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法華経は煩悩即菩提と説いていない?
真宗系コンテンツでは、
【「大無量寿経」には「生死の根本を抜き、貪・瞋・愚癡(煩悩)の患なし」と云って、煩悩即菩提をといている。「法華経には煩悩即菩提を説いている」と云うが、解釈的にそうのように云っているのであって、法華経は「煩悩を捨てよ、滅せよ」と説いている。】
との趣旨を語っています。
ところが、法華経の結経『仏説観普賢菩薩行法経』には「当に煩悩を断ぜず五欲を離れずして、諸根を浄め諸罪を滅除することを得」
と「煩悩即菩提」を語る文が有りまし、また、十界互具の教説は法華経独自のものですが、十界互具の教説から必然的に「煩悩即菩提」の思想や「性善性惡・修善修悪」の概念が出てくるのですから【法華経には煩悩即菩提は説かれていない】などとの主張は全く的外れです。
十界互具の教説が欠けている諸経について日蓮聖人が
【法華経以前の諸経は十界互具を明かさないので仏に成るためにはかならず九界を嫌う。九界を仏界に具えないからである。したがって、かならず悪を滅し煩悩を断じてから仏に成ると説く。それは仏には凡夫の身を具える、と説かないからである。それゆえに、人・天・悪人の身を捨ててはじめて仏に成ると言う。これを妙楽大師は「厭離断九の仏」(九界の迷妄を厭(きら)い九界を断ち切って求める仏)と名づける。】(一代聖教大意・日蓮宗電子聖典口語訳)
と指摘しています。「悪を滅し煩悩を断じ尽くしたのが仏」と云う考えの諸経では「煩悩即菩提」が成立しないのです。
十界互具を説き、「煩悩を善用するのが仏」と云う立場の法華経こそ「煩悩即菩提」を説いていると言い得るのです。
また、天台大師が『觀音玄義』に、
【答ふ。闡提は修善を斷じ盡して但だ性善のみ在あり。佛は修惡を斷じ盡くして但だ性惡のみ在り。
問ふ。性徳の善惡は何ぞ斷ず可べからずや。
答ふ。性の善惡は但だ是れ善惡之法門なり、性は三世に改歴すべからず誰も能く毀ぶるもの無し。復た斷壞すべからず。(中略)
問ふ。闡提は性善を斷ぜざれば還て能く修善を起さしめ。佛は性惡を斷ぜざれば還て修惡を起さしむるや。
答ふ。闡提は既に性善に達せず。不達を以ての故に還て善の染するところとなる。修善起ることを得えれば廣く諸惡を治す。佛は性惡を斷ぜずと雖も而も能く惡に達す。惡に達するを以ての故に惡に於いて自在なり。故に惡の染ずるところとならず、修悪起こることを得ず。故に佛は永く惡を復すること無し。自在を以ての故に廣く諸惡の法門を用いて衆生を化度す。終日之を用いて終日染らず。染ざる故に起らず。】(觀音玄義・ 大正大蔵経34巻882頁)
と説明しています。この「性善・性惡」の思想は十界互具の教説が基なのです。
十界互具は、私どもには善性と悪性とを具していることを意味します。仏菩薩も煩悩熾盛の地獄餓鬼の性を具していると云うことです。
ただし、仏は具している地獄餓鬼の性を善用しているのです。
地獄餓鬼の性即ち煩悩を善用することを「煩悩即菩提」とも云うのです。十界互具の教説を懐く法華経こそ「煩悩即菩提」の思想を懐いているのです。
日蓮聖人は「一切衆生皆成仏道の教えなれば、上根・上機は観念観法もしかるべし、下根・下機はただ信心肝要なり。されば、経には『浄心に信敬して、疑惑を生ぜずんば、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして、十方の仏前に生ぜん』と説き給えり。」(持妙法華問答抄・昭定279頁)」と教示しているように、末法の下根・下機に対しては、「煩悩を消滅する行」とか「法師品の弘通の三軌を完全に実践しなければいけない」とか実行不可能な修行を課しおりません。
もちろん分に応じて出来る限り修悪を犯さないよう戒める事は宗教である以上当然のことです。
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