二箇相承書批判

随分と以前のことですが、ニフティのパソコン通信時代に、五・六人連名での配信を受けた文書「日蓮正宗への批判」の、二箇の相承批判の部分の要旨を紹介します。配信者の所属団体は不明ですが、内容から推測すると美濃周人氏著『日蓮正宗・創価学会 虚構の大教団』の所説に拠っているようです。

私の補足も付け足して(本文中の紫色部分)紹介します。

矛盾だらけの「二箇相承書」

 

日蓮正宗が看板にしている「二箇の相承」が後世の偽作だということである。

「二箇の相承書」なる文書を根拠にして、日蓮正宗は「唯授一人血脈相承」なるものをでっち上げ、自分たちだけが正しいなどと言い張るのである。

 

身延山を出立し、池上邸に到着した翌日の弘安五年九月十九日の手紙『波木井殿御報』には「所労(病気)が重いので、判形(サイン)も書けなくて申し訳ありません」とある。

いったんお元気を取り戻したが、弘安五年十月十三日、現在の時刻にすると、午前八時頃遷化された。

入滅間際に、池上相承書(身延山付嘱書)のような判形を記した正式な文書など書ける体力は無かったとの推測するのが常識で有る。

 

ところが、日蓮正宗では「書けた」と主張する。日蓮正宗では今さら二箇相承書が「ニセ物です」とは口が裂けても言えないから、非常識な推測を述べざるを得ない。

脳卒中や急な心臓発作ならいざ知らず、日蓮聖人は明らかに「老衰」だ。『波木井殿御報』を書した際も、強い疲れの為めに、判形も自ら書けなかった事実から推測しても、要法寺日辰が書写本の如き漢文で判形も記している文書など書けるわけ無いと思うのが常識だ。入滅の直前状況の中で完備整足された身延山付嘱書(池上相承書)を書き上げて日興上人に授与するなどとは、常識では到底考えられないことなのである。

この疑義に対して大石寺系では、

「しかし。非常に偉大な精神力をもった人の行動を、普通人の常識にあてはめて考へることは危険である。(中略)佐渡の雪中に死ななかった聖人が、御遷化の当日に花押位書けないことはあるまい。いはんや当日最後の御説法さへ有ったといふに於ておや。それでも猶、一月前には花押を書かれなかったといふ疑が残るかも知れないが、非常に衰弱してゐた病人が死の直前、一時元気を回復することは度々見る所である。マシテ前者は信者が、当然なすべきことをしたに過ぎない財施への賞状であり、これは末法の大導師の補任、総本山別当の親任状で重さが全然ちがふ。」

などと反論しますが、御入滅当日に説法された事が事実有ったのか?疑問である。また身延11世行学院日朝の著『元祖化導記』に、「或記云、十月十二日酉刻(午後六時)北二向テ坐シ玉ヘリ、御前ニ机ヲ立テ、花ヲ供エ香ヲ焼キ、年来御安置ノ立像ノ釈迦仏ヲ立参セント申シタリケレバ、目ヲアゲテ御覧有テ面ヲ振り玉フ、アル御弟子御直筆大漫荼羅ヲ懸ケ奉ル可キ耶ト伺イ申サレケレバ、最モ、ト答サセ玉フ間仏像ヲ少シ傍へ押シ寄セ参セテ、其ノ後(うしろ)二御直筆ノ妙法蓮華経ノ漫荼羅ヲ懸ケ玉フヲ御覧有リ」と「或記」を引いて記しているが、十月十二には、言葉を発しての御返事はすでに大儀の状態であったらしい。さらに御臨終近くの遺言として『元祖化導記』には

「或ル記ニ云ク、御終焉近クナテ日朗以下ノ老僧達二対シテ仰セラレケルハ、我死スルナラバ全身ヲ瓶二奉納シテ其ノ儘マ身延山二送り之ヲ置クベシ云々、日朗申サレケルハ、一日半日ノ間ナラバ仰セノ如ク之レ有ル可キカ、既二三日、四日ノ路次ノ伝デ野二臥シ山二臥ス様ニテハ届ケ申シ難ク、存生ノ折節サヘ謗者充満ノ国ナレバ路頭モ輙スカラズ、況ヤ御身骨ヲ左様二致サソコト  ハ叶難カルベシ、簡要隠便二葬送シ奉テ、御身骨ヲ残サズ身延山二入レ奉ルベキノ由シ申サレケレバ、此義最モナリ、然レバ日朗等宜シク相計ルベキノ旨、仰サレケリト云々。此ノ趣ハ下総本土寺開山日典ノ記録抄物ニコレアリ、目朝慥カニ之ヲ見、注シオク者也」

