『当体義抄』に於ける「仏と法の関係」

『当体義抄』では、「因果倶時不思議の一法の妙法蓮華と云う至理を、師範として、聖人が修行し道を成じ、妙因果を一時に成就して妙覚の仏と成られたのである。(取意)」と有って、久成釈尊は先仏の教法に依らないで、実相真如の理法を師として妙覚を成じたとしている。

天台大師も『法華玄義巻第二上』において、

「三に生起とは、実相の境は、仏・天人の作す所に非す。本と自ら之れ有りて、今に適むるに非ざるなり。故に最も初めに居す。・・・理を解するが故に智を生ず。・・・三法の秘密蔵の中に住す。是の法に住し已りて、・・・先に身輪を用いて、神通もて駭発す。変通を見已りて道を受くるに堪任せば、即ち口輪を以て宣示し開導す。」(国訳一切経53頁)
境妙~功徳利益妙までの十妙の順序関連を言えば、真如実相は元々自ずからあるもので、その真如実相の理法を証得することによって仏智を生じ、法身・般若・解脱の三法妙を得て、衆生の機根に応じて説法教導する

と説明している。この文は、『当体義抄』の表現を借りれば「至理である因果倶時不思議の一法の妙法蓮華を証得し妙覚の仏となり、衆生の機根に応じて教導を始める」と言うことである。
しかし、『大智度論』にも「法宝は仏の師なりと雖も、若し仏、法を説きたまわざれば無用(むゆう)と為る。」(大智度論巻第三十)と有り、

また『大般涅槃経』にも

「私の亡き後は、私がこれまで汝らに説き示してきた法と律、これが汝らの師となるのである。」(講談社『原始仏典1』302頁)

と有るように、仏道修行者が重んずべき法とは、所謂、仏が居ても居なくとも、働いている実相真如の理法ではなく、あくまでも、釈尊が説かれた教法のことである。

『法華文句記』にも、「衆生の仏種は説縁より起こる」(法華文句記会本巻第四下・訓読774頁)とあるように、説縁(教法・乗法)則ち久成釈尊が説いた寿量品の肝心南無妙法蓮華経を介して、衆生の仏性は初めて顕現可能となのである。

釈尊の教法を介さないで、凡夫が直接実相真如の理法を証得することは出来ないのである。

『当体義抄』に「釈尊が久遠五百塵点劫の昔に、此の妙法蓮華と云う至理を証得し、それより已来、世々番々、衆生教化の為めに出世成道してこの本理(至理)を説き顕そうと、種々の方便の経を説き、ついに法華経にて至理証得の経法を説いたのである。(取意)」と有るように、久遠実成の仏がインドに釈尊仏として応現し、衆生成仏の教法である妙法法華経を説いたのであると、日蓮大聖人は認識されていたのである。

日蓮大聖人は『観心本尊抄』に「仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず」(昭定712)と言って、久遠釈尊以前の過去仏や久遠釈尊以後にも未来仏は存在しないとし、久遠釈尊を三世十方諸仏の根本統一仏と認識されている。(『開目抄』昭定575頁・『法華取要抄』812頁にも同意の文が有る)

『観心本尊抄』に
「迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」とあるように、妙法蓮華経の五字は、久遠釈尊の内証寿量品の肝心なのである。
ゆえに、ゆめゆめ忘却してならない事は、「寿量品の肝心南無妙法蓮華経とは、諸法実相を師として妙覚を成じた久遠釈尊の悟りそのもの」であると云う点である。

さらに、『当体義抄』には
「此の〔神力品の如来一切所有の法等の〕一文は、釈尊の本眷属である本化地涌の菩薩に、法華経の肝要を結んだ妙法蓮華経五字の当体蓮華を付属すると説かれた文だからである。久遠実成の釈尊は、・・・中略・・・仏滅後五百年即ち末法に、広宣流布の付属をする為めに、地涌の菩薩を召し出して、法華経本門の当体蓮華を説き、其れを四句に結要して付属されたのが神力品の文である。だから、此の神力品の文は、釈尊が世に出られた御本懐・道場所得の秘法、並に末法の我らが、現当二世の仏果を成就する当体蓮華の真実の証文である(取意)」とも、また『当体義抄』の結語部分には「妙法蓮華経の五字は、末法に弘通せらるべき大白法で、特に地涌千界の本化の大菩薩のみが、その付属をうけ弘通を命じられたのである(取意)」ともある。

故に、日蓮大聖人が弘通する南無妙法蓮華経は、久成釈尊の本弟子である上行菩薩等が付属され託されたところの妙法五字であり、法華経の肝要・法華経本門の当体蓮華・久成釈尊が証得した秘法・末法衆生を成仏せしめるところの教法(乗法)であると大聖人は認識されていた事が明白である。

『観心本尊抄』に
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」とあるように、「寿量品の肝心南無妙法蓮華経を受持信唱する」ことによって、久成釈尊の智徳を譲り与えてもらうのである。故に妙法五字と久成釈尊とは有機的関係にあり切り離せない関係である。

「毎に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと」(寿量品偈)入滅後も大慈悲を注いでいることを忘却してはならない。

妙法五字さえ有れば久成釈尊など必要ないとか、実相真如の理の方が久成釈尊より有り難いとか思う者は、大変な心違いの者である。

妙法蓮華経五字は、

「久成釈尊が道場証得の秘法」であること。

「久成釈尊の一切の所有の法・久成釈尊の一切の自在の神力・久成釈尊の一切の秘要の蔵・久成釈尊の一切の甚深の事を結要した五字」であること。

「久成釈尊の本弟子本化菩薩に付属された五字」であること。

等々の点を、大石寺教団では全く忘却して、
「大曼荼羅御本尊の中尊である南無妙法蓮華経は法であり、御本尊中央の題目と日蓮大聖人花押とは一体であって、日蓮大聖人こそ本尊・本仏である」とか、また「釈迦は妙法五字を説かなかった。説いたのは日蓮大聖人であるから、日蓮大聖にこそ本仏である」などと主張している。
かかる大石寺系教団の主張は、全く『当体義抄』の教示を無視しているものである。
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