あるキリスト教者の仏教誤解

暁書房刊久保有政氏著『仏教の仏とキリスト教の神』に見える仏教誤解を検討してみました。

「第一章 仏教の仏キリスト教の神」の仏教誤解。

久保氏の
「はじめ無神論的であった仏教は、のりに有神論的になっていったのです」

と云う論断については第二章についての批判で一緒に述べます。
ここでは法華経の仏陀観の一端を述べておきます。

一般大乗経・法華経前半までは、時間的には三世の諸仏が在り、空間的には十方の諸仏が存在し、みな同等の悟りに住していて、それぞれ担当する世界が決まっているとされています。
ところが法華経の後半の寿量品において、釈尊の本体・正体は数多くの諸仏を統一する久遠本仏であると明かされました。

寿量品の教説によって、三世の諸仏、十方の諸仏の存在することを説く汎神論的思想が汎神論に即した一神論的思想になったのです。

そして、久遠本仏は三世十方の諸仏として現れただけでなく、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩などの形にもなって、あらゆるところで教化救済すると説かれています。

他の宗教の神様も、たとえば日本古来の天照太神や氏神さんなども、本仏が示現したもの、あるいは正法を護る善神として尊んでゆくのです。異教の神だからと言って全面的に否定することはないのです。

久保氏は
「大乗仏教の永遠の仏の思想は聖書の示す『永遠の神』への信仰に至るための一種の入門と考えればよい」

などと論断していますが、日本の国造り神話やインドの梵天による天地創造神話など、その他、世界の民族神話に天地や民族を創造した神を語るものがあります。むしろ創造神を立てる神観の方が初歩的な神観と云えましょう。

包容性、中心性の無い多神教では人々の好みに任せて、それぞれが帰依信仰の対象を選ぶので、雑多なごちゃまぜ信仰になり、また一神教では信仰の中心は定まるものの、異教や他の神を認めないので、時には宗教戦争を引き起こしたり、寛容性のない狭い信仰になってしまいます。

神奈川大学の湯田豊教授著『宗教』に
「イノケンティス三世は異教徒に対する第四回の十字軍の遠征を要求した。ベジールの町を攻めたとき、全住民を虐殺した。プラムの城を落としたときは、十字軍は防衛者の100人以上の眼をえぐり抜き、鼻を切り取った。またある時は異教徒を火あぶりにした。ローマ教皇に対する報告のなかで『われわれの十字軍遠征の兵士たちは無数の異教徒を異常な喜びをもって焼いた』とあり、ベジールの大虐殺のあとでイノケンティス三世はシモン・ド・モントフォールに手紙を書き、神の働きによって敵を滅ぼしたことを神に感謝し『異教徒の非道の残余を絶滅する』のに援助を与えることを約束した。・・・宗教裁判においては、むち打ち、禁固、罰金刑が迫害された人に課せられた。宗教改革者たちも異端者の迫害を続け死刑を異端者に課せた」

と記述していますが、十字軍や異端者狩りなどは、一神教の非寛容性を証する事実です。インドにおいて仏教寺院はやはり一神教のイスラム教のじゅうりんを受けました。

これからの宗教は多神教(汎神論)と一神教を調和した神観をもった宗教思想でなければ世界宗教としての資格に欠けるでしょう。

「第二章 大乗仏教に見られるキリスト教の影響」における誤解。

久保氏の
「大乗仏教はシャカ自身の教えではない」

との論断について述べます。

徳川時代に富永仲基、平田篤胤らが大乗非仏説論を唱えました。明治になり近代仏教学が興り、村上専精博士や前田慧雲博士らによって、経典には釈尊が実際に説かれたものと、後世になって成立した経典と区別してゆくという研究方法が盛んになりました。

進んで、阿含経や原始仏教と大乗経典との思想的つながりを研究する機運が起こり、特に姉崎正治博士の『現身仏と法身仏』『根本仏教』なのの発表が有名です。

姉崎正治博士は、般若空観が原始仏教の須菩提の空観を受けたものであり、法華経の諸法実相や開示悟入思想は原始仏教の法思想や釈尊の人格に由来するものであり、また阿弥陀仏や弥勒の信仰なども傍系ではあっても原始仏教の生天思想から展開したものであることを論じています。

その後、大乗経典は仏滅後五百年以後の成立であっても、その教理は仏教本来の思想があり、仏説として差し支えないという事で、大乗経の非仏説の問題は論じられなくなりました。

そもそも、釈尊当時は、釈尊の説法を暗唱によって伝えたので、聞いたり伝えたりする人の記憶力や理解力によって、領解も伝え方も違ったはずです。長い間、文献化されずに伝えられたので阿含経と雖も釈尊の説法そのままとは云えないのです。

その上、阿含経は部派仏教という出家中心の教団によって伝えられたので、大部分は出家者のための教えです。
釈尊は一般の在家の人にも説法されたはずですが、それらの説法は文献として残されなかった可能性が大です。
現存の阿含経の教理のみが釈尊の教えだと決めつけることはできません。

阿含経典は仏滅後間もなくと百年後に行われた僧侶の会議において纏められたとされていますが、両度とも、一派の人たちが対抗して別の経典をまとめたという伝えもあります。
ただしその経典は文献として伝えられていませんが、主流派のまとめたものが釈尊の真意を伝えるに不十分と考えたから、別の経典がまとめられたのでしょう。

文献化されなかったものの中に、大乗経の基となった教えが現存阿含経より多く有ったかも知れません。

思想教理の成立と文献成立とは別の問題であって、大乗経典が仏滅後ずっと後で文献として成立したからといって、「大乗の思想教理は釈尊の教えに基づいていない」などと断定できません。

釈尊の教えをより闡明に顕し伝えようと云うことから大乗経典が成立したので「キリスト教にヒントを得て、或いは真似して」大乗経典がつくられたのではありません。

気象大学ヒロサチヤ教授が『仏教とキリスト教』に
「イスラム教の聖典である『コーラン』は、マホメットがアラーの神の啓示を受けて伝えたものです。マホメットの創作ではありません。それと同じように『大乗経典』は後世の佛教者たちが瞑想体験のうちで、時間を超越した仏陀と出会い、その仏陀の啓示を受けて伝えられたものです。私は『大乗経典』の成立をそのように考えています」
と述べています。

