大石寺系教団の教義

「法華経は役に立たない、本仏は日蓮大聖人」の誤り

 

Shamonさん管理の掲示板[法輪のBBS]において、創価学会会員のある人と議論した記録を整記補筆したものです。引用御書の頁は学会版・日蓮大聖人御書全集の頁数です)

 

『高橋入道殿御返事』に

「我が滅後の一切衆生は皆我子也。いづれも平等に不便にをもうなり。しかれども医師の習ひ、病に随て薬をさづくる事なれば、・・・末法に入なば迦葉、阿難等、文殊、弥勒菩薩等、薬王、観音等のゆづられしところの小乗経、大乗経、並に法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其時上行菩薩出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。」(1458頁)

また、『曽谷入道等許御書』にも、

「慧日大聖尊仏眼を以て兼て之を鑒みたまふ故に、諸の大聖を捨棄し、此の四聖を召出して要法を伝へ、末法の弘通を定むるなり。・・爰を以て滅後の弘経に於ても、仏の所属に随つて弘法の限り有り」(1033頁~1034頁)

とあるように、釈尊が、上行菩薩に、法華経の肝心の妙法蓮華経の五字を末法に弘めなさい、と委嘱された、即ち命令されたと有ります。

釈尊の差配・指図に従って、仏滅後の弘教が行われて来たと日蓮聖人は理解されているのです。

末法になったら、法華経の肝心の妙法蓮華経の五字を弘めなさい、と委嘱された、即ち命令されたのが上行菩薩であると、日蓮聖人は理解されているのです。

故に、末の世に出現されて妙法五字・三大秘法を弘通された日蓮聖人を、上行菩薩の垂迹応生の聖人として仰ぐのです。

 

もちろん、日蓮聖人は本地が上行菩薩であるからには、法華経二十八品の経本がなくとも、内証的には、本門の肝心南無妙法蓮華経を知っておられたと、信仰的には考えられます。

しかし現実的には、法華経二十八品の経本を通さなかったら(根拠にしなければ)末法の良薬たる妙法五字が説き留められていた事を知る事は出来なかったし、妙法五字が末法の良薬であることも立証出来ないのです。

 

「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひ候は、此の三大秘法を含みたる経にて渡らせ給へばなり。」(三大秘法抄・1023頁)

 

「此法門は妙経所詮の理にして釈迦如来の御本懐、地涌の大士に付属せる末法に弘通せん経の肝心なり。」(当体義抄送状・519頁)

 

「仏の滅後に迦葉、阿難、馬鳴、龍樹、無著、天親、乃至天台、伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法、経文の面に現前なり。」(撰時抄・272頁)

 

「迦葉、阿難等、龍樹、天親等、天台、伝教等の諸大聖人知りて、而も未だ弘宣せざる所の肝要の秘法は法華経の文赫赫たり。論釈等に載せざること明明たり。生知は自知るべし。」(曽谷入道等許御書・1037頁)

等とありますので、日蓮聖人の弘通された三大秘法は、法華経に説き留められていた法門であることがわかりましょう。

 

ゆえに、また『法華取要抄』に

「寿量品の一品二半は始めより終りに至るまで、正しく滅後の衆生の為なり。滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり。」(334頁)とも教示され、

また、『御義口伝』にも(御義口伝は偽伝論が有るので第一資料になりませんが)

「法華経一部は一往は在世の為なり。再往は末法当今の為なり。其の故は妙法蓮華経の五字は三世諸仏共に許して未来滅後の者の為めなり。品品の法門は題目の用なり。体の妙法末法の用たらば、何ぞ用の品品別ならんや。」(766頁)

等と、法華経は末法の衆生を主眼として説かれたものであると教示されています。

 

妙法五字は末法のために法華経に留め置かれた法華経の肝心であるから

「末法の始めの五百年に、法華経の題目をはなれて成仏ありという人は、仏説なりとも用うべからず」(上野殿御返事・1556頁)とか

「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし。」(上野殿御返事・1546頁)