との臨終近くにおける、弟子との遣り取りの様子を伝えている古記の記述を記している。十三日に相承書を書けたとは思えない。どう考えても大石寺系の反論には理がない。

祖滅52年ごろ書かれたと云う日道撰述(最近では日時撰述と云われている)『御伝土代』(大聖人・日興上人・日目上人三人の伝記)にも日興上人に二箇相承書が与えられたという記述がない。二箇相承書授与は重大事であるから、もしも相承が事実有ったのであれば、必ずや『御伝土代』に記述されたはずである。記述していないのは二箇相承書授与など無かった証拠である。

 

御入滅間近と云う知らせで大勢の信徒や弟子達が池上邸に集まっていたのだから、日蓮聖人が身延山付嘱書(池上相承書)を書いた事を、誰かが記録したり、伝えてしかるべきなのに、直弟直信徒の誰もが、伝えていないのも、不思議な話であり、不審なのである。

日昭上人や日朗上人も、日蓮聖人の枕元にいたであろから、もしも、身延山付嘱書(池上相承書)を書いた事を目撃していたらとしたら、日興上人を「身延山久遠寺の別当」として扱ったに違いない。ところが、日昭上人や日朗上人や他の老僧や弟子、信徒が日興上人を「身延山久遠寺の別当」として尊崇したという形跡がない。

波木井実長公の日興上人宛の手紙にも、

「申せば老僧達も同じ同胞にてこそわたらせ給い候」(富集第八巻14 )と書いてあるくらいである。

 

二箇ノ相承書、いわゆる「日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)」と「身延山付嘱書(池上相承書)」の伝承について、日蓮正宗では、「1556年(弘治2年)の日辰師が二箇相承書書写した25年後、1581年(天正9年)に、北山本門寺と西山本門寺との紛争で、北山本門寺の霊宝百数十点が武田勝頼の家臣・増山権右衛門、穴山梅雪ほか百余名の者たちに奪い取られ、紛失してしまった。その中に二箇相承書の正筆が含まれていた。」と云っている。

二箇相承書の正筆と称するものは、少なくとも天正9年4月以後は「ない」ということになる。

 

日蓮正宗大石寺第五十二世日霑法主が、有名な霑志問答(明治十二年の大石寺日霑法主と北山本門寺・玉野日志貫首の間の往復文書による問答)の中で、二箇相承書について驚くべきことを書いている。

「…日辰師、重須(本門寺)に登山し、親しくこの真文(二箇相承書の正筆のこと)を拝し、模写して、①形木摺となし、広く江湖に施行し、今に蔵する者多し。また②慶長の末には、貴山(北山本門寺のこと)の先師、その真書(二箇相承書の正筆のこと)を駿河城に持参し、後藤少三郎を以て前の源大将軍徳川家康公の台覧に備えしことは、駿河政治録に載する所明白にして、これ、私ならざる公然たる御真蹟自他ともに争ひなき所なり」(富集第七巻119頁 『両山問答』)と。       

日霑法主によれば「②慶長の末には貴山(北山本門寺のこと)の先師、その真書(二箇相承書の正筆のこと)を駿河城に持参し…」とのことなので、天正9年の武田の兵乱の時に紛失したはずの、二箇相承書の正筆が、徳川時代には「北山本門寺にあった」という事になる。

慶長年間というのは西暦1596年から1615年をいう。関が原の合戦から江戸幕府が開かれた時代と考えればわかりやすい。

天正9年(1582年)に紛失したはずの二箇相承書の正筆が、約二十年後の慶長年間に再び、「現れた」ということになる。こんなバカな話があるだろうか。

 

日蓮正宗では、「後藤少三郎を通して徳川家康公に見せたのだから真蹟で有った事は確かで有る」と主張している訳だが、後藤少三郎や徳川家康公に真蹟鑑定眼が有ったと云う証拠もないのだから、大石寺系この主張は成り立たない。日蓮正宗所属の山口範道も、その著書『日蓮正宗史の基礎的研究』において、「さて重須本のことであるが、日廣や日耀が写したものや、駿府城に奉持したという重須の伝承本は正本ではなくて、花押迄模写したところの古写本であったのではと思うのである。これは次のことから推定できる」(43頁)