経典には見仏三昧が説かれています。唯識思想を組織化した無著菩薩は禅定三昧に入って弥勒菩薩にたびたび会って教えを受けたという伝説もあります。

思索と修行体験、それに見仏三昧による啓示などが基になって大乗思想が深化しやがて文献化されたものでしょう。

また久保氏は
「彼(シャカ)は・・・全ては空であり、実体のないものであると説いたのです。彼の思想はもともと無神論で、神あるいは神的存在者に関する思想はもっていませんでした」

と誤った論断をしています。

阿含経典によると、釈尊は在家の人に施・戒・生天の三論を説いたとあります。
修行者や貧困な人に衣食住を与え(施論)、殺生しない、盗まない、妄語しない、不倫をしないなどの道徳を護れば(戒論)、必ず天に生まれる(生天論)と云う説法です。

天とは天神の世界の事ですから、神的存在を認めていたという事を意味します。
長阿含の遊行経には、釈尊の入滅を悲しむ神々の名を挙げています。原始仏教において神的存在を認めていた証拠です。

但し、宇宙を創造し人間の運命を支配するというような絶対神の存在は認めておりません。
なぜかと云うと、すべてのことは神が行わしめたと云うと、悪を為した人にもその責任が無く、善を行じても自らの意志で行じた事にならない、と云うことになってします。また因果律を認めないことになるので、善行には善報、悪行には悪報という必然性がなくなり、人間の努力、修養・修行や善行が無意味になってしまうからです。

久保氏は
「仏教はもともと無神論であるのに大乗仏教になると大日如来や阿弥陀仏という神的存在者が出てくる」

と難じていますが、

キリスト教の影響を受けて急に有神論に変わったのではありません。

釈尊以外の仏の存在を説いた理由としては
一、悟りを得た方は他にもあるはず。と言う推理から過去仏や十方仏が説かれた。
二、釈尊の悟りや教法が、時間や空観を超越して通用する真実であることを表す為めに、釈尊と同じ覚者としての過去仏、諸仏の存在を説いた。
三、一時的方便として説いた。
などの理由が考えられます。

阿弥陀仏の仏格を説明することによって、釈尊の報身仏としての仏格を具体的に示そうとした。また、娑婆世界も浄土化すれば、あのような理想的な国土になると言う見本として、他世界の浄土が説かれた。と理解すべきです。

久保氏は
「大乗仏教でいう『浄土』とか『仏国土』の思想はもともと原始仏教には無かったものです」

と論じ、キリスト教の真似をして、浄土という事を言い出した旨を主張しています。

上に述べたように仏陀観の発展にともなって、正報(身体)と依報(環境)は一具のものですから、他の仏が存在すればその仏の住む浄土が当然存在すると考えます。キリスト教の真似をして浄土や仏国土を言い出したのではありません。

久保氏は
「弥勒仏がシャカの教えにもれた人々を救うという信仰がある。これはもともと原始仏教になかったものなのに、一体どこから来たのでしょう」

と、救い主が将来この世に現れて人々を救うという弥勒信仰はキリスト教の影響である旨を述べています。

菩薩の修行を成就すれば誰でも仏になれると云うのが仏教の基本的考えです。そこで将来世において仏になって衆生を救済する菩薩が居るに違いないと云う将来仏の思想が当然出てきます。
将来仏の思想は仏教に内蔵されている思想であった、何もキリスト教の影響を受けなくとも生じる思想です。

ただし弥勒仏信仰は傍系であり、久遠本仏の存在を明かしている法華経の立場から云えば方便説として廃せられるものです。

また阿弥陀仏の信仰とキリスト教との類似性が論じられますが、形が似ているからといって、阿弥陀仏信仰はキリスト教の真似だと即断するのはあまりにも乱暴な主張です。

慈悲の権化と云える仏の名を叫び助けを求めれば、必ず助けてくれるに違いないと考えるのは、特別キリスト教の影響を受けなくとも思いつく宗教心理でしょう。

久保氏は
「大乗仏教が、常住なるもの、を強調するようになった背景にも聖書の思想の影響があったに違いない」

ろ論じています。

永遠を求めるのもこれまた人間の共通心理です。聖書の影響を受けない区とも哲学的宗教的な傾向を持った人なら、自然と「永遠なるもの」を求めるでしょう。

インドでは古代宗教としてリグベーダ時代があり、次にブラーフマナ時代があり、続いてウパニシャッド時代が有ります。ウパニシャッド時代は仏教より二三百年前に当たります。

リグベーダやブラーフマナには不老甘露の思想と云うのが有ったとのことです。ウパニシャッド哲学では、梵我一如による不死の梵界への到達を説いているそうです。

またリグベーダ以来の正統バラモンでは宇宙人生を創造支配する最高神を立ててこれを永遠の存在としていたそうです。

このように、インドではキリスト教が入ってこない以前から、永遠常住なるものを求める思想があったのです。

紀元前の部派仏教時代の『異部宗輪論』にも
「如来の色身は実に辺際なく、如来の威力もまた辺際なく、・・・仏、有情を化して浄心を生ぜしむるも厭足の心なし」
と釈尊の常住性と永遠に衆生を救済し続けていくことを述べています。

仏教史では、般若経、維摩経、法華経、華厳経などは紀元後二・三世紀の間に文献化されたと云われていますが、般若経や法華経の原型は紀元前に成立されたとされています。
大乗仏教運動は紀元前より始まっているのです。

久保氏は
「紀元一世紀にキリストの弟子のトマスがインドに伝道し、三世紀にはキリスト教の団体がインドにあったのだから、キリスト教の思想が大乗仏教の思想に混入したのだ」

と言っています。
しかし、実際にはトマスのインド伝道以前に大乗仏教思想教理はすでに存在していたのです。

久保氏は
「大乗仏教の大思想家であったインドの龍樹菩薩も紀元後150~250年頃の人であるから、キリスト教の思想に触れたことは確実である」

旨を論じています。

もしかりに、龍樹菩薩がキリスト教の教理を耳にしたとしても、インド古来の神意説思想の部類に入るものとして否定されたでしょう。また仏教の縁起説に反する邪見として否定されたでしょう。

神意説思想とは、梵天や自在天などの最高神がこの世界も人間の運命も化作創造したもので、すべては神の意志に左右されていると云う思想です。
原始仏教においても、宿命説とともに邪見として否定された思想です。

