法勝人劣に偏るなかれ

「法は勝れ、人は劣る」と云って、釈尊を軽視し蔑む教団が有ります。是れについて、少し批判を述べます。

法が仏を生じた、仏は法から生じたと云う、能生・所生の関係から言うと、法勝人劣。

法を証悟したのが仏で、法は悟られたものと云う、能証・所証の関係から云えば、人勝法劣。

仏は法を説いたもの、法は仏によって説かれたものと云う、能説・所説の関係から言えば、人勝法劣。

なので、一方的に勝劣を決めつけてはいけないとは田中智学大居士の卓見です。

真如(法)を凡夫が直接に自ら証悟する能力は有りません。
真如(法)を証悟した仏の説法教導がなければ凡夫は法(真如実相)を証悟することは不可能です。
法勝人劣の面だけに立って、釈尊を軽視したり、侮蔑することは、とんでもない間違いです。

「仏の御心はこの法華経の文字に備わっているのである。たとえば種子と苗と、草と稲とは形は変わっても、その心に違いはないように、釈尊と法華経の文字とは形の相違はあるけれども、本質はまったく同じである。したがって法華経の文字を拝見する時には、生身の釈迦如来にお会いしているのだと思わなければならない。」
(日蓮宗電子聖典・四条金吾殿御返事・文永九年・興師写本)

「今の法華経の文字は皆生身の仏なり」(法蓮抄・建治元年四月・曽存)
等と有るように、日蓮聖人は法華経と釈尊とは表裏一体のものと見ていたことが分かります。

法華経を尊ぶことは釈尊を尊ぶ事であり、釈尊を尊ぶことは法華経を尊ぶ事であったのです。

「法華経は仏にまさらせ給う事星と月とともしびと日とのごとし」
(窪尼御前御返事・弘安二年五月・真蹟)

「法華経は仏にまさらせ給う法なれば供養せさせ給いて 」
(九郎太郎殿御返事・弘安元年十一月・真蹟)

との文も有りますが、これらは、「法師品第十」の
「合掌し我が前にあって 無數の偈を以て讚めん
是の讚佛に由るが故に 無量の功を得ん
持經を歎美せんは 其の復彼れに過ぎん。」

「分別功徳品第十七」の
「佛及び縁覚弟子ならびに菩薩衆に、布施し供養せん。・・・善男女等あって 我が壽命を説くを聞いて(=法華経を聞くこと)、乃至一念も信ぜば、 其の福、彼れに過ぎたらん」
などの文の意趣を根拠にして、法華経の行者供養・法華経供養を讃えられたもので、釈尊より法華経の方が有り難い事を教示する文ではありません。

自我偈に
「衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず
  而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く」

「我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って
  度すべき所に随って 為に種々の法を説く
  毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして
  無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと」
とあります。

末法には、釈尊自ら肉身を受け再誕しないで、法華経、妙法五字の弘宣を本化菩薩に代行させましたが、法華経には「常に此に住して法を説く、我常に此に住すれども」とあるように、釈尊は(迷いの凡夫から見れば)霊的存在的ですが、常に在して教導救護してくれていると説いているのです。

釈尊を蔑む者は、法華経の所説を無視していることになるので、法華経をも貶していることになります。

「四信五品抄」には
「荊谿尊者(けいけいそんじや)(妙楽大師)は、『四信の最初である一念信解とは、すなわち法華本門における修行の第一歩である』と文句記(もんぐき)の中でいっている。その中に現在の四信の初めの一念信解と、滅後の五品の第一である初随喜品(しよずいきほん)との二つは、ともに百界千如一念三千の宝を収めてある箱のようなものであり、十方の三世にわたるすべての仏の出生された門である。」(昭定1295・日蓮宗電子聖典)
とあって、法華経修行の第一歩・基礎・悟りの宝の収まっているのが一念信解、初随喜であるとしています。

一念信解、初随喜とは、
「分別功徳品第十七」に
「其れ衆生あって、佛の壽命の長是の如くなるを聞いて、乃至能く一念の信解を生ぜば、所得の功限量あることなけん。」

「如來の滅後に、若し是の經を聞いて毀せずして隨喜の心をさん。當に知るべし、已に深信解の相と爲く。何に況んや、之を讀誦し受持せんをや。斯の人は則ち爲れ如來を頂戴したてまつるなり。」

と言うことで、要を採って言えば、釈尊の常住不滅の教導救護を信じること、釈尊は常住不滅の仏で、常に教導救護を垂れている仏であると説いている法華経を随喜して信じることです。

「四信五品抄」に
「お答えしよう、六度(ろくど)の中の前の五度を制止して、後の智慧を修するのであり、ひたすらに南無妙法蓮華経と題目を唱えることが大切である。これが一念信解であり初随喜の気分(=心の状態・枠内・範囲)であって、信をもって智慧に代えることができるのである。このことがすなわち法華経の本意とするところである。」
(昭定1296・日蓮宗電子聖典)
とあります。
私たちが、南無妙法蓮華経と唱える際の心づもりは、釈尊の常住不滅の教導救護を信じ随喜することなのです。

「観心本尊抄」に
「この経文の心(意味)は迎釈尊の因行の法、果徳の法は、すべて妙法蓮華経に具足している鯨ということであって、凡夫の我々がこの妙法蓮華経の五字を受持(信奉)するならば、おのずからその因行と果徳との功徳を譲り与えられて、釈尊と同体の仏となるのである。」(昭定711・日蓮宗電子聖典)
とあります。

妙法蓮華経の五字七字によって釈尊の因行果徳の功徳を譲り与えられるのです。釈尊なくしては釈尊の因行果徳の功徳は有りません。
因行果徳の功徳を譲り受けながら、釈尊を軽視することなどとんでもないことです。

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