とか、(この文に云う、せんなき法華経(役に立たない法華経)とは、薬王菩薩等が把握した法華経の法門のことで、法華経そのものが役に立たないと云っているのではありません)

また、

「妙法蓮華経と申は、文にあらず義にあらず、一経の心なりと釈せられて候。されば題目をはなれて法華経の心を尋ぬる者は、猿をはなれて肝をたづねしはかなき亀也。山林をすてて菓を大海の辺にもとめし猿猴也。はかなしはかなし。」(曽谷入道殿御返事・1059頁)

等と、妙法五字を中心・根本に修さなければいけない旨を力説されているのです。

 

三大秘法は法華経に説かれて有る法門であること。

法華経の肝心が妙法五字であること。

釈尊の命により、上行菩薩垂迹応生の日蓮聖人が妙法五字を弘通されたと云う事は上に挙げた御書から明確です。

ですから、大石寺系教団や創価学会のように、妙法五字・三大秘法の法門は法華経と無関係の如く誤解し、妙法五字を説き広めなかった釈迦も法華経も末法に無益・無役のものと貶す事は、日蓮聖人の教示に背くものです。

 

もちろん、日蓮聖人は法華経の本門に立脚して居られますが、「迹門は本門の依文判義なり」(十章抄・1274頁)との教示があるように、迹門も本門寿量品の意を以て活釈して依用としています。

『四信五品抄』にも、

「流通の一段末法の明鏡尤も依用すべし。而して流通に於て二つ有り。一には所謂迹門の中の法師品等の五品、二には所謂本門の中、分別功徳の半品より経を終るまで十一品半なり。此の十一品半と五品と合せて十六品半、此中に末法に入つて法華を修行する相貌分明なり。・・滅後の亀鏡なり」(338頁)

と、迹門の流通分と本門の流通分とを、末法に於ける法華修行のあり方を教示する亀鏡であると説明されています。

この『四信五品抄』の文は、日蓮聖人が法華経を依用している、すなわち役に立つお経と見ている明証です。

 

『御義口伝』に

「一廿八品悉く南無妙法蓮華経の事  疏の十(廿九 七右)に云く、総じて一経を結するに唯四のみ。其の枢柄を撮つて之を授与すと。

御義口伝に云く、一経とは本迹廿八品なり。唯四とは名用体宗の四なり。枢柄とは唯題目の五字なり。授与とは上行菩薩に授与するなり。之とは妙法蓮華経なり云云。此釈分明なり。今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なり心なり。廿八品は用なり廿八品は助行なり題目は正行なり。正行に助行を摂す可きなり云云。」(794頁)

とあります。題目と法華経は、行法としての場合には、正行と助行の関係であると教示しています。

故に、同じく『御義口伝』に

「今日蓮等の類ひ、聖霊を訪ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間に至りて即身成仏せしむ。」(712頁)

とあって、聖霊に回向するとき、「法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ」とあります。

この『御義口伝』の文も、日蓮聖人が法華経を依用している、すなわち役に立つお経と見ている明証です。

 

大石寺系教団や創価学会では、「『観心本尊抄』に、『此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す(254頁)』とあるから、日蓮大聖人の方が本仏で、釈尊より上位なのだ」などと主張します。

 

しかし、大石寺系統教団や創価学会以外の日蓮聖人門下では、この読み方(訓読)は、誤りであるとしています。

私どもは「地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて」との訓読を正とします。

簡単に指摘しますと、この文がある前の部分に

「地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり」(247頁)

 

「釈尊の脇士上行等の四菩薩」(247頁)

 

「我が弟子、之を惟え、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」(253頁)

 

等とあるので、大石寺系統教団の読み方(訓読)は間違いであることが明白です。

 

また、大石寺系教団や創価学会では、「『此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり(御義口伝770)』とあるから、釈迦の役目はすでに終わった。空っぽになった。だから末法においては釈迦は本仏でなく、日蓮大聖人が本仏なのだ」などと言い張ります。

 