久保氏は
「龍樹は竜宮で法華経を授けられ、南天の鉄塔より大日経を得たと言っている。竜宮や鉄塔が何処にあるか語っていない」
旨を述べ、読者をして「龍樹の思想の基を不明確にしてあるのは、キリスト教の影響を受けているからだ」と思わしめるような論述をしています。

龍樹自身は竜宮や鉄塔相承のことは語っていません。『付法蔵因縁伝』にある伝説です。

『付法蔵因縁伝』には、竜王の宮殿にて諸々の方等深妙の経典を九十日間閲覧した、とあって、法華経を授かったと云う記事は無いようです。

また、鉄塔相承は真言宗が龍樹の名を借りて大日経の正統性を主張するために創作した伝説であると、他宗から否定されているものです。

久保氏は
「大日経は太陽崇拝、バラモン教、キリスト教、ゾロアスター教などの影響を受けた混合宗教である」

と論断しています。

しかし、松長有慶高野山大学教授がその著書『密教』に
「大日経・金剛頂経は唯識、中観、如来蔵といった大乗仏教の特色ある思想を密教の観法と融合させようとした経典である」
と言っているとおり、決してキリスト教などをゴチャマゼにした教理などではありません。

もっとも雑密や八世紀以後の密教は、修法などの儀式にヒンドゥー教のタラントやバラモンのそれを取り入れているそうです。

久保氏は
「大日経の内容は、太陽崇拝である」

旨を書いていますが、
松長教授が『密教』に
「大日如来はその名前からみて、太陽を仏と見なしたものとかんがえられやすい。だが太陽神を仏教化したものに、十二天の中の日天がある。それは太陽の神のスーリャを仏教に取り入れて仏教の守護神に代えたものと見られる。
大日如来は太陽の仏格化ではなく・・・太陽は大日如来の性格を説明するたとえとして取り上げられている。・・・大日如来は大きなお日さまの仏格化ではなく、それは太陽の特性にたとえられるが普遍と常住の性格をあわせもった、思議を超えた宇宙的な存在ということが出来よう」
と、大日経は太陽崇拝でないと論述しています。

また
久保氏は、真言宗の「灌頂」をキリスト教の洗礼を真似た儀式だと言って、キリスト教の影響があったことの証明としていますが、「灌頂」はもと古代インドの国王の即位や立太子の時におこなった儀式で、四大海の水をもって頂に注ぎ祝意を表したもので、密教では仏の位に登る為めの儀式に取り入れたものです。
チョット形がにているとすぐキリスト教の影響であると判断するのは早計です。

また久保氏は
「日本にキリスト教の景教が伝えられた時より、もともと仏教にない『滅罪』思想がうたわれた『懺悔滅罪寺』が現れます。これもキリスト教の影響でしょう」

と論断していますが、もともと仏教には滅罪思想があります。『中阿含経巻十』に『慚愧経』がありますが、阿含経典には慚愧がしきりに説かれています。慚愧は滅罪思想そのものです。

さらに大乗経典には涅槃経の
「もし罪を覆えば、罪すなわち増長す。発露懺悔すれば罪すなわち消滅す」
との文の外、法華経の結経『観普賢菩薩行法経』などに滅罪を強くを説かれています。

また寺はもともと滅罪生善の修行の道場です。懺悔滅罪寺が作られたからと云ってもキリスト教の真似をしたなどとは云えないでしょう。

さらに、久保氏は弘法大師の灌頂名「遍照金剛」が聖書のマタイの福音書の「あなたの光を人々の前に輝かせ」を採ったものだと指摘されていると論じ、弘法大師もキリスト教の思想を取り入れていると述べていますが、「遍照金剛」は大日如来の密号です。マタイの福音書から採ったと言うのは無理な推論でしょう。

「第四章仏教の涅槃とキリスト教の永遠の生命」における誤解

久保氏が
「仏教では涅槃について二つの解釈があって、
一つは生命に関する全ての事柄が絶やされた絶対無の状態を意味するもの。
二には涅槃に、何もない、では味気ないと言うことで、後世になると涅槃には喜びがあるという解釈が生まれた。・・・涅槃は浄土とか、仏国土などの言葉と結びつき、そこに歓喜、幸福、永遠の生命があるとされました。しかしこうした考えは本来の仏教的考えというようり、後世になって付加された考え、または変質した教えというべきでしょう。初期の仏典を調べるかぎり、涅槃は、生命に関する全ての事柄が絶やされた絶対的無を意味します」
と述べています。

久保氏の仏教本来の涅槃は絶対無の状態を意味しているという断定は全くの誤りです。

小乗部派仏教の「有余涅槃・無余涅槃」の教説によって、涅槃は死後の絶対無の状態を意味すると浅解した学者もありましたが、原始仏教の研究が深まり、涅槃の本来的意味は絶対無の状態とか生命の消滅ではなく、全ての煩悩が滅し、心が静寂安穏になった理想的な状態であると云うのが、すでに定説となっています。

駒澤大学の水野弘元教授は『仏教とは何か』の中で
「阿羅漢になれば如何なる煩悩や世俗の誘惑にも負けない絶対自由の境地に達し、心は光風清月のごとく寂静のものとなり、自己の苦楽や一身の安危は問題でなく、社会人生の教化救済のために活躍するのが釈尊、阿羅漢達の涅槃の境地である」
と述べ、

また『原始仏教』にも
「もっとも仏教でも、部派仏教になると、ジャイナ教などと同じように、死後に完全な理想を見ようとした。・・・この誤りを指摘して、大乗仏教では、現世における自由無碍なる無住処涅槃を説いて、原始仏教における釈尊の立場を回復させた」
と原始仏教の涅槃の概念の説明をしております。

大乗仏教で云う涅槃は原始仏教の涅槃の真義すなわち「不死、極妙、浄福、安穏、無災」と云う内容をより闡明にしていったものです。

さらに
久保氏は
「仏教は生存からの脱却を目指した」

と云っておりますが、仏教は迷いの生存から悟りの生存を目指したものです。

久保氏はスッタニパータの「学生ウパシーバァの質問」の文を証として、涅槃は生存の絶無であると云っていますが、覚者の生存を説明しても質問者が理解想像できないので質問に答えなかったのであって、覚者の生存が無いと云う教説ではありません。

ゆえにウパシーバァが質問する前に
「一切の欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、他のものを捨て、最上の有想解脱において解脱した人・・・かれは退き去ることなく、そこに安住するであろう」
と、釈尊は生存し続けると説いてあるのです。

