『聖人御難事』の「余は二十七年なり」の文意
 
日蓮正宗では、【弘安二年十月一日の『聖人御難事』の
「此の法門申しはじめて今に二十七年弘安二年[太歳己卯]なり、仏は四十余年天台大師は三十余年伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり。」(1189頁)
との文は、開宗27年後の弘安二年十月十二日に大聖人が出世の本懐である戒壇御本尊(板本尊)を図顕した事を述べている文である】と解釈しているが、日蓮正宗のこの解釈は間違で有る事を小考してみる。
 
「仏は四十余」とは、成道後、出世の目的であった法華経説法に至るまでの期間。
「天台は30余年」とは、天台大師が、23歳慧師へ入門より57歳にて、終窮究竟の極説と賞嘆される摩訶止観講説までの期間。
 
「伝教は20余年」とは、戒牒取得比叡山入山より高雄寺講会までの21年間。
「去ぬる延暦二十一年正月十九日に天王高雄寺に行幸あつて七寺の碩徳十四人善議勝猷奉基寵忍賢玉安福勤操修円慈誥玄耀歳光道証光証観敏等の十有余人を召し合わす、華厳三論法相等の人人各各我宗の元祖が義にたがはず最澄上人は六宗の人人の所立一一に牒を取りて本経本論並に諸経諸論に指し合わせてせめしかば一言も答えず口をして鼻のごとくになりぬ、天皇をどろき給いて委細に御たづねありて重ねて勅宣を下して十四人をせめ給いしかば承伏の謝表を奉りたり、・・・而るに十四人彼の邪義をすてて伝教の法華経に帰伏しぬる上は」(報恩抄303頁)
と高雄寺講会を伝教大師の生涯における重要事と宗祖は認識されていた。
 
釈尊と天台の場合は、最極最勝法門の開示を出世の本懐成就としているが、伝教の場合は天皇の面前において、公的対論を行い六宗を帰伏させた事を伝教大師の出世の本懐成就としている。
 
宗祖の場合について考えると、出世の本懐が最勝法門の開示を指すのであれば、佐渡において、「開目抄」「観心本尊抄」にて法門を開示し、大曼荼羅本尊を図顕し終わっているから、16歳出家を起点にしても、もしくは32歳開宗を起点にしても、法門上の本懐成就は36年後か20年後と云う事になり、27年後本懐成就とは言えない。
 
法華経に予言されている法難をつぶさに体験されたので、51歳の二月に「日蓮は法華経の行者」で有る事を「開目抄」にて宣言し(人開顕)、52歳の4月に「観心本尊抄」に於いて本門立脚の法門と図顕すべき大曼荼羅の姿を記述し、二ヶ月半後の7月8日に大曼荼羅を図顕している。
 
本尊が宗教上極めて大事な重要なものであるのに、その後、6年後の弘安二年まで、最極最勝真実の本尊を図顕しないで居たと考える事はあまりにも無理がある。
大石寺では「戒壇本尊(板曼陀羅)は他の曼陀羅を統括する本尊であり、戒壇本尊と通じさせない他の曼陀羅は本尊の価値が無い」と云うような主張をしているようだが、そうすると「板本尊が造立される前にも弟子信徒たちに大曼荼羅が授与されたが、それらは本尊としての力が無かったのか?方便的本尊を授与していたのか?」との反論も起きよう。
 
祖滅52年頃に著されたと云う『御伝土代』(日道著と伝えれる宗祖・日興上人・日目上人の伝記の草案)にも、板本尊造立は記述されて無い。板曼陀羅図顕が宗祖出世の本懐と云うほどの大事な事柄であれば、宗祖か日興上人の御伝のどちらかに記述して有って当然なのに記述していない。日蓮正宗所属以外の一般の研究者の検討によると「大石寺九世日有の時から世に出て來た」との事である。後世になって初めて文献にその名が出てくるものなので、宗祖御在世には存在しなかったと云わざるを得ない。
 