と論じている。

 

『日蓮一期弘法付嘱書』の内容

 

日蓮一期弘法

  白蓮阿闍梨

  日興付嘱之

  可為本門弘

  通大導師也

国主被立此法

  者富士山

  本門寺戒壇

  可被建立也

  可待於時耳

   事戒法謂

   是也就中

   我門弟等

   可守此状

  也

   弘安五年

   九月 日

          日蓮花押

   血脈次第 日蓮

 

日辰写本と日教写本とアベコベ

 

 まず、二箇相承書の全文を載せた最古の文献は、長享2年(1488年)6月に大石寺僧侶・左京阿闍梨日教師が書いた『類聚翰集私』、延徳元年(1489年)11月に同じく左京阿闍梨日教師が書いた『六人立義破立抄私記』である。これは要法寺日辰師が北山本門寺で二箇相承書を書写する67年前の文献なのだが、しかしここに載っている二箇相承書は、現在の日蓮正宗でいう二箇相承書の「身延相承書(日蓮一期弘法付嘱書)」と「池上相承書(身延山相承書)」の内容が、まるっきり正反対になっている。左京阿闍梨日教師が書写した二箇相承書と要法寺日辰師が書写した二箇相承書を比較してみよう。

 

『日教師書写の二箇相承書』

釈尊五十年余年の説教、白蓮日興に之を付属す。身延山久遠寺の別当たるべし。背く在家出家の輩は非法の衆たるべきなり

  弘安五年九月十三日            日蓮在御判         血脈の次第 日蓮 日興

  甲斐の国波木井郷、山中に於いて之を図す

                                      

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法とは是なり。中んずく我が門弟等此の状を守るべきなり。

  弘安五年十月十三日           日蓮在御判

 

「弘安五年九月十三日、日蓮在御判、血脈の次第 日蓮 日興 甲斐の国波木井郷、山中に於いて之を図す」とあるが、日蓮聖人が常陸の国で湯治治療を受けるために身延山を出発したのが九月八日であり、九月十三日は旅の途中にあり、波木井郷にはいなかった。これだけを以てしても、日教師の身延相承書はニセ物と断定してよい。

 

日辰写本の二箇相承書

 

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

  弘安五年壬午九月 日        日 蓮 在 御 判

                  血脈の次第 日蓮日興

                                      

釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。

  弘安五年壬午十月十三日           武州池上

                  日 蓮 在 御 判

 

なぜ両写本の内容がアベコベなのか?

 

比較してみると、日辰師写本は、日教師写本の二箇相承書を加筆、訂正、省略しているのがわかる。しかも両者の二箇相承書は、あべこべに成っている。

もしも、真筆の二箇相承書を書写したとすれば、こうしたことが起こり得るはずがないではないか。しかもこれは、大事な文書であるから、細心の注意をもって書写したはずである。両写本の内容がアベコベになっているのは、二箇相承書が偽書である証拠である。

 

日蓮正宗の詭弁

 

日蓮正宗では、苦しい弁解をしているので、その詭弁を斬っておくことにする。

 

① 日蓮正宗大石寺五十九世堀日亨法主の著書『富士日興上人詳伝(上巻)』に於いて、「日辰写本を正として、日教本はつねに二箇相承書の真筆を拝する立場にない左京阿闍梨日教師が書写したものであるから、年紀の指し違えや付記の誤りがあるのは、やむを得ないことだ」との趣旨を書いている。

しかし、これは詭弁だ。書写の誤字・脱字の弁明にはなるだろうが、日教写本と日辰写本の内容がまるっきり正反対になっていることの説明には、まるでなっていない。

② 日蓮正宗僧侶山口範道師は著書『日蓮正宗史の基礎的研究』に於いて、

「一つの事跡に対して数通の異説古文献があって、その中より一つの事実を証拠立てようとする場合、その原本の形状を留める文献が一通しかない場合は立証価値が弱く、証拠文献が二通あるものは立証が強くなるものであると考える」といって、「二箇相承書の写本が、日教写本と日辰写本の二通存在していることが、二箇相承書の立証が強くなっている」と強弁している。しかし、あべこべの二通り写本の存在が正筆が在った証拠などには常識的には成らない。

③ 日蓮正宗法華講員・松本佐一郎氏は著書『富士門徒の沿革と教義』に於いて、日辰写本を正とし、日教写本は、すでに書写の誤りを犯していた誰かの写本を書写したものだと推測し、