さらに久保氏は、仏教が生そのものを否定することを目指している証拠として、法華経の中より、
「深く思いこみ物事に固執する原因は自己の生存である。自己の生存の原因は、この世に生まれること(生)である。この世に生まれたが故に、老とか死とか、憂いとか、悲しみとか、苦しみとか、不快とか、悩みとかが、一緒に生じるのだ」

「深く思い込む心さえなければ、自己の存在は問題とならず、自己の存在を否定すれば(輪廻の世界に)生まれることがなくなる。そして生まれることがなければ、老いも死も、憂いも悲しみも、悩みも、すべてなくなるのだ」
との経文を引いています。

この二つの文は「化城喩品」の文のようです。大通智勝如来が方便として説いた法門の要旨を語っている箇所の文です。

「化城喩品」は、如来がこの方便の教えを説き「諸漏に於いて心解脱を得」せしめた上で、真実の悟りを得せしめる為めに法華経の法門を説くと云う構成になっております。

法華経の真意を説いていない箇所を引いて、法華経は生存そのものを否定しているなどと速断しては困ります。

法華経には、釈尊が常住不滅の存在であり、常に説法教化し、毎に衆生をして無上道に入らしめ速やかに仏身を得せしめんと活動している、慈念に満ちた生きている存在であると説かれ、また、菩薩は自ら願ってこの悪世に生まれ衆生救済の働きをすべきである旨を説いています。絶対無になることなどを理想としていません。

さらに
久保氏は
「人間は神に創造されたもので、永遠の昔から存在していたものでなく、現在の私たちの生も初めての生であって前世と言うようなものがあったわけではありません。輪廻転生説は信じません」

との旨を論じています。

十人十色さまざまなる違いをもって生を受ける理由について、因果を説く仏教では、過去世の心構え、行いに応じてそれぞれ異なる条件、環境の下に生を受けたのだと考えます。
もし、生まれ付いての差別が神の計らいによるものと仮定すると、神は不公平であると云うことになります。
もし、差別が偶然だとすると因果の道理が無いことになって、善行に必ずしも善報無く、悪行に善報が現れる場合もあることになって信仰も道徳も無意味になってしまいましょう。

また現在世における心構え、行いの報果として、十人十色の後生が有るはずです。キリスト教では、死後は死んだままで終末時に神の力でよみがえり、キリストを信じた者は神の国に入り、そうでない者は火の池地獄に落とされると云う二種類の死後しか説かないようですが、こうした一律的な死後の在り方では因果の道理を否定する立場と同じです。

ついでに申しますと、キリスト教のこうした死後観によると、すでに死亡している先祖や親が生前キリスト教信者でなかった場合、終末の時、一度はよみがえるものの、すぐさま永遠の火の池地獄に落とされてしまう事になります。大恩有る親や先祖を救う道がないと云うことになります。

それに対して仏教では追善回向の功徳によって、先祖や親の霊界での苦しみを解いてやったり、もし生まれ変わる場合にはよりよい状態、環境の処に生まれ変われる手助けをしたり、あるいはすでに生まれ変わっている時にはよりよい人生を送れるよう手助けが出来るのです。

ついでに全知全能の絶対神である創造神を立てるキリスト教に対する一般的な疑問を挙げてみます。

○神が悪魔を造ったとすると、絶対善の神がどうして悪を造れるのか?
○なぜ悪魔を造ったのか?。
○神が悪魔を造ったのではないとすると、神は悪魔と並存となり、 絶対者でないことになるが?。
○なぜ人間が堕落する原因となる悪魔を退治しなかったのか?。
○アダムとイブがヘビの誘惑に負けるまえに、どうしてヘビを退治 しなかったのか?。どうしてアダムとイブをヘビの誘惑に負けな いように造らなかったのか?。
○全知全能で宇宙をすべて見渡している神ならば、ヘビがアダムと イブを誘惑するのを察知して止めさせなかったのか?。
○アダムとイブに自由意志によってヘビの誘惑に負けたのだという なら、神は二人に自由意志を与えたらどうなるか予知できなかっ たのか?。
○ノアの洪水の後、悪人が出てくる度ごとに、すぐ滅ぼしておけば 世の中も現在のように悪化することなく、終末時に数え切れない 多くの人々を残酷に殺し、永遠の地獄の苦しみを与えなくともす んだでしょうに?。
 
 また千年王国成立のとき、また、終末の際、数え切れない人類が 永遠の地獄に落とされ、ほんの一握りの人たちだけしか神の国に 入れないということを、アダムとイブを創造したとき予知できな かったのか?。
○まるで大多数の人類を地獄に落とすために人間を創造したようで あるが、一体いかなる目的があって神は人間を創造したのか?。
○機械や設備が壊れて人が怪我したり死亡する事故が起きると、機 械を作った者、工事の責任者の責任を問われるが、人間が悪化し たのは人間を造った神の責任は問われないのか?。

などなどです。

「第五章仏教の欲望、キリスト教の罪」における誤解。

久保氏は
「仏教は欲望を捨てよ、と説いているものである」
と評しています。

法華経の十界互具の教理からいえば、私たちの心には、地獄の心をはじめ仏の心も全て具わっているのです。
仏界にも他の九界が具わっていますが、仏は自己の九界の心を悉く悟化して活用しています。

一般大乗経では、仏は善の心だけで悪は無い(厭離断九の仏)としていますが、法華経では、仏も地獄の心を具えているから、地獄の衆生の心理にも通じ、地獄の衆生に応同して教化出来るのだとしています。
いわゆる「如来も性悪を断ぜず。闡提(不信心の悪人)も性善を断ぜず」と云う思想です。
煩悩は断ずることは不可能であって、昇華善用して活用すべきと云う思想です。

久保氏は
「キリスト教は、欲望を昇華せよ。欲望をもっと高い次元の欲求に変えよと教えている」

旨を述べていますが、日蓮聖人の教えでも昇華善用すべきものであると教えているのです。

「第六章仏教の修行、キリスト教の償い」について。

久保氏は

「仏教は三阿僧祇、百大劫の自力修行をしなければ仏になれない。密教では即身成仏を言うが、これは人が神と合一するという神秘主義であるが、神と合一することは実際にはあり得ない。他力仏教の念仏も阿弥陀仏の浄土に生まれた後、阿弥陀仏の指導のもとに修行すると説いてあるから、他力仏教の中にも修行と言う考えがある。それにくらべるとキリスト教は自力仏教のように、はるか未来において救われるのでないし、密教のように神秘主義におちいる必要もない。他力仏教のように現世を厭い捨てて、極楽での修行を望む必要もない、キリストを心に信じるなら、きょう救われるのです」
との旨を論じています。