私どもは御義口伝は第一資料としては認めません。五大部ならびに真在および確実なる御書に反しない部分だけ第二資料的に用います。また重要御書に基づいて解釈します。

さて、釈尊の悟りを妙法五字と結要して説き、上行菩薩に譲ったとしても、釈尊の悟りが無くなって凡夫になってしまうことはあり得ません。たとえば、足し算を生徒に教え終わったら、先生は足し算のやり方を忘れてしまったなどという事はないのと同じです。

 

末法の始めに上行菩薩が、法華経に留め置かれた三大秘法の法門を、弘めるべしと云う釈尊の定めに従って、上行菩薩の応生身である日蓮聖人は、三大秘法の法門を弘通されたのでから、日蓮聖人の出現も釈尊の差配なのです。

と云う事は、日蓮聖人の妙法弘通は釈尊の未来益物の一環なのです。

言い換えれば、釈尊の末法衆生救済の代行を行ったのが日蓮聖人なのです。

喩えると釈尊と云う国王に遣わされた全権大使が日蓮聖人なのです。全権大使は国王の全権を受けて他国に行きます。しかし、全権大使に全権を任せたからと云って、国王の地位が無くなるわけではありません。全権大使は、一々細かいことを国王に聞いて執政を行う者ではないですが、あくまで国王の意向に従い執政するものです。

だから、全権大使は国王の意思に反しない限り自由に執政します。国王も全権を任せた以上、重大な違反がない限り、任せっきりとするでしょう。

それと同じように、上行菩薩に末法弘教を任せたかぎり、妙法上行菩薩の手に移ったようなものだ、と云う意味を「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり」と表現されたものと理解すべきです。

 

釈尊の説かれた法華経に説き留めてあった妙法五字・三大秘法を、日蓮聖人は取り出され弘通されたわけですから、釈迦佛教の肝心かなめを弘通されたと云うことです。

妙法五字は釈尊の教えの精髄、肝心かなめと云うことです。故に、釈尊を軽視し、法華経を軽視し、妙法五字は釈迦佛教に非らずと宣伝する大石寺系教団や創価学会は日蓮聖人の教示に反するものです。

 

また、大石寺系教団や創価学会は「三大秘法抄に『寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり』とあろ、また、御義口伝に『されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり(752頁)』とあるから、日蓮大聖人は本仏だ」などと主張します。

 

彼らが文証とする『三大秘法抄』のこの文の前に

「されば此の秘法を説かせ給ひし儀式は、四味、三教並びに法華経の迹門十四品に異なりき。所居の土は寂光本有の国土なり、能居の教主は本有無作の三身なり、所化以て同体なり。かゝる砌なれば久遠称揚の本眷属上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出して付属し給ふ。」(1021頁)

と有って、霊山会虚空会上で法華経本門を説かれている釈尊を「教主は本有無作の三身なり」と云われ、上行菩薩を本眷属としています。

彼らが文証として挙げる「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり」の文には「日蓮が釈迦より勝れた末法の本仏である」等という意味は全く無いのです。

また彼らが日蓮本仏の文証として上げる『御義口伝』の「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」との文は、観心釈です。

十界互具の教説から云えば、釈尊も日蓮聖人も我々も、本質的には、共に無作の三身如来です。体(本質的)の上から云えば同体であり、法華経の行者(法華経の信行者)は、分分に同体性を発揮しつつある、すなわち用(はたらき)を顕しつつあるので、「無作の三身とは末法の法華経の行者なり」と表現されている文であると解釈すべきです。本質的に同一であっても、しかし用(はたらき)の違いを忘れて解釈したら大間違いです。

用(はたらき)としては、久遠釈尊は本仏であり、日蓮聖人の本地身である上行菩薩は久遠釈尊の弟子であり、御使であると云う違いを忘れてはいけないのです。

 

また、大石寺系教団や創価学会では、「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし(上野殿御返事)」

や「然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は

在世の脱益なり題目の五字計り当今の下種なり(御義口伝・753頁)」との文を文証として「釈迦の説いた法華経は末法には役立たない」と主張します。

 

