地涌千界出現本門教主為脇士の訓じ方

『観心本尊抄』の「此時地涌千界出現本門教主為脇士、一閻浮提第一本尊可此国」の文を大石寺系では、「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」と訓じている。

そう訓じる理由は、
《同抄にある「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」が「小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為す」(学会版248頁1行)と訓じられているように、正式漢文の例に倣って「釈尊を脇士と為す」と訓じるべきである》と言う意見で有る


この大石寺系の意見に対して、他の日蓮門下では共通して次のように反対意見を述べている。
《「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」は「小乗の釈尊」が主語となっているから、「迦葉・阿難を」とある目的語が主語(主格)の「脇士と為り」と云う訓になるが、「地涌千界出現本門教主為脇士」の文では、「地涌千界出現して」は直接の主語ではないから、「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」と同様な訓じ方で訓じるべきでない。
正式漢文なら、「地涌千界出現為本門釈尊脇士」と書くべきを、鎌倉時代の時代文で、「本門釈尊為脇士」と書いたものであろう》と指摘し、宗祖の漢文が正式漢文ではない鎌倉時代の時代文で表現されている例として、『観心本尊抄』の他の箇所(学会版248頁9行)に、正式漢文ならば「於正宗十巻中」(正宗の十巻の中に於いて)と表記すべきを「正宗於十巻中」と時代文で書いてある。
学会版248頁10行部分にある「分別功徳品自現在四信」(分別功徳品の現在の四信自り)は、正式漢文では「自分別功徳品現在四信」であるべきだが、やはり時代文で書かれている。
故に、「正式漢文の例に倣って、[釈尊を脇士と為すと]と訓じるべきである」とは一概に言い得ない》
と、大石寺系の訓じ方を批判している。

宗門先師の意見を調べてみると。

『録内啓蒙』には

《或る義に、釈尊を以て題目の脇士と為る義に見るべし。所以は何となれば、地涌千界が垂迹(日蓮と)出現の時、本尊を建立し給うについて、本門の釈尊を脇士とし、閻浮第一の妙法の本尊を立つる意にして、上の「塔中の妙法蓮華経の左右に(脇士)釈迦多宝」等との文にも叶うべし》

と云う見解を取り上げ、それに対して次のような批判している。
【この義は現文に順ずるに似たりと雖も正轍の義に非らるべし。・・・当書の向の文、並びに諸御書に四大菩薩を脇士とせる格に背くのみならず、四菩薩を脇士とするに非らずんば本門の本尊顕れざるが故に。・・四菩薩の本門釈尊の脇士たる事は上の文に既に顕著なる故に、今、文を省き給うなるべし。
是れ則ち「地涌千界(垂迹)が出現して、地涌を本門釈尊の脇士と為す」と遊ばすべきを、次上の「地涌千界」の言と近くかしましき故に、巧みに上の「地涌千界」の言を下に及ぼし用いて、下の「地涌」の二字を略し給うなるべし。】(啓蒙19巻73~74紙)と。
文意は、
「或る者が『釈尊が題目の脇士になるとの文意だ』と解釈するが、正しい解釈では無い。この文の前にある[釈尊の脇士上行等の四菩薩]との文や、諸御書に四大菩薩を脇士としている通格に背くだけでなく、四菩薩を脇士としなければ本門の本尊が顕れないし、四菩薩が本門釈尊の脇士である事は[釈尊の脇士上行等の四菩薩]との文ですでに明らかに教示されているからである。

すなわち[地涌千界が出現して、地涌を本門釈尊の脇士と為す]と記すところであるが、地涌の語が重なるので下線の地涌を略して[地涌千界(垂迹)が出現して、本門釈尊の脇士と為り]と書かれたのである。」と或る者の解釈を批判している。

『祖書綱要刪略』には、

《問う。或る説に云はく、「当今下種の時至れり、宜しく本因口唱の人法を用いて以て本尊を定むべし。法は謂はく南無妙法蓮華経なり。人は謂はく大聖人なりと」。便ち之を証するに本尊抄に此時地涌千界出現本門釈尊為脇士と云うを以てす。意の曰く釈尊を以て而も地涌の脇士と為すと。色相荘厳の本尊の如きは則ち是在世脱益の形像にして都て末法に用無し云々。此の説はいかん》