久保氏が批判するように、仏典には、長大な期間をかた、菩薩の修行によって煩悩を断じ尽くし、地獄心や餓鬼心、畜生心などを完全に消滅して初めて仏に成れると説く経典もあります。それに対して長大な期間を要しないで成仏する道を説いているのが法華経なのです。

法華経の寿量品において釈尊の本地正体が久遠本仏であると明かされて、無始の仏界の存在が説かれますと、私どもに具わっている仏界は単なる仏性という成仏の可能性だけでなく、久遠本仏を具していることになります。
そこで、私たちは久遠本仏の「体」を持っているのに、ただ仏としての用(働き)をしないでいるだけと云う事になります。

煩悩や地獄心などを善用すればそれが成仏という事になるのです。
釈尊の智慧、慈悲、功徳がこもっている妙法五字を信唱受持すれば自然と煩悩などを昇華善用する力が育成されるのです。

日蓮聖人が『日妙聖人御書』に
「六度(菩薩行)の功徳を妙の一字におさめ給いて末代悪世の我等衆生に一善も修せざれども六度万行を満足する功徳を与え給う。
今この三界はみな我が有なり、その中の衆生は悉くこれ吾が子なり。
我等具縛の凡夫、忽ちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の(釈尊の)功徳を全体うけとるが故なり」
と教示されているように、久遠本仏が積まれた菩薩行の功徳を妙法五字に籠めて、たった一つの善行さえ修する能力のない私どもに、菩薩行を行じつくした功徳をそのまま譲ってもらえるのです。

本仏釈尊の大慈悲力と妙法五字の力とそれを信じる私どもの信力の三が合致して救いが成立するのです。
妙法五字を信唱受持することによって、真の仏子となり、親や先輩に当たる本仏釈尊や諸菩薩、諸天善神の応援、守護を受け、いま救われるのです。

久保氏が
「神の子としての特権を与えてくれる」
「恵みのゆえに」
「信仰によって」
「今救われるのです」
と誇っているキリスト教の宗教性のようなものは、正統仏教である日蓮聖人の教えは具えているのです。

ついでにキリスト教の救いの限界について、
神奈川大学の湯田豊教授が『旧約聖書から仏教まで』に述べている見解を紹介します。

「キリスト、パウロ、アウグスティヌス、ルターの神は僅かの人間だけを選ぶ。原罪の報いとして圧倒的多数の人々は破滅する運命にあり、一握りのエリートが救われ、その他の人類は神に呪われて永遠の刑罰を受けなければならない。キリストの十字架上の死という贖罪を信じなければ救われないと言う。
こうした考え方は非人間的であり、すべての人間を子供として愛するという旧約聖書の立場を放棄することになる」
と指摘しています。

久保氏がどんなにキリストの贖いによる救いを誇っても、結果的には大多数の人類が永遠の地獄に落とされ永久に刑罰をうけつづけるのですから、キリストの贖罪も選ばれた一握りの人たちにしか効果が無く、神は大多数の人を見捨てる非情な神と云うことになりましょう。

「第七章仏教の家庭生活とキリスト教の家庭生活」における誤解。

久保氏は

「小乗仏教では家庭を捨てなければ仏になれない」
と述べ、仏教全体が家庭生活を軽んじているかのように論述しています。

阿含経典には、たしかに出家した方が修行上有利であると強調したものもあります。しかし在家では仏道を実践できないとは一方的に説いていません。

駒澤大学の水野弘元教授が『仏教の原点』において、
「原始仏教では在家でもシュダオン、シダゴン、アナゴンなどの阿羅漢以前の悟りも得られるとされ、特に過去世の善根功徳があり、能力が優れている人は阿羅漢の悟りも得ると説いている(取意)」
と指摘しています。

仏伝を見ると、釈尊の成道直後、弟子となった人達は四諦八正道の説法を聞くと即座に法眼(悟り)を得て、そして出家の弟子になっています。出家の弟子に成る前に法眼を得ているのですから、出家することが悟りを得る上の絶対条件では無かったことが分かります。

阿含部経典の
『大吉祥経』には
「母や父への孝養と、子や妻の扶養と汚れなき正しい業務と、これが最上の浄福である。
施与慈善と正しい行為と、親族たちの愛護扶養と罪過なき所作行為と、これが最上の浄福である」
と、家庭生活の基となる心構えを説いています。

また有名な
『六方礼経』にも、
子供は、1,両親を扶養すること。2,業務を継ぐこと。3,家系を絶やさないこと。4,家督を受け継ぐこと。5,祖霊を尊敬供養すること。

親は子供に、1,悪事を避けさせる。2,善事に親しませる。
 3,技芸を学ばせる。4,結婚させる。5,家督を譲る。

夫は妻女に対して、1,妻に敬意をもつ。2,軽蔑しない。3,浮 気しない。4,権威を与える。5,衣装や装身具を与える。

妻女は夫に対して、1,業務をよく整理する。2,使用人を親切に する。3,浮気しない。4,財産を保護っする。5,すべての仕 事に巧みで怠らない。

などと、幸福な家庭を築く心構えを教示しています。

これらの教説を見ても、原始仏教が家庭生活の完成を無視していなかったことが分かります。

いわんや、大乗仏教の精華である日蓮聖人の教えは、幸福な家庭生活はもちろん国家世界の平和を目指すものです。法華経の信仰によって家族のそれぞれが仏心(正しい人生観、慈悲心)を育成してゆけば、うまずして家庭が和楽平安になってゆきましょう。

家庭生活の完成を目指すのはキリスト教ばかりではありません。

法華経の教理から云えば、男女は役目に分担があるが本質的には平等です。また、妻も夫も互いに尊い仏心を具えて居ることを信じれば互いに尊敬の念が生じます。家族どうし心の宝である仏心を磨き合うという徳目も出てきます。子供の教育訓戒をするという徳目も出てきます。

法華経には本仏釈尊、諸菩薩、諸天善神が人の心を動かして私どもを教導救護してくれていると説いています。
両親、妻、子供は釈尊、菩薩の代理として私を助けてくれる有り難い人だと思えば、そこに感謝、尊敬の念が生じます。