『上野殿御返事』の文の意味は、

既に上記したように、天台大師や伝教大師などが把握し説いた迹門中心の法門を「末法にはせんなし」と云われているもので、法華経自体をさして「末法にはせんなし」と云っているのでは無いのです。

『御義口伝』のこの文は、法華経に説き留められた一代佛教の肝心・精髄、即ち法華経の肝心・精髄たる妙法五字こそ末法相応の要法であると云う点を強調した文です。法華経を役立たずなどと破している文などではありません。

この文が、もし、法華経を所破される経という意があるとしたら、日蓮聖人は分裂症であった事になってしまいます。再掲しますが、

『御義口伝』に

「法華経一部は・・再往は末法当今の為なり。・・品品の法門は題目の用なり。体の妙法末法の用たらば、何ぞ用の品品別ならんや。」(766頁)とあります。

また、

「今日蓮等の類ひ、聖霊を訪ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間に至りて即身成仏せしむ。」(712頁)とあって、聖霊に回向するとき、「法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へる」とあります。

「御義口伝」のこれらの文は、末法になっても法華経は役に立つとしている明証です。同一御書の中で、一方は「法華経は役に立たない経」と書き、他所には「法華経は役に立つ大事な経」と書いてあったら、まさに分裂症です。

 

『上野殿母御前御返事』に

「御菩提の御ために法華経一部、自我偈数度、題目百千返唱へ奉り候畢ぬ。」(1568頁)

とあります。題目は根本中心ですが、法華経一部も読まれたことが分かります。役立たずの経であったら、菩提のために読まないでしょう。

『薬王品得意抄』

「法師、宝塔、提婆、勧持、安楽の五品は、上の八品を末代の凡夫の修行すべき様を説けるなり。又涌出品は寿量品の序なり。分別功徳品より十二品は、正には寿量品を末代の凡夫の行ずべき様、傍には方便品等の八品を修行すべき様を説くなり。」(1499頁)

との文もあります。法華経に、末法の法華経修行の様が説かれていると教示されていますね。この文も法華経が末法にも依用すべき経であると示している文ですね。

 

「御書は御書をもって解釈すべし」と云う事を鉄則とすべきです。五大部や確実な御書の教示や思想を亡失して、御書を恣意的に解釈してはならないものです。

日蓮聖人の法門が法華経特に本門に立脚している事を亡失して法華経は末法に役立たないなどと思いこむ事は大変な間違いです。

 

『兄弟抄』に「夫法華経と申は八万法蔵の肝心、十二部経の骨髄也。」(1079頁)とあるように。一代佛教の骨髄が法華経です。法華経の肝心・骨髄が妙法五字です。一代佛教とは釈迦仏法です。故に、妙法五字は釈迦仏法の肝心・骨髄であることがわかります。

釈迦佛教の骨髄の妙五字(日蓮聖人の法門)が末法相応の役立つものであるのに、「釈迦仏法は末法に役立たない」と主張する事は大変な間違いです。

 

大石寺系統教団や創価学会では、『観心本尊抄』の「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」との文を証拠として、「法華経は末法に役立たない」などとも主張します。

 

この文に、

「在世の本門も末法の始(妙法五字)は一同に純円なり」

と有るように、両方とも法体としては共に同じく純円である。すなわち同価値と云うことです。末法は下種すべき時代であるから行法としては妙法五字の形をとるべきであると云う意味です。

 

すでに上に論じたように、日蓮聖人は助行として法華経を読誦されています。正行題目、助行は法華経読誦を否定している文ではありませんね。法体は共に同じく純円であるから、助行として法華経読誦は効果があるのです。

 

『観心本尊抄』に

「天台大師の云く『是れ我が弟子なり 我が法を弘むべし』。妙楽の云く『子父の法を弘む、世界の益あり』。輔正記に云く『法は是れ久成の法なるを以ての故に、久成の人に付す』等云云」

(本尊抄・250頁)

