久成釈尊が根本教主

 

三大秘法は久成釈尊の証悟が源

 

『三世諸仏総勘文教相廃立』は偽書説が多く、特に「釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時」と有って、「開目抄」の「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし、」との仏界も無始の存在であるとの教示や「観心本尊抄」の「無始の古仏なり」との教示と齟齬しているので第一資料にできないが、大石寺系信徒が度々文証として提示する文書である。それに

「釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世番番に出世成道し在在処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して」(学会版568頁)

と有って、仏法は、インドに応現した釈尊の本地身正体である久成釈尊の証悟を源としている旨を断言している。

この『三世諸仏総勘文教相廃立』よりは偽書論が少ない『当体義抄』

にも、

「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時因果倶時不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因妙果倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、(中略)問う劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや、答う釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり、今日又中天竺摩訶陀国に出世して此の蓮華を顕わさんと欲すに機無く時無し故に一法の蓮華に於て三の草華を分別し三乗の権法を施し擬宣誘引せしこと四十余年なり、」

(学会版513頁)とあって、「聖人、理を観じて」の聖人とは本仏釈尊を指していることが明白である。十界互具因果倶時の真如の理法を久成釈尊が最も最初に証悟して、初めて教導主とその教法が出現したとしている。

(「三世諸仏総勘文教相廃立」では「凡夫で御坐(おわ)せし時」とあるが「当体義抄」では「聖人」とあって、もともとの聖人としている点が両書の大きな違いがある)

 

さらに『当体義抄』には

「(神力品の結要付属の)此の文は釈尊本眷属地涌の菩薩に結要の五字の当体を付属すと説きたまえる文なる故なり、(中略)如来の滅後後五百歳中広宣流布の付属を説かんが為地涌の菩薩を召し出し本門の当体蓮華を要を以て付属し給える文なれば釈尊出世の本懐道場所得の秘法末法の我等が現当二世を成就する当体蓮華の誠証は此の文なり、故に末法今時に於て如来の御使より外に当体蓮華の証文を知つて出す人都て有る可からざるなり」

と有る。

この文に依れば、神力品の結要付属の五重玄義妙法五字は「本門の当体蓮華」であり、「道場所得の秘法」と云って「久遠本時に証得したところの秘法」であり、「末法の我等が現当二世を成就する」と云って「末法衆生救済のため秘法」であり、「如来の御使より外に知つて出す人は無い」と云って「付属を承けた本化菩薩でなければ経文より読み出すことは出来ない秘法」であると述べている。

「本門の当体蓮華」たる妙法五字は本仏釈尊が証得した秘法で有り、その秘法をもって本化菩薩が末法に弘宣すると云う事だから、日蓮聖人弘宣の法門は本仏釈尊に始まると云う事である。

 

故に経には「我れ是の娑婆世界に於いて阿耨多羅三藐三菩提を得已って、是の菩薩を教化示導し、其の心を調伏して道の意を発さしめたり、(中略)悉く是れ我が所化として、大道心を発さしめたり」(涌出品)

と有り、日蓮聖人も「我が弟子、之れを惟え、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」(観心本尊抄)

と明言しているのである。

 

三大秘法は一大秘法より開出

 

「大覚世尊仏眼を以つて末法を鑒知し此の逆謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう、(中略)爾の時に下方の大地より未見今見の四大菩薩を召し出したもう、所謂上行菩薩無辺行菩薩浄行菩薩安立行菩薩なり、(中略)爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄なり」(曾谷入道殿許御書)

 

「遣使還告は地涌なり是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり、」(観心本尊抄)

とあるので、一大秘法とは『神力品』に於いて「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す。」と本化菩薩に別付属されたところの寿量品の肝要名体宗用教の五重玄の妙法蓮華経の五字である事は周知の事である。

 

「如来の一切の所有の法」が「名玄義」、

「如来の一切の自在の神力」が「用玄義」、

「如来の一切の秘要の蔵」が「体玄義」、

「如来の一切の甚深の事」が「宗玄義」、

「宣示顕説」が「教玄義」です。

そこで、一大秘法とは、名玄義を妙法蓮華経とし、用玄義を断疑生の本門戒壇、体玄義は本仏釈尊所見の諸法実相で本門本尊とし、宗玄義を一乘因果の本門題目を内容としていることになる。