将来建立される本門戒壇に奉安する本尊について興門上古においてはどのように考えられていたかというと、
日順の『心底抄』には、
「久成の定慧広宣流布せば、本門の戒壇其れ豈に立てざらんや。仏像を安置することは本尊の図の如し、」(宗全2ー346頁)
と有り、
日印の『日代上人に遣す状』には、
「観心本尊抄報恩抄の如んば、閻浮提第一の本門の本尊の為体、宝塔の内に妙法蓮華経の左右に釈迦多宝、塔外に上行等の四菩薩、乃至一切の大衆、悉く造立の由見えたり。・・・所詮、料足微少の間、宝塔造立するに能へず。其れまで先ず四菩薩計り造り副えられて大曼荼羅の脇に立て奉り候畢ぬ。縦え遅速の不同有りとも、御書の如く造立せしめんこと決定なり。・・・観心本尊抄、撰時抄の如んば、西海侵逼の時、上一人従り下万民に至るまで妙法蓮華経の五字の首題を唱へ奉て、高祖聖人に帰伏し奉り候はんと、見へて候へば、其の時御本懐を遂げられて本門の本尊を立つべし。造立の後は国中乃至他邦まで、一同に三個の大事皆以て流布せん。就中、本門の本尊を建立有るべく候」(宗全2-408頁)
と日順の『心底抄』と同じように、大曼荼羅の座配を模した仏像形式本尊としている。
 
日大の『尊師実録』の「日尊上人仰云」には
「日興上人の仰云、末法は濁乱なり、三類の強敵之れ有り、爾れば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華灯明の供養も叶うべからず、広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し立て奉るべし云々、・・尊仰云、・・・本門寺の本尊造立の記文、相伝別に之れ有り云々、予が門弟相構えて、上行等の四菩薩相副ひ給へる久成の釈迦略本尊、資縁の出来、檀越の堪否に随って之れを造立し奉りて、広宣流布の裁断を相待ち奉るべきなり」(宗全2-420頁)
と、「日興上人が、広宣流布の時まで大曼荼羅を安置すべきであると説いていたこと、また尊師が一国同帰の暁に建立される本門寺の本尊については別に相伝があると語っていた」と記している。
国主帰依の暁に建立される本門戒壇に安置する目的で図顕された戒壇本尊(板本尊)が存在したとすれば、以上のような興門上代の見解は有り得ない。戒壇本尊が存在しないから上記の興門上代の諸師の見解があると云わざるを得ない。
 
故に、「日蓮は二十七年なり」を「大聖人出世の本懐である戒壇本尊(板本尊)を弘安二年十月に図顕された事を云っているのだ」と解釈する事は間違いである。
 
では宗祖の本懐とは何かと云うと、
安元年三月二十一日の「諸人御返事」に
「三月十九日の和風並びに飛鳥同じく二十一日戌の時到来す、日蓮一生の間の祈請並びに所願忽ちに成就せしむるか、将又五五百歳の仏記宛かも符契の如し、所詮真言禅宗等の謗法の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等の出家は主上上皇の師と為らん在家は左右の臣下に列ならん、将又一閻浮提皆此の法門を仰がん、幸甚幸甚。」(1284頁)
とあるが、伝教大師が天皇臨席のもと公的対論を行い六宗を帰伏させた事を伝教大師の出世の本懐成就と認識されていた宗祖自身も「一生の間の祈請並びに所願」即ち公場法論・一国同帰を本懐とされていたと推測出来きる。

弘安八年卯月の日昭上人の『申状』に

「然る間、先師正法恢弘の素意を遂げずして他界せしめ畢ぬ。日昭彼の遺弟として此の簡要を伝ふ、遺詫を聞いて、以て泣く泣く先師の志願を思い、興隆を求むること以て多歳」(宗全1-9頁)

と有って、日蓮聖人の本懐が「正法恢弘の素意」即ち国王帰服・一国同帰にあった事が推測される
 
尊門の日尹(日印)師の『日代上人に遣す状』には、
「観心本尊抄、撰時抄の如んば、西海侵逼の時、上一人より下万民に至るまで、妙法蓮華経の五字の首題を唱へ奉て高祖聖人に帰伏し奉り候はんと、見へて候へば、其の時御本懐を遂げられて、本門の本尊を造立の後は、国中乃至他邦まで、一同に3箇の大事皆以て流布せん、就中本門の本尊をば建立有るべく候」(宗全2-408頁)とあって、国主帰依と本門戒壇建立と奉安する本尊造立成就することが宗祖の本懐と認識している。(日尹師の云うところの本門本尊とは、上記に指摘したように、大曼荼羅座配に随った仏像形式の本尊である。
 
故に「日蓮は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」の意味は、
「教主釈尊は40余年、天台大師は30余年、伝教大師は20余年かかり、その間それぞれ法難を受けられた。日蓮もまた国主帰伏を成就したいとの本懐を遂げんと開宗已来27年頑張ってきているが、その間の受難は皆さんが御存知のことです。」と解釈すべきである。

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