と有り、また、『曽谷入道等許御書』にも

「而るに地涌千界の大菩薩、一には娑婆世界に住すること多塵劫なり、二には釈尊に随つて久遠より已来初発心の弟子なり、三には娑婆世界の衆生の最初下種の菩薩なり。是の如き等の宿縁の方便、諸大菩薩に超過せり」(曽谷入道等許御書・1032頁)

ともあるように、上行菩薩は釈尊の初発心の弟子であるから、末法の弘通の当番に当てられたのです。

釈尊が弟子で日蓮本仏が師だとか、釈尊より日蓮聖人の方が優れた仏だと宣伝する大石寺系教団や創価学会の教義が、いかに観心本尊抄の教示に反しているかがわかりましょう。

 

大石寺系では、『諸法実相抄』の

「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ(1358頁)」との文と、『御義口伝』の「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり(御義口伝)」の文をならべて、「釈尊は本仏に非ず論」の文証としますが、此等の文の前後や、「観心本尊抄」の教示を亡失しなければ、釈尊否定や日蓮本仏論の文証と成らないことがわかります。

 

『諸法実相抄』には、提示の文の前部分に、

「日蓮末法に生れて上行菩薩の弘め給ふべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給ふべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時涌出し給ふ多宝仏、涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等をまづ作り顕はしたてまつる事、予が分斉にはいみじき事なり。(1359頁8行)」

と有ります。この部分の文意には、日蓮聖人は上行菩薩の応生であると義示され、釈迦仏は本門寿量品の古仏であると明示してあります。

また「此の釈に本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依て。倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり。(1359頁2行)」との文が有ります。

この部分の文意は、「仏は仏としての用(働き)を完全に発揮されている倶体倶用の(体と働くを倶に具現した)仏であり、凡夫は本質的には(体としては)仏であるが、まだ仏としての用(働き)を発揮していないと云う大きな違いが有る。」事を述べられています。

 

故に、「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ(諸法実相抄1358)」の部分の意味を、「凡夫や日蓮聖人の方が釈尊より本当の仏だと云う意味である」と解釈することは誤りです。

 

妙法蓮華経の実相とは、十界互具・互具平等(一念三千)と云うことです。だれでも十界互具の体です。本来から具えている仏界を顕現したので、釈尊と云う仏に成ったのである。十界互具の実相が基である、と云う事で、「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。」と表現していると解釈すべきです。

「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。」とあっても、釈尊が根本教主に非らずと云う意味ではありません。

 

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり」

の文意を先学が

【凡夫は迷っていて未だ三身の妙用は起こしていないけれど、理性の本体の三身は衆生に具わっていて滅せず、仏果に到っても増せず。すなわち衆生と仏は一体(生仏一体)であって、仏はこの本体の三身(十界互具の中の仏界)より、迹用を起こして仏となったのであると、凡夫が仏と成れる根拠を強く示す為に体門に約して凡夫を本仏、諸仏を用の迹仏と云われているのである。

 

本有の妙体(仏界)の隠れると顕れる事について云うと、衆生は隠れているまま、仏はすでに顕出したと云える。

ゆえに衆生は体の三身のみで、用の三身が欠け、仏は用(働き)を完全に現している倶体倶用の仏である。

 

仏の仏果としての力、救済力は、もともと理性としての本有の体の三身の徳が顕れたものであるので、体に約し理に約し性に約すれば凡夫は本なり体なり性なり、仏は迹なり用なり事なり修なりと云う事がいわれる。故に凡夫が仏に恩を蒙らしむ等とも書かれているのである。】

と、的確に説明しています。

 

「かえって仏に三徳をかうらせ奉るは凡夫なり」

との意味を、さらに砕いていえば、救われるべき教えを受くべき衆生がいるから仏が救済主・教主と成ることが出来るので、凡夫が居て初めて仏は三徳者の資格があるのだから、「かえって仏に三徳をかうらせ奉るは凡夫なり」と書かれていると受け取っても良いでしょう。

 