 

また一大秘法を『寿量品』には「此の大良薬は色・香・美味皆な悉く具足せり」と表現してあるが、天台大師が「色とは戒を譬う。戒は身口を防ぐ事相彰顕なり。香とは定を譬う。功徳の香もて一切を薫ずるなり。味とは慧を譬う。能く理味を得るなり」(法華文句巻第九下)と、色・香・味は戒・定・慧であると解釈している。そこで、先学が共通して「美色とは妙戒すなわち本門の戒壇、美香は妙定すなわち本門の本尊、美味とは妙慧すなわち本門の題目が具足している」との意味であると認識している。

 

本化菩薩に附属された一大秘法に本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法が内包されているから日蓮聖人は一大秘法から三大秘法を開出されたのである。

 

妙楽大師が「神力品」の結要付属を

「(妙法の)名は此の(宗・用・体の)三に冠(かぶ)って、而して三を総(むす)ぶ。一部(二十八品)の要(かなめ)、豈に此(の妙法蓮華経の名)に過ぎんや。故に総じて之れを攬(と)って、もって(末法の)流通を成ず」(法華文句記巻第十下)

と補釈しているように、一大秘法である妙法蓮華経は、本仏釈尊が妙法蓮華経と云う名の中に宗・用・体の三を結んで、末法救護の教法として本化菩薩に付属したのである。

故に日蓮聖人も「三大秘法抄」にも

「問う所説の要言の法とは何物ぞや、答て云く夫れ釈尊(中略)実相証得の当初修得し給いし、寿量品の本尊と戒檀と題目の五字なり(中略)本眷属上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出して付属し給う、」

と、一大秘法ないし三大秘法は、証悟した久成釈尊の真実の法門として、本化菩薩に末法弘宣を付属した法門である旨を述べている。

 

「十界互具平等・法界円融」を徹見証悟している本仏釈尊の智慧は妙法五字七字であるとしか表現する方法はないし、また、末法衆生の淺智恵をもっては到底知ることは不可能である。そこで妙法五字の受持信唱に因って本仏釈尊の因行果徳の全体を自然に譲与してもらえる本門の題目を本仏釈尊が大智慧と大慈悲をもって、しつらえて上行菩薩等に末法に弘宣することを付属したのである。

一大秘法ないし三大秘法は久成釈尊の実相証得が始原であるというのが日蓮聖人の基本的認識である。

伝教大師も「如来の一切の所有の法」を「果分の一切の所有の法」と「如来」を「果分」と言い換えている。「果分の」とは「寿量品の久成釈尊本果の」と云う意味で有るから、一大秘法は久成釈尊の証悟に根ざしていると云うことになる。

よって、「一大秘法ないし三大秘法は釈尊が説いたものでなく、大聖人が始めて説き弘めたものであるから、大聖人が弘通した仏法は釈迦仏法では無い。故に大聖人こそ本因妙の教主であって、釈迦は根本教主では無い」等と本仏釈尊を軽んじる大石寺系は、日蓮聖人の基本的考えに反するもとと云わざるを得ない。

 

先学が「一大秘法を信行の対境とすれば本門本尊。信行とすれば本門題目。本尊・行者の依止処とすれば本門戒壇であり、三大秘法は一大秘法の宗要、一大秘法は三大秘法の宗体である」(北尾日大・新日蓮宗綱要)

と述べているが、本門の本尊は、釈尊説示の一大秘法南無妙法蓮華経より開出されたのだから、久成釈尊と密接不離である。

 

 

仏釈尊が法界全体を「十界互具平等・法界円融」と徹見証悟され、それを妙法蓮華経と表現されたのである。その本仏釈尊の証悟の境涯、本仏釈尊感得所証の寂光土(本時の娑婆世界)すなわち本仏釈尊の一念三千の法界、言い換えれば本仏釈尊の身(身体)土(環境)を寿量品の事の一念三千と云うのである。

 

本門事の一念三千

 