「(二箇相承書は)おそらく秘書として、めったに外へは出さなかったであろう。そのために実物を見た人が少なく、左京日教ほどの人でもひどい悪本しか知らなかった」と弁明している。

 

松本佐一郎氏は何の証拠もなく、推測だけで講釈師顔負けの空想の物語を書いている。

二箇相承書の正筆は、唯授一人の血脈を相承してきたなどと称している歴代大石寺法主に伝承されてきたのではなく、日興上人が晩年、弟子の育成のために談所として建立した北山本門寺に格蔵されてきたものだ。だから大石寺の秘密文書であったなどと言えない。

 

大石寺が要法寺法主の写本を正とすること自体が大きな矛盾だ

 

さらに矛盾をひとつ言っておこう。大石寺が蔵している二箇相承書の写本は、京都・要法寺の法主日辰師が書写したものだが、かたや、左京阿闍梨日教師は、元は京都要法寺の僧侶であったが、大石寺九世日有法主に帰伏した大石寺の僧侶である。日教師が書写した写本は、日辰師の写本よりも、先に歴史の中に登場してくるという事実である。常識からすれば、大石寺僧侶の日教師の写本こそ重要視するのが普通であろう。

 

『身延山相承書』の内容

 

釈尊五十年

説法相承

白蓮阿闍梨日興

可為身延山

久遠寺別当也

背在家出家

共輩者可為

非法衆也

 

弘安五年壬午

    十月十三日

     日蓮花押

武州池上

 

 「富士山本門寺戒壇 可被建立也」の文が偽作の証拠

 

「富士山本門寺戒壇 可被建立也」を、日蓮正宗や創価学会は「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と読んでいる。しかし、御書には「本門の戒壇」との用語はあるが「本門寺の戒壇」と云う用語は使われていない。

 

六老僧指名と矛盾する二箇相承書

 

研究者によると、日蓮一期弘法付嘱書・身延山付嘱書の二箇相承書は、日蓮聖人の真筆は最初から存在せず、1430年前後の永享年間、大石寺九世法主日有のころ、富士門流関係者・北山本門寺が自門の正統を強調するために作成した偽書だとする説が最有力であるとされている。二箇相承書がニセ文書であるということは、日蓮正宗や創価学会以外では常識なのである。

 

 この二箇相承書は、弘安五年十月八日、日蓮聖人入滅の直前に制定した本弟子六人(六老僧)の「定」と明らかに矛盾するものである。日興上人執筆の 「宗祖御遷化記録」によると、「定」は六人面々に帯するべしとして、日持、日頂、日向、日興、日朗、日昭と入門・法臘の浅い者からつらね、この本弟子六人は序列なく「不次第」であると、宗祖日蓮聖人が定めているのである。

 

 もし日興上人が宗祖日蓮聖人から血脈相承を受けていたなら、「定」の序列を「不次第」とする断り書きする必要はなく、日興上人が最上位に位置に書かれているはずである。にもかかわらず、弘安五年九月に日興上人に血脈相承して、翌十月八日に本弟子六人の序列を「不次第」と定めて、さらに日蓮聖人入滅の直前に日興上人を身延山久遠寺の別当にするなど、絶対に有り得ないことだ。こうしたことからも、二箇相承書がニセ文書であると断定できる。

こうした批判に対して大石寺系教団では

この大聖人御自身御入滅の門下僧団としての一致結束を図っていく為に
六人を選定されたのだ。日昭、日朗が大聖人の後継者は自分だと考えていたのだから、もしも、二箇相承の存在を日昭、日朗が知れば門下分散になる恐れ大であるから、日昭、日朗等には二箇相承の事は知らせなかったのだ。」などと苦し紛れの言い訳をする。

日昭、日朗上人達は命がけで大聖人に信服随従した方々である。「滅後における第一指導者を日興に定める」との大聖人の決定を知れば、素直に受け入れたであろう方々である。また、「聖人の御義を相継ぎ進せて、世に立て候はん事こそ詮にて候へ・・・日興一人本師の正義を存して本懐を遂げ奉り候へき」(原殿御返事)との気概覚悟を懐いていた日興上人であるから、第一指導者として相承を受けたならば、正々堂々と発表し、大聖人の御意志を尊重し実行する方であったろう。大石寺系教団の苦し紛れの言い訳は通用しない。