久保氏はキリスト教の方が
「夫妻が尊敬し合うとか、夫婦は人間として対等だが役割は異なっているとか、妻は夫の助け手とか、子供を教育し訓戒しなさいとか、父母を敬え」
とか家庭の完成についてよく教えている旨を誇っていますが、仏教でも当然そのような事は教えているのです。

家族関係において特に孝道の大切さを説かれた日蓮聖人は『開目抄』に
「儒教では魂の存続とか、後生があることなどを明かしていないので、親孝行も親が生きている間だけのことで、親の後生を助けることは出来ない。だから儒教の聖賢は本当の聖賢とは云えない。仏道、特に法華経こそ父母の後生を助けることが出来るので、法華経の信仰者こそ孝道を実践するまことの聖賢と云える(取意)」
と教示されています。

仏教によれば後生はあります。数多くの体験者が語る心霊現象も死後の霊的存続を証明しています。アメリカのバージニア大学のイアン・スティーブンスン博士の『前世を記憶する二十人の子供』は次生の有ることを証明する有力なレポートです。

キリスト教ではキリストを信じなかった親は死ぬとズッと死んだままとか、あるいは終末の時に神によって火の池に永久に落とされるとといているようです。
かかる教説から云えば親の後生を助けられないことになります。追善回向など全く役立たないということになりましょう。
「父母を敬え」と教えていても、亡き親の後生を助けられないのでは親孝行を全う出来ない宗教です。

「第八章仏教の女性、キリスト教の女性」における誤解。

久保氏は

「仏教では、女性は女性のままで仏になれない。女性は一度男子に生まれ変わらなければなりません。どうにも言い逃れのしようのない女性差別です。
仏教は女性が女性に生まれたことに何かの意味や価値があるとは見ていないようです」
などと、仏教の女性観を劣ったものだと論じています。

日蓮聖人も『女人往生抄』に
「諸々の小乗経には一向に女人は直ちに成仏を許さない。女人も一度男子と生まれ変わってから成仏すると説かれている。
法華経以外の諸々の大乗経は大方は女人成仏を許されない。少しく成仏往生をゆるされていても名があって実がない(取意)」
と批判しているようにたしかに小乗経、一般大乗経は女性の成仏は困難としています。

しかし、続いて
「法華経は・・・男も女も一人も漏れなく成仏往生を許されてある」
と云われているとおり、法華経は女性も成仏できると説いています。

久保氏は仏教が女性蔑視である証拠として
法華経の提婆品の
「女性は完全な悟りの境地は得難い・・・今日まで誰も仏になっていない・・・なぜかというと女性には五つの障りがあるからだ」
との文と、

さらに「五百弟子受記品第八」の
「仏国土に婦女子はいない」
との文を引用し、読者をして法華経も女性の成仏を認めない女性蔑視の教えだと思わしめようとしております。

久保氏は引文にするについて大変な誤りを犯しています。久保氏が引用した提婆品の文は、舎利弗尊者と智積菩薩とが小乗経、一般大乗経の立場から女性成仏は有り得ないはずだと、法華経の女性成仏に対して反論している箇所であって、この反論に対して八歳の竜女が成仏の現証を示し、法華経の力によって女性も成仏出来ることを宣言しているのが提婆品なのです。

「提婆品」に
「変じて男子となり」
とあるので、法華経もまた男子に生まれ変わらなければ成仏出来ないと主張する立場であると誤解されるといけないので、ついでに申しあげますが、
智積菩薩の
「衆生の勤加精進しこの経を修行して速やかに仏を得るやいなや」と云う質問に対して、文殊菩薩が
「有り、シャカラ竜王の女、年はじめて八歳」
と答えていることから、変成男子の前にすでに成仏を得ていることを知るべきなのです。

変成男子は竜女の成仏の内証を見ることが出来ないので疑いを懐ける人たちの為めに八相作仏の姿をかりに現じたまでであります。

久保氏が引用している「仏国土に婦女子はいない」との文はフルナ尊者が成仏した時の仏国土の有様を述べた箇所です。
修行困難な菩薩行の実践成就は男性の方が有利だという当時の一般的認識に応同している文、あるいは淫欲から起きる問題、苦悩、迷いから解脱したいと願う人たちの意楽に応同した文でしょう。

「授記品第六」にある須菩提の仏国土の有様を説く中に
「其の土の人民」
とあって、女人を除外していないことが分かります。
また、大迦旃延の仏国土の説明にも
「多く天・人あらん」
とあって、女人を除外していないことが分かります。

フルナ尊者の仏国土は「女人なくして」とあるから、法華経は女人成仏を許さない教えだなどと速断して欲しくありません。

法華経の十界互具・十如実相の教理からいえば男女は平等です。そして、十界互具・十如実相の教理は唐突に説かれたものでなく、原始仏教とつながっています。全てのものは因縁によって変化するものである、という諸行無常や諸法無我の教理が大乗仏教の空の思想になり、さらに妙有の思想になり、ついに女人成仏をも説く法華経の十界互具・十如実相、一念三千の教説になったのです。

久保氏はさらに
「仏教では女性が女性に生まれたことについて何かに意味や価値があると見ていないようです」
などと書いていますが、一般大乗経はいざ知らず、法華経は大いに女性の価値を認めています。すでに論じたように法華経は、男女の別を本質的には見ていません。

ですから「法師品第十」には
「法華経のないし一句に於いても受持等すつ善男子、善女人は大菩薩が衆生を哀愍して生まれ出て妙法華経を演べ分別するのである。・・・衆生を哀れむが故に悪世に生まれ広く此の経を演るのである。法華経の一句を説かん善男子、善女人は如来の使いとして如来の事を行ずるのである(取意)」
と女性の姿をもって菩薩として如来の行を行じることを説いてあります。女性の意義、価値を大いに認めているのです。

「法師功徳品第十九」には
「この経を受持する善男子善女人が説くところの法は、実相と違背しない。もし俗間の経書、冶世の語言、資生の業などを説く場合もみな正法に順ずる」
とあります。

この経文の意味は、善女人(女性)も、文学、哲学、芸術などの創作活動において、あるいは職業、商業を通して、社会浄化に貢献できるようになれると云う意味です。
法華経は女性の価値役割を大いに期待していることが分かります。

