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ユーチューブの浄土真宗系コンテンツで、
【法華経の方便品には『難解難入』と、また法師品第十にも『法華経最も難信難解なり』と法華経が難行道である旨を表明している】と語っています。この見解に対して少々反論します。

「方便品」の「其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり」との経文について、古来、
「其の智慧の門」とは「是れ権智を歎ずるなり」
「難解難入」とは権を歎ずるの辞なり」と解釈されています。
「権智を歎ず」との意味は、真実の経を説くための準備として、方便の諸経を説く優れた教導力を称えた句であると云う意味です。
「難解難入」の意味は、方便的に説かれた諸経の趣意目的を理解しする事は、方便の教えに執する声聞・辟支仏には難しいと云うことなのです。

山川智応博士が解りやすく次下のように説明しています。
【『佛が九界の衆生の心をよく知り、それ相応の法を説かれる智慧が権智で、具さにいふと、九界の法とその九界の衆生の心とを知る智慧です。(中略)『其の智慧の門は解り難く入り難し』これは権智です。佛界の法が『甚深にして無量』である、其の法に如った佛の『甚深無量』の智慧をば、四十余年の間はこれをかくしておかれた。
なぜ隠して置かれたかといふと、これを説く時が到らなかったから、即ち妙法蓮華の蓮実(はちす)、即ち実の方はかくしておいて、そして先づ華を説かれた。それは九界の衆生の心に従って説かれたから『権智』の所作である。其の『権智』は『実智』に入る門である。そこで、『其の智慧の門は解り難く入り難し』とあって、どのやうな心の持主も這入れるやうに、沢山の法を説かれて居るのです。ところでそれがどれもこれも本当だと説かれて居るのです。たとへば西方十万億土の阿弥陀佛の所に生れるやうに、念佛を唱へるのが本
当だといふのもあり、又禅宗のやうに自分の心で悟るのだ、それが佛法の正味であるといふのもあります。
一方からいったならば他方は嘘になりますが、そんな風なのは皆自らを恃(たの)む人問の為めには心を悟れ、心の怯弱(よわ)い者の為めには佛の力に頼れと説かれたのであって、それは衆生の心に従って説かれた教へなのです。此のことをば天台大師は、隨他意の教といはれまして、佛の『実智』を説かれた教え、即ち「法華経」を隨自意の教といふ語を用ひられて居ます。隨他意の教は、衆生の心はさまざまで、そのさまぐの衆生の心に従って説かれた教へですから、『其の智慧の門は解り難く入り難し』、どっちがどうだか本当のものが解らない、こういうことになります。そういう佛の権実の二智は『一切の声聞辟支仏の知ること能わざる』ものである。】
(山川智応全集・法華経十講上巻96頁)

日蓮聖人は『法華初心成仏抄』で、
【妙楽大師が「此の文の心は、法華経巳前の不了義経即ち方便的経に依っては、真の道は難解難入だが、法華経に来っては機根が調えられているので、解り易く入り易しである。」との妙楽の解釈を引き、き、さらに、難解難入と説いている経が難行道の経と云うのなら、「無量寿経」に「もし斯の経を聞いて信楽し受持すること難が中の難なり、此の難に過ぎたるは無し。」とあり、また「阿弥陀経」にも「一切世間のために此の難信の法を説く」とあるので、まず以て念佛を捨てるべきでろう(取意)】と反論しています。

『法華経・方便品』の「難解難入」を「法華経は難行道」の文証とすることは大きな間違いです。
次に『法師品』の「我が所説の経典無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり。」との文についての真宗系の誤解釈を指摘します。

この経文について天台大師が
【『大品』等の漸頓は、皆な方便を帯し、信を取ること易しと為す。(中略)今の『法華』は法を論ずれば、一切の差別は融通して一法に帰し、人を論ずれば、則ち師弟の本述は倶に皆な久遠にして、二門は悉く昔と反す。信じ難く解し難し。】(法華文句・釈法師品)
と説明しています。
この説明のおおよその意味は
「法華経以外の諸経は、聴者の理解力に応じた方便的教えを帯びた、いわゆる随他意の教えだから信じやすい。しかし、仏の意のままに説かれた随自意の経である法華経の前半では、諸経は法華経を顕説するための方便的経であって、全経典は法華経を頂点とした組織体である事を説いており、また二乗はじめ全ての衆生の成仏の可能性を説いている。そして法華経後半では、釈尊は久遠常住不滅の仏であり、衆生もまた久遠劫来、久遠仏の教導の対象であると説かれている。この法華経前半・後半、いわゆる迹門・本門の教理は、諸経と反しているので信じ難く解し難い 」
との意味です。

山川智応博士が『法華十講』に、
【何故信じ難く解り難いかといひますと、此の已・今・当の説は、多いか少いかはあるけれども、皆衆生の心におつき合ひした方便がはいって居ります、即ち隨他意の経である。それで信じ易く解し易い、それは衆生の心に近いところがあるからです。しかるに「法華経」は隨自意で、佛様の意を説いてある。衆生におつき合ひしない、佛様だけの心であります。そこで衆生が何うしても自分の心に執着をもって居る以上は信じ難く解し難い、信し難く解し難いといふものが、それが本当の佛の正味なのです。】(山川智応全集・法華十講上巻289頁)
と、平易に説明しています。
天台大師や山川博士の説明から解るように、「法師品」の「最も信じ難く解り難し」は、法華経の教理の深高性を語る句であって、難行性を表明している経文では無いのです。

日蓮聖人が『四信五品抄』に
【止観の第六の巻には『法華の前の諸経で、修行する人の位を高く説いてあるのは方便説であるからだ。(中略)また[法華文句]記の第九の巻には『行者の位は、修行される道理が深ければ深いほど、行位は反對に下くなることを顕はす』とある。最高の教えは最下の衆生を摂取するといふことが斯くまで明かに説かれているのである。他宗の者はやむを得ないにしても、天台一門の学者らはどうして『実教であるから行位は下い』という祖師の教をさしおいて、慧心僧都の往生要集などに従ふのであらうか。】(口語訳・日蓮聖人御遺文講義8・376~7頁)
と、法華経は最も優れた真実深高の経だからこそ、最下の衆生にも応じる易行を説示しているとの旨を述べています。

日蓮聖人の『唱法華題目抄』に
「此の経は利智精進・上根上智の人のためといはん事を仏おそれて下根下智末代の無智の者のわづかに浅き随喜の功徳を四十余年の諸経の大人上聖の功徳に勝れたる事を顕わさんとして五十展転の随喜は説かれたり、」(昭定190頁)と述べています。
一切衆生には下根下智末代の無智の者も存在します。そこで、一切衆生が成仏出来る道を説示する法華経は、一偈一句一念随喜の功徳や五十展転随喜の功徳を説いて、修行力の劣った人も成仏の原動力を得られると説示しているのです。

日蓮聖人が『四信五品抄』に
【分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要、在世・滅後の亀鏡なり。?谿の云く「一念信解とは即ち是れ本門立行の首なり」と云云、(中略)一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり、】(1295~6頁)
と述べられているように、法華経には末法の衆生に応じた大易行が説示してあるのです。
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