 京都要法寺日辰書写の『日蓮一期弘法付嘱書(身延相承書)』によれば、日興上人は「本門弘通の大導師」に任命されたことになっている。

しかし、日蓮聖人御入滅後、日興上人が大導師になったという形跡はどこにもないのである。日興上人筆録の『宗祖御遷化記録』に依ると、日蓮聖人は弘安五年十月十三日に池上邸で入滅され、翌十四日に入棺および葬送の儀式が執り行われているのである。弘安五年十月十四日の葬送の儀式に於いては、大導師は日昭上人、副導師が日朗上人である。日興上人は、後陣左にいる。もしも、弘安五年九月に日興上人が「本門弘通の大導師」に任命されていたとしたら、日興上人が日蓮聖人葬送の儀の大導師をつとめたことだろう。

 

さらに『御遷化記録』には、身延山久遠寺の日蓮聖人の墓番についても述べている。日蓮聖人の入滅後、弘安六年正月、弟子たちは「輪番制度」を定めて、日蓮聖人の墓守をすることを定めている。これを見てもわかるように、日興上人は本門弘通の大導師でもなければ、身延山久遠寺の別当でもなかった。もしも、日興上人が別当に任命されていたら、墓守輪番の一人に名を連ねるわけがない。別当というのは、現在の総本山寺院の住職、総括者という意味である。

 

以上のことからも、二箇相承書はニセ文書と断定されるが、これに対して日蓮正宗は「二箇相承書は秘密文書の中の秘密文書だったのだから、ほかの弟子たちが知らなかったのは当然だ」という論法で、これに反論する。

二箇相承書は日蓮聖人秘密文書だと言っているが、実際は、日興上人から日目上人に相承されずに、日興上人が晩年、重須談所として弟子の育成のために住んだ重須本門寺(現日蓮宗大本山・北山本門寺)貫首に、代々伝承さていた事になる。これもおかしな事だ。

重須学頭であった三位日順(祖滅88年に61歳寂)の『摧邪立正抄』に在る「大聖忝くも真筆に載する本尊、日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と云云」との文の「遺札」は二箇相承を指していると云う見解もあるが、「二箇相承書」に対して「遺札」と云う呼称は、軽すぎると思う。日辰写本では両相承とも「白蓮阿闍梨日興」と記してあるが、日教の『類聚翰集』に「身延相承書」では「白蓮阿闍梨 日興」ではなく「白蓮日興」と記してあるので、「白蓮阿闍梨と記している遺札」とは言えない。

「本弟子六人(六老僧)を定めた「定」にも「白蓮阿闍梨 日興」とあるので「遺札」とは、六老僧を定めた「定」や、同じく「白蓮阿闍梨」と記している「御遺物配分事」を指している可能性も大である。ゆえに「二箇相承書」の事であるとは即断できない。仮に「遺札」が「二箇相承書」を指しているとしても、祖滅70年頃に始めて文献に顕れたもので、それ以前に存在したと云う記録は無い。

また、日順の『日順闍梨血脈』に「日興上人は是れ日蓮聖人の付処、本門所伝の導師なり、禀承五人に超え紹継章安に並ぶ」(宗全2―335頁)

を切り文解釈して「二箇相承が在った文証である」と反論する場合がある。

検討すると、この文の前に「(日蓮聖人は)沒後住持の為めに六人の付処を定む」

と有るが、興師一人に付法付属した事を記していない。もしも二箇相承が行われたのなら、六老僧指定だけでなく、続いて興師が二箇相承を承けた事が記されていて当然である。記されていない事実は二箇相承が行われなかった証である。

このもんの前に「(日蓮聖人は)沒後住持の為めに六人の付処を定む」

と有るので、「日興上人は是れ日蓮聖人の付処、本門所伝の導師なり」とは、日蓮聖人が定めた六老僧の一人として弘教を託され、法華本門の教えを弘める導師であり、他の五老僧よりも正しく日蓮聖人の教えを禀承している事は、ちょうど、天台大師に学んだ一千人の中で、一番天台大師の教えに達し得た章安大師のような方である」との文意である。

この文の六行後に「此の師(日興上人)、亦た法主(日蓮聖人)の佳例に準望して六人(本弟子六人)の名言を授与す」と有る。もし日蓮聖人が唯受一人二箇相承を行ったとしたら、その佳例に準望して興師も唯受一人二箇相承を行ったであろうが、実際には本弟子六人を定めたが、一人を選んで特別な相承をしたとは記していない。

故に、『日順闍梨血脈』は、むしろ二箇相承が無かったことの証である。

 


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