久保氏が
「仏典を読んでも女性が女性に生まれた意味や価値についての言葉を、私たちは見出すことができません」
と述べていますが、きわめて軽率な論断です。

「第九章仏教の慈悲、キリスト教の愛」における誤解。

久保氏は
「それどころか慈悲が実際に説かれることは、きわめてまれでした」
と論じていますが、これはひどく間違った見解です。

釈尊が布教を初めた当時、有名な宗教家であった事火外道が魂胆有って、釈尊に毒蛇の居る聖火堂に一夜の宿を貸しました。釈尊が慈悲三昧という禅定に入ると襲ってきた毒蛇がおとなしくなりました。
釈尊の人格、慈悲心に心服した事火外道は兄弟三人とその弟子千人と共に仏弟子になったと、仏伝が伝えています。

このようにいずれの弟子も釈尊の慈悲と智慧に敬服し仏教徒となったのです。釈尊は弟子たちがそうなりたいと思う理想の方でした。弟子も信徒も釈尊を手本として慈悲を重んじたことは明白です。

阿含経の教えは四諦、八正道が主要です。八正道の一つ、正思惟は欲のない考え、怒りのない考え、害心のない考えの三つとされています。欲の反対は施しであり、怒りと害心の反対は慈悲ですから、正思惟とは慈悲を考えの土台にせよと云うことです。

また、正業とは、正しい身体的行為で、殺生、盗み、邪淫の悪業を離れることとされていますが、そのうち殺生は慈悲の正反対の行為です。要は慈悲に外れた行為をするなということです。

ですから原始仏教に於いては慈悲が極めて重要視されていたことは確かです。

このように慈悲は大事な修行徳目であったのですが、やがて出家たちが慈悲の実践をなおざりにし、僧院に閉じこもり、はんさな教理の探求を主にするようになりました。そこで心ある僧と在家の人たちが釈尊の真精神に帰れと、慈悲を強調するなど大乗仏教運動をおこしたのです。

慈悲を強調する大乗仏教は仏教の復古運動なのです。原始仏教の慈悲という宝を磨きだしたもので、本来無かったものを付け足したというものではありません。

さて旧約聖書の『ヨシュア記』によると、モーゼの後継者ヨシュアは神の「ヨルダンを渡り私がイスラエルの人々に与える地に行きなさい」との命を受け、最初にエリコと云う都市国家を攻略しました。

神の応援を得たヨシュアを始めとしたイスラエル軍は「町にあるものは男も女も若い者も老いた者も、また牛、羊、ロバをも、ことごとく、剣にかけて滅ぼした」のでした。先住民を皆殺しにしたのです。

つづいてアイを攻略するときも神はヨシュアに「エリコとその王にしたとおり、アイとその王にしなければならない」と皆殺しを命じたとあります。

「イスラエルぶとが彼らを撃ったので生き残ったもの、逃げおおせたものは、ひとりもなかった。・・・イスラエルびとは荒野に追撃してきたアイの住民をことごとく野で殺し、つるぎをもって、一人も残さず撃ち倒してのち、みなアイに帰り、つるぎをもって、その町を撃ち滅ぼした。その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて一万二千人であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っ込めなかった」

こんな調子でヨシュア達は次から次と先住民族を打ち払っていったのです。

いくらイスラエル民族が神の選民だとして、あまりにひどいエコヒイキです。
先住民族や都市国家の幾万という人達、赤ん坊、子供、老人たちに、いちべつの愛も与えないではありませんか。どうして神は愛なりなどと臆面なく言えましょう。

また、ノアの洪水の時、ノア一家以外の全人類は神によって洪水で殺されたのです。赤ん坊も幼児も溺れ苦しんで死んだのです。死んだ人たちの魂を後で救ったなら未だ良いのですが、殺しぱなしで気にも止めていません。

神は愛なりなどと到底云えません。久保氏が「旧約聖書には仏教より八百年以上も前に、隣人愛を説いている」と誇っても、肝心の神様が偏愛、残酷な神様ではどうしょうもありません。

また千年王国成立の前と、王国の後の終末の時に救われるのは、ほんの一握りの人達で、大多数の人類は永遠に火の池に落とされぱなしのようです。火の池で苦しむ人達には神の愛は全くそそがれないのです。実に偏愛の神だと思います。

神奈川大学の湯田豊教授がその著『旧約聖書から仏教まで』にキリスト教の愛について鋭い指摘をしておりますので、長文ですが引用します。

(以下引用)
ヨハネによる福音書に次のように述べられている。
「わたしは新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛しあいなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい。互いに愛しあうならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、全ての者が認めるであろう」
と。・・・・
しかし、イエスの教える相互愛はクリスチャン同志の愛である。イエスをキリストとして信仰しない人間は、「互いに愛しあいなさい」という新しいいましめから排除される。愛に価するのは、イエスをキリストとして信仰する人々だけである。不信心者は愛される価値を有しない。彼らを待っているのは、死後において地獄に行く運命である。

イエスは云うーー「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである」と。
しかし、イエスは、彼を信じない人々の運命について全く配慮しない。というよりも、イエスは平然として呪い、彼らを平然と地獄へ落とす。なぜなら、彼は次のように述べているからであるーー「彼を信じるものは、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている(ヨハネ福音書)」と。

イエスは、不信仰の人を愛さない。イエスは彼を神であると信じない人々を心から憎み「御子に従わないものは、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである(ヨハネ福音書)」と云う。確かに、神はクリスチャンを愛する。しかし神を信仰しない人々は、彼に呪われて永遠の刑罰を課せられる。
・・・
自己を神と信じる人々のために自己を犠牲にするけれども、自己を信じない多数の人々の運命に対して全く関心を示さない人が「これよりも大きな愛はない」と云う資格を有するであろうか?。
不信心者にたいしてひとかけらのあわれみも有しないというのが、ヨハネによる福音書および共観福音書に描かれているイエスのイメージである。
「人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである)ヨハネ福音書)」
と、イエスにつながっていない人々は神の愛と恵みから永遠に排除される。不信心者の運命は、地獄の火のなかに投げ込まれ、その中で永遠に苦しめられることである。
イエスが愛するのは、彼を神として信じる人々だけであり、彼を信じる人々の相互愛ーーそれがキリスト教の愛の基本的な特徴である。
(以上引用終わり。)
と、湯田教授は以上のように指摘しています。