『諸法実相抄』の後半部分には、

「本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時涌出し給ふ多宝仏、涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等をまづ作り顕はしたてまつる事、予が分斉にはいみじき事なり。」(1359頁8行)

 

「末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人あて流罪死罪に及ばん。然れどもたえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほう(覆)べきぞ」(1359頁18行)

 

「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊の久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云く「我従久遠来教化是等衆」とは是れなり」(1360頁6行)

 

「かゝる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり。釈迦仏、多宝仏、未来日本国の一切衆生のために、とどめ(留)をき給ふ処の妙法蓮華経なりと。かくのごとく我も聞きし故ぞかし」(1361頁3行)

 

「信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給ふべし。」(1361頁11行)

等とあります。これらの部分の文を読めば、『諸法実相抄』が「釈尊は本仏に非らず、日蓮聖人が本仏である」などと云う教示などしていない御書であることが分かります。

 

『御義口伝』の

「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」

との文も、「日蓮、ならびに門下信徒は妙法五字の信行に依て、本来から具している久遠本仏を顕現しつつある者だから、寿量品の仏といえる。」との文意であって、十界互具平等であるから、本質的には寿量仏と同じである事を強調した文です。久遠釈尊は末法になると本仏の資格が無くなってしまうなどと云う文意など無いのです。

また、

大石寺系教団や創価学会では、

「国府尼御前御書に『釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間・ねんごろに供養し奉るよりも・末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳は・すぐれたりと』と有る。釈迦より日蓮大聖人の方が勝れているから、釈迦より日蓮大聖人を供養する方が功徳が勝れると書かれているのだ」

などと日蓮本仏論を主張します。

 

「法師品」には

「是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。

当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。

何に況んや、大衆の中に於いて、広く人の為に説かんをや。

薬王、若し悪人有って、不善の心を以って、一劫の中に於いて、現に仏前に於いて常に仏を毀罵せん、其の罪尚軽し。

若し人一の悪言を以って、在家出家の、法華経を読誦する者を毀せん、其の罪甚だ重し。」

と説いて、滅後の持経者は、如来の使、如来の所であるから、毀罵する者は釈尊を毀罵する罪より重い罪であると教示しています。供養についても同じです。

ですから、「法師品」には、まったく釈尊より末法の行者の方が優れた仏であるなどと云う意味は微塵もありません。

上掲の「法師品」の文は、滅後の法華信行者を気遣い、守り、助けよと教示している、釈尊の大慈悲の言葉なのです。

「国府尼御前御書」は、日蓮聖人が自分の方が釈尊より偉い本仏などと云う意味で書いた手紙などではありません。

この手紙の文を、「日蓮聖人の方が偉い、本仏だ」などと云う文証に使うことは許されないことです。

 

天台大師の「法華文句巻第八上」に

「此の中の罪福は福田の濃痩を論ぜず、ただ初後の心に約してその軽重を明かすのみ。」と解釈しています。

天台大師は「ここに説かれている罪福の軽重は、布施し信奉することによって幸福をもたらす対象、すなわち福田としてどちらが優れているか(福田の濃痩)について論じている部分でない。ただ、初心の者と充分修行をすでに為し終えている者の心に約して軽重を明かしているだけである」と解釈しているのです。

仏と持経者の優劣を論じている部分では無いと云うのが天台大師の解釈と云う事です。

続いて天台大師は

「初心の学人はすでに煩悩を具す、もし障礙を加えれば則ち学する所の事を廃す、故に罪を獲ること多し。

仏は則ち平等にして悪も干フク(おかし・せまる)ならず、あに能く障礙せんや、故に罪軽ろしと云う。」

と解釈しています。

天台大師のこの解釈は、

「初心の修行者はまだ煩悩を具し迷いやすいので、もし妨げを加えれば修行を止めてしまう。故に初心の者を罵る罪は重いのである。仏は毀誉褒貶を超越する平等心を獲得しているので、罵りなどの悪にも動じることがない。妨げが通じない。故に罵っても罪が軽いと云うのである」