との問いを設けている。この問いは大石寺系の見解と同じである。『祖書綱要刪略』は、この問者の説を次のように批判している。

【彼の的拠とする文の如きは、固と地涌出現して釈尊を以て本尊と為し躬自ら脇士と為ることを明かす。即ち是れ一尊四士の立意なり。・・・
上の文に云はく「地涌千界は己心の釈尊の眷属なり。例せば大公周公等は周武の臣下、成王幼稚の眷属。武内大臣は神功皇后の棟梁、仁徳王子の臣下なるが如し」と。この文、周武神后を釈尊に擬し、成王・仁徳を下種の機に比し、周公等を以て地涌に類するなり。それ臣は宜しく以て君を補佐す、君は能く臣をして左右せしむ。人臣還って君主をして眷属と為らしむる者は未だ之有らざるなり。総結の文また準知すべし。
而るを曲げて為の字を訓じて恣いままに倒解を作し、自ら古本を見ず、前後の文を検せざるの愚盲を訴う。一と何ぞ暗短なる】(刪略巻之七・三十紙)と云う答えである。

答えの大旨は「問者が文証に挙げている[此時地涌千界出現本門釈尊為脇士]の文は、正しく解釈すれば、地涌出現して釈尊を以て本尊と為し、地涌が脇士となるとの文意であって、実には一尊四士の根拠文証である。『観心本尊抄』に[本門の所化たる本化地涌千界の諸大菩薩は、もとより釈尊の眷属であるのだから当然我等凡夫の己心に具する釈尊の眷属である。

例すれば、太公望や周公旦等は支邦周代武王の臣下であったが、武王の死後その後継者のいまだ幼稚であった成王を輔佐(たす)け、その眷属として臣事(しんじ)したように、また我が国の武内宿禰大臣(たけうちしゅくねのおとど)は、神功皇后の棟梁(柱石の臣)であり、同時にまた皇后の御孫仁徳王子の輔弼(ほひつ)の臣下であったように、上行、無辺行、浄行、安立行等の本化の四大菩薩等は、実に久遠の釈尊の眷属であると同時に、我等凡夫の己心に具足する菩薩である。(田中応舟氏訳)]との文がある。

この文は、周の武帝と神功皇后を釈尊になぞらえ、武帝の王子である成王と、神功皇后の跡継ぎの仁徳天皇を下種の機に比し、成王を補佐した周公や仁徳帝を補佐した武内宿禰大臣を以て地涌になぞらえている。それ臣は宜しく以て君を補佐し、君主は能く臣をして、そばに仕える者とする。臣下が反対に君主を眷属とすることなど無い。観心本尊抄の総結の文である[一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裏て、末代幼稚の頸に懸けさしめ玉ふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと、大公、周公の文(成)王を摂扶し、四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり]との文意を参照して、正しく解釈すべきである。問者のように不正に[為]の字を訓じて恣意的に曲げて倒解を作す者は、前後にある文の文意を正しく理解しない愚盲・暗短の者である」

と答え問者の間違いを糺している。

次に本化妙宗の山川智応博士は、

【(観心本尊抄の)正宗分の終わりに有る「小乗釈尊迦葉阿難為脇士」を「小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為す」と訓じると同例に「本門の釈尊を脇士と為し」と訓み、本門の釈尊を妙法五字の脇士とする閻浮未有の本尊と解する向き(大石寺日寛師の説)もある。その理由は、上の正宗分に「塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩」とある文、及び流通分の「此の時地涌千界世に出現して,但だ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」とあるからで、即ち正宗分の文は、おのずから釈迦・多宝が妙法五字の脇士たるを示し、流通分の文は、地涌出現して幼稚に授けるのは妙法五字なるを証するという見解である。

この見解を証する他の文証として、報恩抄の「宝塔の中の釈迦・多宝外の諸仏、並びに上行等の四菩薩脇士となるべし」を挙げている。必ずしもその義はないことはないが、報恩抄はすでに曼荼羅の形貌を出されているのに係わらず「本門の教主釈尊を本尊とすべし」といわれ、観心本尊抄にも正宗分にすでに「未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」といわれ、流通分の初めにそれを受けて「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば、三国の王臣未だ崇重せざるの由之を申す」とあって、「本門寿量品の本尊」は「寿量の仏」なるを示され、第二十八答にも「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊」といわれて、上の「寿量の仏」を意味せられているから、大曼荼羅の中尊の南無妙法蓮華経は、名は法であっても体は仏でなければならない。左右の釈迦・多宝は、妙境妙智を表して、八品会上の能説を示し、また五百塵点劫の能覚を示し、中央の南無妙法蓮華経は、所説に約しては、境智冥合の常住の仏果を表し、所覚に約すれば、無始の本覚を示されたもので、ともに本仏釈尊の久遠本有常寂常照の一念三千で、本仏の本体をお挙げになったものである。

だから本抄の正宗分は「本尊為体」に、釈迦仏・多宝仏に脇士の名を用いられず、上行等を本門釈尊の脇士とし、報恩抄も、形貌は大曼荼羅なるに係わらず、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」といわれているのである。