「第十一章仏教の末法とキリスト教の終末」における誤解。

久保氏は
「仏教の歴史観は、シャカの死後、正法時代→像法時代→末法時代→法滅時代と進んでゆく。・・・
末法時代一万年のあとには仏教の教えすら無くなる『法滅』時代が来る。・・・
法滅時代は約五十六億七千万年続き、弥勒仏が出現する。弥勒仏が出現すると再び正法→像法→末法→法滅時代という堕落の歴史が繰り返される。・・・
法滅時代は、仏教という宗教自体が消滅してしまう時代であって、仏教は今から九千年後にやってくる法滅時代には何の役にも立たない教えになるわけです(取意)」
と、仏教の歴史観を語っています。

日蓮聖人が仏教と末法の関係について『守護国家論』に論じています。

滅尽するのは方便の経である小乗経、一般大乗経であって真実が説かれている経である法華経は独り広宣流布すると論じ、
「法華経薬王品に十の譬えをあげて法華経が他の一切の経より優れて尊いことを示しているが、その第一の譬えは川流江河を諸経に譬え、法華経を大海に譬えてある。大旱魃の時に喩えられる末法濁悪世の時代には方便の経である諸経の教えの水はかれて、用を為さないが、法華経の大海は少しも減少しない、と云う意味である。
十喩をあげた後、『我が滅度の後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提において断絶せしめることなかれ』と説かれているが、これは諸経滅尽の後に法華経が流布するという意味である(取意)」
と論述されています。

道理の上から云えば、完全円満な教理をもった真実の経は如何なる時代、如何なる国に於いても権威を失うことなく通用するはずです。
法滅尽の予言は教理思想上不完全な一般大乗経についての予言で、法華経は除外されているのです。

久保氏が、仏教の予言としてあげている弥勒仏出現も、法華経から云えば方便の説です。法華経によれば釈尊は常住の久遠本仏であって永遠に衆生を見守りつづける仏ですから、弥勒仏の出現は不必要ということになります。

法華経には末法法滅時代の救済が予言されています。
日蓮教学者の故高橋智遍師が『法華経と日蓮聖人』において、おおよそ次の十二箇条が予言されていると論述しています。

1,末法時代を救済する菩薩は本仏の最高深位の弟子たる上行菩薩 であること。
2,その菩薩は末法時代に入った始めに出現応生すること。
3,出現の垂迹の姿は凡夫人間の姿であり、修行の階位は一念信  解・初随喜品のこと。
4,出現垂迹の処はインドより東北方の極地であること。
5,その菩薩のひろめる教法は、本仏釈尊に付嘱を受けた根本要法 であること。
6,上行菩薩が凡夫人間として垂迹し衆生を化導する方式は呵責謗 法の折伏逆化であること。
7,化導を受ける衆生の機根は五逆謗法、三毒強盛にして上慢なる こと。
8、化導を受けて信伏し得ず反抗迫害する三種類の法敵のあるこ  と。
9,迫害法難の種々相のなかに、特にたびたび処を追われ、流罪されること。
10,三類の法敵の迫害があると同時に諸天善神、仏菩薩の守護の あること。
11,法華経をそしり反対すると個人的にも国家的にも三災七難が 起こること。
12,末法時代の全人類はこの菩薩の化導による真の宗教と真の国 家により、理想社会を実現すること。

以上の予言です。

法華経の予言通り本仏の使者上行菩薩は日蓮聖人として出現しました。聖人は弘経開始の三十二歳より五十二歳に至るまでの布教活動を通して、上行菩薩の垂迹応現者としての条件を全て具せられました。

久保氏は
「仏教は下降型の歴史観です(趣旨)」
と述べていますが、今論じてきたように、仏教は単なる下降型の歴史観ではありません。

正法たる法華経の信行によって救済され浄仏国土を顕現させると云う大希望ある歴史観です。

久保氏は
「キリスト教の歴史観は、神のご計画は、世の終末にむけて次第に進展してゆき、やがて終末において神の大規模なご介入があって、至福の新世界が現れる、と云う発展型の歴史観です」
と誇っていますが、キリスト教の終末観こそまさに絶望的、下降型の歴史観といえます。

キリスト教の予言では、終末時期にキリストが「王の王」「主の主」として再来し、一千年に及ぶ地上の至福の世界である千年王国が樹立されるそうです。

ニューラフ社刊の森山諭著『エホバの証人はキリスト教ではない』にある終末時期の説明によると、

一度イエスが空中に、再臨した後、地上では七年間に渡る患難時代が来る。
ウダヤ民族と反キリストと呼ばれる或る人物(世界中の予言研究者の多くは反キリストはヨーロッパの多分、ローマ帝国が復興して、その大総統は大統領と呼ばれる人物だろうという)が軍事同盟を結ぶ、

すると南の王と呼ばれるエジプトと北の王と呼ばれるソ連が軍事同盟を結び、まず南の王が反キリストに挑戦する。北の王も反キリストに挑戦する。しかし北の王は東(中共軍か)と北(北大西洋条約機構)とから攻撃されて全滅する。それが患難時代の前半である。

反キリストは後半の三年半を我がもの顔にして世界に君臨する。しかしイエスが地上に再臨し、王の王、主の主として即位し、イスラエル民族から選ばれた十四万四千人が陪席する。それからハルマゲドンで反キリストを反撃し全滅させる。
そして世界に戦争の無い真の平和がおとづれる。それが千年王国とのことです。

ハルマゲドンで反キリストが全滅する様子が予言されているというヨハネの黙示録を見ると、反キリストの者達は生きながら硫黄の燃えている火の池に投げ込まれたり、斬り殺されたり、肉をすべての鳥が飽きるまで食べる、とあります。

千年王国で楽しめる人はごく一握りのキリスト教徒で、残りの何十億という人間は永遠に出られない火の池に投げ込まれてしまうのです。

その上、千年王国の時期が終わるとサタンが獄から解放され、海の砂のように多い諸国民を集め、キリスト教の人達を攻める。その時、天から火が降って彼らを焼き尽くす。そして「いのちの書」に名がしるされていない者はみな火の池に投げ込まれる。キリストを信じたものは神の国にはいる。
というのがキリスト教の終末の予言だそうです。

神の国が築かれる影には何十億という人類が永久に火の池で刑罰を受け続けるというのです。
こんな残酷な終末観が何で発展型の歴史観といえましょう。

結果から云えば一握りの人達を神の国に住まわしめ、何十億の人々を火の池に落とすためにわざわざ人類を創造したのでしょうか。

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