神天上法門について


ある人から、
【大石寺系教団の信徒が「神天上の法門と言って、大聖人様は『(法華経が広宣流布されるまでは)神社には悪鬼・魔神が住む』と立正安国論でいわれている」といっているが、神天上の法門についてどのように考えたらよいのですか。】
との質問を受けました。

『立正安国論』では、「正法である法華経信仰が廃れると諸天が正法の法味を味わえなくなり、また謗法・悪行の者が増加すると善神があきれ果てて、守護することを止め、去ってしまう(取意)」そして「善神聖人、国を捨て所を去る、是を以て悪鬼外道、災を成し難を致す。」(立正安国論20頁)と戒告していますが、【法華経が広宣流布されるまでは、すなわち一国同帰・国立戒壇建立されるまでは、神社には悪鬼・魔神が住む】とまでは言っていないですね。

「其の上此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば、社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く、・・・此の国思いの外に悪鬼神の住家となれり」(新池御書1440~2頁。ただし、この新池御書は偽書説があり、第一資料にはなりません。)
との文を根拠にして大石寺系教団信徒は【神社には悪鬼・魔神が住む】と主張しているのでしょう。

良寛さんの逸話として、お母さんが「上目遣いしていると魚のヒラメになってしまうよ」と良寛さんをたしなめた話が伝えられていますが、お母さんは、「上目遣いしている者はヒラメになる」などと本当には思っていなかったことでしょう。
たとへば、日本は上行菩薩垂迹の国であり、法華有縁、妙法広布の基となる国と受け止められていた日蓮聖人は、蒙古に完全に蹂躙占領されてしまうとは考えてなかった事でしょうが、強く誡告する為めに、「一国謗法に因って亡国する」旨の文は処処にあります。
強く警告する為めに「いまのままではこうなるぞ」と最悪の結果を示す場合があります。
「立正安国論」も誡告的な書ですから、善神捨国を強調しています。一国同帰にならない中は、善神が完全にいなくなってしまうと日蓮聖人が考えていたと思い込んでしまうことは、一方的は理解解釈だと私は考えています。

【今八幡大菩薩は、本地は月氏の不妄語の法華経を、迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂にやどらむと云云。若し爾らば此の大菩薩は、宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば其所に栖み給ふべし。法華経の第五に云く「諸天昼夜常為法故而衛護之」文。経文の如くんば、南無妙法蓮華経と申す人をば、大梵天、帝釈、日月、四天等、昼夜に守護すべしと見えたり。】(諌暁八幡抄588頁・真蹟断片大石寺存・身延曾存)
とか、
【かゝる不思議の徳まします経なれば此経を持つ人をば、いかでか天照太神、八幡大菩薩、富士千眼大菩薩すてさせ給べきとたのもしき事也。】(弘安三年十月の上野殿母御前御返事1572頁・真蹟在富士久遠寺、北山本門寺等。)
とあるように、一国同帰しないうちでも、法華経の行者あれば諸天善神は擁護すると云うお考えが日蓮聖人にはあります。
「種々御振舞御書」(真蹟曾存)にも、龍口法難のさい、鎌倉八幡宮に向かって
【いそぎ(急)いそぎこそ誓状の宿願をとげ(遂)させ給ふべきに、いかに此処にはをちあわせ給はぬぞとたかだか(高高)と申す。さて最後には日蓮今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照大神、正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候けれと、さしきりて教主釈尊に申し上候はんずるぞ。いたし(痛)とをぼさば、いそぎ(急)いそぎ御計らひあるべしとて又馬にのりぬ】
とあるように、当時、真言宗の僧が別当をしていた鎌倉八幡宮に向かって、早々に法華経守護の約束を果たせよと強く請求しています。
これも、広宣流布しないうちでも、法華経の行者あれば諸天善神は来臨擁護すると云う面を示されている文ですね。

また日蓮聖人の教えを信受してお題目を唱える者達が徐々に増加してくれば、諸天善神は法華経の法味を得られるわけですから、どんどん還帰し擁護する道理です。

氏神など日本古来の由緒ある祭神を祀る神社参詣を否定されてなかったことは、「三沢抄」から伺われます。
「三沢抄」には、
【うつぶさ(内房)の御事は御としよらせ(年老)給て御わたりありし。いたわしく(痛)をもひまいらせ候しかども、うぢがみ(氏神)へまいり(参)てあるついでと候しかば、けさん(見参)に入るならば定てつみ(罪)ふかかるべし。其故は神は所従なり、法華経は主君なり。所従のついでに主君へのけさんは世間にもをそれ候。其上尼の御身になり給てはまづ仏をさき(先)とすべし。かたがたの御とが(失)ありしかば、けさんせず候。】(興師写本存1490頁)
と有ります。
仏は主、神は従という決まりに背いた事を諫めています。この文からは「仏は主、神は従」という決まりに背かなければ氏神に参詣しても良しと考えられていたことが判ります。
また、上掲の「上野殿母御前御返事」に有る「富士千眼大菩薩」とは富士山浅間神社の祭神のことです。上野殿母御前は富士山浅間神社に時には参詣したかも知れません。

また、帝都弘通の日像上人には次のような話が伝えられています。日蓮聖人第十三回忌にあたる年に日像上人は京都に向かって旅たち、日像上人がいよいよ京都に入り、石清水八幡宮に参詣し、「法華経の法味を供養し京都弘通の志を告げよう」と夜を徹して読経唱題した暁に神主が「夜明け方の夢で、『我が社にに高僧が来ませり。篤く信じて供養参らせよ』とのご神託がありました」と言って日像上人を接待したということです。
いわゆる末法の始め五百年内でも、石清水八幡には悪鬼・魔神は住み着いておらず、祭神の八幡さまがましましたわけです。

