではなくなる。それに伴い、第一類と第二類を一貫させるために序品がつくられたとして、第二類に分類する必要もなくなる。

第一類がストゥーバに対する崇拝を礼賛し、第二類は経典安置の経塔の崇拝を強調しているので成立の時間差を見出そうとする見解もあるが、先行経典の『般若経』がすでに経典信仰を打ち出している。
そのことを法華経編纂者たちも知っていたはずである。

従って第一類と第二類とのストゥーバに対する態度の違いは、経典成立の時間差を意味しているのではなく、ストーリー展開の順序にすぎないのではないか。

第一類と第二類とは多少の時間差はあるかもしれないが、際だった時間差とは言えず、必ずしも分ける必要はないと考える。」(592~593頁)
と解説しています。勝呂信静師や伊藤瑞叡教授の説に近い見解です。

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