鎌倉時代の時代文としては、斯様にも自在に配字したのであって、今も漢文的ならば、必ず「地涌千界出現、為本門釈尊脇士」であるのを、時代文的に配字せられているに過ぎないのであろう】(観心本尊抄講話570~571頁)

と、見解を述べている。

清水龍山師は、

【本抄全篇始中終を通じて「本門の釈尊」は主尊本仏で「地涌千界」は脇士本僧であることは文義意の自然妥当で、断じて主尊本仏がその脇士である地涌千界の脇士となる文義意はない。

一、本門の本尊の体相を明かして、

『本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙○経の(主尊)左右に(脇士)釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩云々。』

二、其の顕現の時を明かして、

『是の如き本尊は在世四十余年之無し、八年之間但八品に限る。』

三、其の滅後流行の時を明かして、

『正像二千年の間、小乗の釈尊は(主尊)迦葉阿難を脇士と為し。権大乗ならびに涅槃経法華経の迹門等の釈尊は(主尊)文殊普賢等を以て脇士と為す。此等の仏をば正像に造り書けども、未だ寿量品の仏有らず(地涌千界を以て脇士と為る)。末法に来入して始めて此の仏像を(地涌千界を脇士とする寿量品の本仏釈尊本尊)出現せしむべき(地涌の垂迹日蓮が顕彰する)か。』

と略して小乗権大乗並びに迹門等の迹仏と、本門寿量品の本仏(文は且く主尊を標して脇士を略す)との正像(小・権・迹)末(本門)三時流行を明かし、続いて広く、

『正像二千年の間、四依の菩薩ならびに人師等は余仏小乗・権大乗爾前迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども、本門の寿量品の本尊(主尊)並びに四菩薩をば(脇士)三国の王臣倶に未だ宗重せず、此の事粗ぼ之を聞くと雖も前代未聞の故に耳目を驚動し心意を迷惑す。請う重ねて之を説け、委細に之を聞かん。』
と数番問答料簡して

四、最後の結示が即ち今の文、

『此時(末法)地涌千界出現本門釈尊為脇士、一閻浮提第一本尊可立此国』

と、すなわち主尊も脇士も前後一貫している。

但し第三の文略明の下には「小権迹の釈尊」には各其の脇士を挙げて「脇士と為し」とあるのに、独り「本門の釈尊」には、但、主尊のみを標して「地涌千界を脇士と為し」の語が省略されている。

然し続いて広明の下には「本門寿量品の本尊」(主尊)「ならびに四大菩薩」(脇士)と、具に主尊本仏と脇士地涌とを並べ挙げられてある。

その結示の今の文、豈に忽ちに正反対に主尊が地涌で、脇士が本仏と成るの理あらんや。況や第一の文、明らかに「釈尊の脇士上行等の四菩薩」とあるをや。

古来吾が宗先哲にも、前の第三の小権迹の主尊及び脇士の文と同じく「脇士と為して」と訓じて、而も其の主尊は興門流の言う「地涌千界」ではなくて、「中尊の妙○経に対して前の文の左右」を今文には「脇士」と遊ばしたまでで、もし「釈迦」と「地涌」と相対すれば「釈迦は主尊」「地涌は脇士」なることは前後一貫、設へ「脇士と為す」と訓ずればとて、「地涌本僧なる日蓮」が「主尊本仏本尊」となる如き、仏宝(本仏)僧宝(本僧)師(本仏)資(本僧)顛倒の義ではなく、「末法に地涌千界が日蓮として垂迹示現して、中尊の妙○経の左右(脇士)に、本門寿量品の本仏並びに本僧四菩薩を脇士と為したる一閻浮提第一の本尊を此の国に始めて造り書き顕彰(出現)せしむべきか」の意である。】(日蓮聖人遺文全集講義第十一巻・527~529頁)

と説明している。

興門系統の要法寺歴世の近藤勇道師が著書『興門正義・1』の92頁には、

「日興上人の直接臨写の本には、為の字の左右に、[脇士として]と[脇士となりて] と読むように註記している」

と指摘して、大石寺系の訓じ方が興師の訓じ方と違っていると述べている。

『観心本尊抄』には、

「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う、又迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり、天台大師云く『是れ我が弟子なり応に我が法を弘むべし』妙楽云く『子父の法を弘む世界の益有り』」、輔正記に云く『法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す』等云云。」(学会版205頁)

「遣使還告は地涌なり」(学会版251頁)

「我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」(253頁)

とある。何れも文も、久成釈尊は師、本化菩薩は弟子で久成釈尊に遣わされた仏使と規定している文である。

大石寺系のように「釈尊を脇士と為す」と訓じることは此等の文と矛盾する。やはり、「脇士となりて」との訓じ方が正当である。

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