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ユーチューブの浄土真宗系のコンテンツを視聴したところ、講師が「法華経には唱題行の文証が無い」と語っていますが、さて本当でしょうか?。

日蓮聖人は
【法華経の題目計りを唱えて三悪道を離る可きことを明さば、法華経の第五に云く「文殊師利是の法華経は無量の国中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず」第八に云く「汝等但能く法華名を受持する者を擁護する福量る可らず」提婆品に云く「妙法華経の提婆品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄餓鬼畜生に堕ちず」大般涅槃経名字功徳品に云く「若し善男子善女人有つて是の経の名を聞いて悪趣に生ずと云わば是の処有ること無けん」涅槃経は法華経の流通たるが故に引けるなり。】(『守護国家論』昭定127)
と、唱題の文証を挙げています。
また、
日蓮聖人は『法華経題目抄』には、「陀羅尼品」の「能く法華の名を受持する者を擁護する福、量る可らず」の箇所の異訳、『正法華経』の「若し此の経を聞いて名号を宣持せば徳量る可からず」と、『添品法華経』の「法華の名を受持せん者福量る可からず」との文を挙げて「此等の文は題目計りを唱うる福計るべからずとみへぬ」(法華経題目抄・昭定394)と述べています。

「法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福量るべからず」の箇所は『正法華経』では、「汝等乃し諸の法師を護らんと欲す、若し此の經を聞いて、名號を宣持する徳量るべからず。」と訳していますが、「名號の宣持」=「題目を唱える」と言えましょう。

サンスクリット原典の植木雅俊氏現代語訳でも
「この法門のただの名前だけでさえも受持するであろう[説法者たち、]それらの説法者たちの守護と、擁護、防護をあなたたちがなさそうということは。」(法華経下・415頁)
とあって、題目受持と説法者守護の二意を含んだ句であることがわかります。
ですから、真宗系講師の【法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福量るべからずは、法華経持者を擁護する福は莫大であるとの経意であるから唱題の文証に成らない】と云う批判は的外れです。

『観音品』には
「是の観世音菩薩を聞いて一心に名を称せば」とあって、観世音菩の名号を称える事が「観世音菩薩の名を持つ」こと即ち「名号受持」と同じ意味とされています。
「名号受持」=「名号を唱える」と云う思想に立てば『陀羅尼品』の「法華の名を受持せん者」とは「法華経の題目を唱える者」との意味になりましょうい。

また『陀羅尼品』には
「是の経に於て、乃至一四句偈を受持し、読誦し解義し説の如くに修行せん、功徳甚だ多し。」とあって、一四句偈受持の思想があります。題目受持は一四句偈受持に当たります。
ですから、『観音品』の名号受持思想や『陀羅尼品』の一四句偈受持の思想も唱題の文証と云えましょう。

また、『摩訶止観弘決・七』に「一代の教法は首題の名字なり、名は一部部内の義を該󠄁ね」(大正46巻381c)と有ります。「経題には、その経一部の義理が籠められている」との意味です。
故に、一遍の唱題は法華経一部の読誦と言うことになるので、「普賢品」の「法華経を受持し読誦せん者を見ては、是の念を作すべし。此の人は久しからずして乃至阿耨多羅三藐三菩提を得」(開結597頁)との経文は、「法華経の首題を唱える者は阿耨多羅三藐三菩提を得」と読み取って良いことになります。法華経の諸処にある「受持読誦」の句も唱題の文証と云うことになりましょう。

ちなみに記しますと、正木 晃氏が著書『ほとけ論』に於いて
【しかし、大きな問題があります。『無量寿経』や『阿弥陀経』に説かれる「念仏」は、じつは「称名念仏」ではないのです。

 念仏の「念」の原語は、二つあります。

  ①随念 anusmarati/anusmrti

  ②作意 manasikaroti/manasikara

 「随念」は「憶念する」から、「作意」は「思念する」から、それぞれ派生した言葉です。したがって、称名念仏という意味はありません。

 また、『無量寿経』の第十八願に登場する「乃至十念」の「念」の原語は、「心citta」です。ですから、「十念」とは、「十たび心を起こす」という意味になります。中国や日本の浄土教では、「乃至十念」は称名念仏を意味すると解釈されてきましたが、『無量寿経』の諸本のどこにも、そのような解釈は見出せません。この件は、善導が『無量寿経』の「乃至十念」を、後発の『観無量寿経』に記されている「下品下生」の説にむすびつけて、「下至十念」と読み替えたことに由来するというのが定説です。
いずれにしても、『無量寿経』に説かれている「念仏往生願」の真意は、阿弥陀仏の姿を、憶念し、思念することです。わかりやすく表現すれば、阿弥陀仏の姿を心のなかにイメージすることにほかなりません。伝統的な用語を使えば、「見仏」です。】(339~340頁)
と指摘しています。
これは、『観無量寿経』にある
【下品上生とは、(中略)智者復教えて合掌叉手し、南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称えるが故に、五十億劫の生死の罪を除く。】【下品下生とは、(中略)十念を具足して南無阿弥陀仏と称せん。仏名を称するが故に、念念の中に於いて八十億劫の生死の罪を除き、】との文をもって、善導大師が第十八願の「乃至十念」の「念」を称名念仏の意に読み替えたと云う指摘です。
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