「教主釈尊より大事な行者」の文意

 

大石寺系教団では、日蓮本仏を言い張るために、「法華経は釈尊が説いた経典ではなく後世に創作された経であり、法華経説法の会座は歴史上に事実行われたものでなく、宝塔涌現・地涌の菩薩の涌出・上行菩薩等への妙法五字付属などは方便説だ、いわばオトギ噺だ」などと言い出す者まで居ます。

そのような事をなぜ言い出すのかと云うと、日蓮宗側から「上行菩薩が久成釈尊の弟子であるとか、妙法五字の末法弘宣を釈尊より命じられた仏使である事を明示している法華経の経文や日蓮聖人の御書に拠れば、『日蓮聖人が本当の根本の仏であり釈尊より偉い仏だ』などと云う主張は法華経・日蓮聖人に背く邪義だ」と論難を受けて追い詰められます。しかし、彼らは日蓮本仏を証明出来る法華経や御書の明確な文を示すことが出来ないのです。そこで、苦し紛れに「上行菩薩は釈尊の弟子とか仏使であると書いて有る経文や御書の文は方便説だ、劣った機根の者に応同した対機説法だ」などと言って逃げる外ないのです。

言うまでもなく日蓮聖人は「法華経は釈尊の直説であり、法華経会座の不思議な場面も法華経会座の聴衆が事実現見したもの」と理解されていました。

「涌出品」の「上行菩薩等は釈尊の教導を受けた弟子である」との経文を真実の事であると理解されたので「観心本尊抄」に「我が弟子之れを惟(おも)え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」と明言されているのです。ところが彼らはこの「観心本尊抄」の御言葉までも「方便説だ」と、かたくなに言い張ります。

「神力品」において上行菩薩等に妙法五字を付属し末法弘宣を釈尊が命じた事は真実であると日蓮聖人は理解されたので、それに基づいて同じく「観心本尊抄」に「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う、・・・遣使還告(釈尊の使い)は地涌なり」と教示されているのです。

 

日蓮聖人が、「迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし」(十章抄・1274頁)と「迹門の経文は本門の義によって判定すべきである。経文に説くままに意義を定めることができるのは、ただ法華経の本門に限るのである」と教示されています。言い換えると「涌出品・寿量品・神力品等は経文のままに意義を定めることが出来る」との事です。

そこで「涌出品」の経文が釈尊と上行菩薩等との関係をどのように説いているかを見てみましょう。

大地震裂して上行菩薩等の大勢の大菩薩達が釈尊の召喚に応じて涌出し、宝塔の多宝如来と釈尊を頭面接足来礼をし、釈尊に挨拶します。

この様子を、天台大師が「師厳にして道尊ければ鞠躬祗奉(身をかがめ慎みたてまつる)如来ひとたび命じたもうに四方より奔涌す」と、上行菩薩等が釈尊に対して弟子の礼を取っていると解説しています。

経文は続いて、弥勒菩薩が聴衆の代表して「いま現れた大菩薩衆はどのようなお方たちですか?」と釈尊に尋ねると、釈尊が「これらの大菩薩は我が所化(弟子)で私が大道心を発(おこ)さしめたのであり、我が子である。久遠の昔から私の教化を受けている菩薩達だ」と釈尊が答えています。

すると弥勒菩薩が「釈尊は成道されてからまだ四十余年ほどしか経ってないのに、大勢の大菩薩を教化出来ないと思いますが?」と重ねて質問すると、その答えとして「寿量品」の説法が始まり、釈尊は成仏したての仏では無く、実は久遠の昔から仏として衆生を教導している古くからの仏であることが明かされるのです。

さらに「神力品」の説法においては、末法の衆生のための良薬に譬えられる妙法五字を末法に弘宣しなさいと命じるのです。

このように法華経のどこを打診しても、「上行菩薩の再誕である大聖人の方が本当の根本の仏、釈尊より偉い本仏だ」と云うような事は説かれていないのです。

涌出・寿量品・神力品等の経文を事実・真実として受け止めておられた日蓮聖人が「私の方が本当の仏だ、釈尊などは用の済んだ過去の仏だ」と馬鹿げた事を語る道理など有りません。

彼らは例えば「下山御消息に『教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち』と有る。この文が日蓮本仏の証拠だ」などと言い張りますが、

その「下山御消息」には

「自讃には似たれども本文に任せて申す余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり、経に云く『即如来の使なり』と又云く『眼目なり』と又云く『日月なり』と章安大師の云く『彼が為に悪を除くは則ち是彼が親なり』等云云、」

と述べられています。文意は

「日本国の人々の正しい仏道を教えしめしている日蓮には師匠や親の徳があると言える。また釈尊の使いとして正しい仏道を弘めているのだから釈尊と云う主君の使いの徳があると言える」との意味です。「自分は、主君(釈尊)の使いである」と自覚されていた日蓮聖人が「日蓮は、教主釈尊より偉い仏だ」などと云う道理など有りません。

では「下山御消息」の「教主釈尊より大事なる行者」の文は、どう言う意味かと云うと、「法師品」に「法華経を受持する者は仏の使いである。ののしって修行の障害を与えてはいけない、供養して持経者を助けなければいけない」との誡めが説かれており、また、「仏の滅後において法華経を読誦供養し説く者を仏が衣でおおい、諸仏も護念してくれ、仏が褒め、頭をなでてくれ大事に見守る」とも説かれています。この「法師品」の経説にもとづいて、「教主釈尊が御自身より大事に思ってくれている法華経の行者(の日蓮)である」と表現された御言葉なのです。断じて「日蓮は、教主釈尊より偉い仏だ」との意味の言葉ではありません。

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