本仏釈尊の証悟の境界である本門の事の一念三千の具体相を「観心本尊抄の四十五字法体段」に

「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり此れ即ち己心の三千具足三種の世間なり」

と述べている。

大曼荼羅御本尊は、この本仏釈尊の一念三千の法界を表現しているのである。

「御義口伝」も「御義口伝に云く霊山一会儼然未散の文なり、時とは感応末法の時なり我とは釈尊及とは菩薩聖衆を衆僧と説かれたり倶とは十界なり霊鷲山とは寂光土なり、時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出ずるなり秘す可し秘す可し、本門事の一念三千の明文なり御本尊は此の文を顕し出だし給うなり」(御義口伝巻下寿量品)

と解釈しているように、本門事の一念三千とは、寿量品の「時に我れ及び衆僧、倶に霊鷲山に出ず」の世界であるから、霊山虚空会の儀相を示している大曼荼羅をもって久成釈尊の証悟の法界である寿量品の事の一念三千の具体相を表し、本門の本尊としているのである。

 

『諸法実相抄』の後半に、「既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来にたてまつり給し時、妙法蓮華経のはた(旛)をさし顕はし、」(1360頁)とあります。これは虚空会の様相を語っている。大曼荼羅御本尊は虚空会の儀相を以て表現されているのだから、大曼荼羅御本尊中央の題目は「さし顕はされたはた(旛)」であると『諸法実相抄』は説明しているのである。そして、その旗は、「釈迦仏、多宝仏、未来日本国の一切衆生のために、とどめ(留)をき給ふ処の妙法蓮華経なりと。かくのごとく我も聞きし故ぞかし。」(1361頁)とあるように、単なる実相真如や、単なる在纏位の三身如来(仏性)を表す妙法蓮華経でなく、釈尊の教法(衆生を本有の尊形と為さしむ妙法)・釈尊の証悟・寿量品の事の一念三千を一言に表す題目とするのが本義である。

決して久遠本仏釈尊とは別仏の根本仏とか日蓮聖人を表す題目などでは無い。

 

己心本尊説について

 

十界互具であるから、本仏釈尊所証本門の事の一念三千を衆生も本質的に所具している。未だ顕現していなく冥伏している状態で、いわゆる体のみで用(はたらき)が具わっていない状態であるが、大曼荼羅は、衆生が本質的に所具している本仏釈尊所証本門の事の一念三千を表現してもいるとも言える。衆生は本仏釈尊所証本門の事の一念三千を所具していると云う視点から、大曼荼羅御本尊は衆生の己心を本尊としていると言う見方も出てくるが、「衆生は仏界を所具しているのだから本質は仏である」と云う衆生観に根ざした一つの見方である。

しかし、曼荼羅御本尊は本仏釈尊の身土すなわち本仏釈尊所証の境界であることと、受持唱題に因って本仏釈尊の因行果徳を譲与してもらわなければ、衆生は事の一念三千の証悟を顕現できない事を忘却してはならない。

 

垂迹身の分限

 

それから「日蓮大聖人は一往は本化上行菩薩の再誕であるが再往は末法に於ける本仏の応現である」と日蓮本仏論を主張する者が居る。「法華経の寿量品に云く「或は己身を説き或は他身を説く」等云云、東方の善徳仏中央の大日如来十方の諸仏過去の七仏三世の諸仏上行菩薩等文殊師利舎利弗等大梵天王第六天の魔王釈提桓因王日天月天明星天北斗七星二十八宿五星七星八万四千の無量の諸星阿修羅王天神地神山神海神宅神里神一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる天照太神八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、」(日眼女造立釈迦仏供養事)

との文を一番の文拠としているようだ。

この文は、上行菩薩を初め諸仏菩薩諸天の本地は教主釈尊であると云っている。

しかし、例えば天照太神八幡大菩薩の本地も釈尊と云っているが、日蓮聖人は天照太神八幡大菩薩を国神、法華経守護の善神と尊崇していて、八幡大菩薩等を決して本仏釈尊より上位の根本教主などと尊崇していない。

同じように上行菩薩は本仏釈尊の弟子、使いであり、釈尊の勅命を受けて末法に於いて妙法五字を弘宣する菩薩として認識していて、上行菩薩は本仏釈尊より上位の根本教主であるなどとは一言も述べていない。

日蓮聖人(上行菩薩の応現)の本地が釈尊であると仮定しても、教主釈尊の弟子・釈尊に遣わされた仏使としての資格・地位・立場を越権、踏み越して、日蓮聖人こそ本当の教主であるなどと、祭り上げることは大間違いである。

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