との意味です。天台大師は、仏より持経者・読誦者の方が勝れていると説いている経文などではないと解釈しているのです。

 

大石寺系統教団では、その文の前後に述べられている趣旨や、真偽論のない重要御書の趣旨とに照らし合わせないで、無理に日蓮本仏論の引証に使います。いわゆる「切り文引証」です。

これも切り文引証ですが、

大石寺系統教団では、

「不軽菩薩、既に法華経の為に杖木を蒙りて、忽に妙覚の極位に登らせたまいぬ。日蓮此の経の故に現身に刀杖を被むり、二度遠流に当る。当来の妙果、之を疑う可しや、」(波木井三郎殿御返事・興師写本・学会版1371)

を文証として、【「当来の妙果、之を疑う可しや、」とあるから、日蓮大聖人は本仏なんだ】と、主張しています。

しかし、この文には、「釈尊に取って替わって、日蓮が本仏の座に登るのだ」などと云う意趣など全く無いのです。

 

「末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん」(始聞仏乗義・学会版984頁)

とあるように、妙法五字は皆成仏の法であるからには、妙法信行によって妙果を得られる者は、日蓮聖人お一人に限らない道理です。

故に、大石寺系統教団の言い分を是とすると、「釈尊に取って替わって、本仏の座に登る者は、日蓮大聖人お一人でなく、沢山いる」

と云う事になってしまいます。

 

『波木井三郎殿御返事』には、

「而るに日蓮法師法華経の行者と称すと雖も」(学会版1370頁)

とあるように、「法華経の行者」であると公言していたことがわかります。「法華経の行者」則ち日蓮聖人は

「本門の教主の寺塔、地涌千界の菩薩の別に授与したもう所の妙法蓮華経の五字未だ之を弘通せず弘むべしと云う経文は有つて国土には無し時機の未だ至らざる故か、・・・当に知るべし残る所の本門の教主・妙法の五字、一閻浮提に流布せんこと疑無き者か、」(波木井三郎殿御返事・学会版1372頁)

とあるように、本尊たる本門の教主と妙法五字を流布する役目を受けているのです。

「本門の教主の寺塔」とは『宝軽法重事』に「一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず、いかでかあらわれさせ給わざるべき、」(学会版1475頁)とあるように、「寿量品の釈迦仏の形像 」のことです。

 

「寿量品の釈迦仏の形像 」とは、

「観心本尊抄248頁1行~5行」

「報恩抄328頁15行~16行」

「四菩薩造立抄987頁終わりから6行」

等を参照すれば、大曼荼羅あるいは一尊四士像であったことがわかります。

大曼荼羅あるいは一尊四士像を御本尊であると示された日蓮聖人には、「釈尊に替わって、日蓮が御本尊の地位(本仏の地位)に着く」などと云う考えなど無かったことがわかります。

また、『波木井三郎殿御返事』には

「法華経の心は当位即妙不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり、」(学会版1373頁)

と法華経本門の成仏観をちょと述べています。

「当位即妙本有不改の成仏」とは、

先師が

「悟った時がそのまま成仏で、成仏の時は本来のほとけであることを知った時である。随って長期多劫の修行を経てから改めて成仏するというのではなく、衆生は各々その当位当体に於いて、そのまま成仏する意。現前差別の当位当相そのまま本有常住無作の妙色心と談ずる成仏観を云う」

と説明しています。

 

本有の菩薩界である地涌本化の菩薩は、本有の菩薩の姿・地位(当位当相)のままに、内証は釈尊と同じになることが、地涌本化の菩薩の成仏と云うことです。

言い換えれば、釈尊所具の菩薩界としての真価を発揮し、因位の姿・地位(当位当相)のままに、仏行を行い久遠本仏の支分(手足となって活動すること)に成り切ることです。

『波木井三郎殿御返事』に

「当来の妙果、之を疑う可しや」

とあっても、

「日蓮は妙果を得て(成仏して)、釈尊に取って替わって、日蓮が本仏の座に登るのだ」

などと云う意趣など全く無いです。

目次に戻る