さて、日興上人の『原殿御返事』によると、日興上人はつねづね「此の国に守護の善神無しと云う事」と説いていたようですが、日向上人は「守護の善神此の国を去ると申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読みに片方を読んで至極を知らざる者にて候、法華の持者参詣せば、諸神も彼の社壇に来会すべく、尤も参詣すべしと」南部実長殿が三島神社の参詣することを許容したとあります。
室町時代の鍋かぶり日親上人は『伝灯抄』に「日向聖人の御法理正義なるべしと存ぜず」(宗全18巻23頁)と日興上人の意見に賛同していますが、三島神社が釈尊や法華経を貶している教義を宣伝している神社でなかっただろうから、南部実長殿が立場上の事情があって三島神社参拝をしようとしたとしたならば、私としては日向上人の助言指導を理解できます。

『大日本国法華経験記』に「第八十六話天王寺の別当道命阿闍梨」があります。道命阿闍梨は天台座主慈恵大僧正(912~986年)の弟子なので平安時代初期の逸話です。
道命阿闍梨は読経の声微妙幽美にして聞く人誰も随喜讃歎した。時々法輪寺におこもりして勤行したが、あるとき同宿した一老僧が夢を見た。その夢とは
「堂の庭及び四の隣の辺に、上達部の貴き人、充ち塞ぎて隙なし。皆合掌恭敬して、寺に向ひて住す。また南の方より遙かに音あり。皆人聞きて言はく、金峰山の蔵王・熊野権現・住吉大明神、法華を聞かむがために、この所に来り至るといへり。皆悉く来り訖(おわ)りて、一心に頂礼し、阿閉梨の法花経を誦するを聞けり。住吉明神、松尾明神に向ひてこの言を作さく、日本国の中に、巨多の法華を持する人ありといへども、この阿閉梨をもて最第一となす。この経を聞く時に、生々の業苦を離れて、善根増長す。よりて遠き処より、毎夜に参るところなりとのたまふ。松尾明神の言はく、かくのごとし。かくのごとし。我れ近き処にあれば、昼夜を論ぜず、常に来りて経を聴けりとのたまへり。かくのごとぐ称讃随喜して、闇梨を礼拝せり。時に老宿夢覚めて見れば、道命阿闇梨、法輪寺の礼堂にありて、一心高声に、法華経の第六巻を誦せり。老僧眼より涙を流して、起立し礼拝せり。」(岩波書店日本思想大系・往生伝法華験記164頁)
平安時代初期の体験伝聞ですが、諸神が法華経の聴聞に来るという話です。私はこの体験伝聞は事実在ったことだろうと思います。
さて現在に至っては、日蓮聖人滅後すでに7百30余年が過ぎ、聖人の教えに基づき読経唱題する者は格段に増加しています。したがって、諸天善神も妙法の法味を十分味わえるようになっています。ですから諸天善神は当然、還帰し、法味納受していると思います。

釈尊や法華経を誹ったり、日蓮聖人の教えに背いた教義を盲信しながらお題目を唱える者たちの拠点ではない所の、氏神とか古来からの由緒ある神社ならば、妙法正信の者が参拝唱題すれば祭神はその場に来臨してくれるだろうと思っています。

(御書頁は学会版のページ数です)

追記

国会図書館近代デジタルライブラリーに『日像菩薩徳行記』が有りましたので、日像上人の体験を記した部分を紹介します。末法の始めであっても正神がまします神社がある事の証となる体験と言えます。

(以下引用)

八幡神感第六

四月十三日寅の刻、京都に着(つき)給ふ。其の道すがら一夜、石清水の社に宿し給へり。其の夜、大祝(はふり)夢に八幡大神、告げてのたまはく。『我に大切なる客人あり、汝早く是れをむかへよ』と。

夢覚めて奇異のおもひをなし出で、社頭をたづぬるに人なし。唯だ一僧安座せるのみなり。大祝(はふり)問うて曰(いは)く『師は何人ぞ。何の法をか持(たも)てるや』。師の曰く『我は東関の日像。我に微妙の法あり。衆生聞くものあれば智愚ともに作仏す。時節すでにいたれり。我れ此の法を弘めんがために此(これ)に来たれり』と。

大祝(はふり)曰(いは)く『我れ夢中に神託を蒙(こうむ)れり。師の妙法、神の尊(たっと)ふ所なり。師、王城に入て弘め給はば、必ず大利益あらんのみ』と云って遂に師を送りて都にいたれり。

向日明神感応第九

延慶三年の追却の時、師、帝都をさって西海に趣き給ふ。道、向日明神(むこうみょうじん)の祠(ほこら)を過ぎ給ふに、忽(たちま)ちに白鳩(しろばと)二つ来たりて、師の衣の裳(すそ)をくわえて去らず。師、是れをあやしみ給ひて、しばらく鳥井の下(もと)に徘徊(はいかい)し給ふ。

時に白髪の老翁一人来たり、師を見て云く『我れ師とかたらんと欲す。此の所に止まり給へ』と。

師、老人を見て常の人にあらざるとしろしめして、即ち神祠に留(とど)まり給ふ。夜は神の為めに法味をささげ、昼は路次に出て四衆を勧誘し給へり。其の地を鶏冠井(かいで)と云う。遠近の緇素貴賤、師の説法を聞いて信伏するもの甚だ多し。


目次に戻る