真宗系コンテンツで
【「大無量寿経」の初めに「如来無尽の大悲を以て三界を矜哀(あわれみ・なげく)す。所以に世に出興して光(ひろ)く道教を闡(ひら)き、群萌を拯(すく)わんと欲して恵むに真実の利を以てす」。これは「今から真実を説く」との意である。】と語っていますが、しかし、引用の経文には「今から真実を説く」などとの文意は全く有りません。
『法華経方便品』の「諸の菩薩の中に於て正直に方便を捨てて 但無上道を説く」と明文が有って、法華経こそ「これから説かれる真実経」なのです。
また真宗系コンテンツで
【法華経の特色として二乗作仏と久遠成仏を説いているが、二乗が遠い未来に成仏出来ると云っても、私たちに直接的な関係の無い事だし、仏は過去に成仏した仏と云っても、これも現在の私たちの救いには直接的な関係の無い事だから、真実の御経と誇る意義が無い】
との趣旨を語っていますが、これはとんでもなく間違った認識です。
二乗が作仏できないとすると、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩の九界の衆生は仏になることができないのです。その訳は、法華経の教説から云えば、十界すべての衆生にはそれぞれ十界を具えている。もし二乗が仏になれないのであれば、その他の八界の中に具わる二乗界も仏になることができない。また八界の中の二乗界が成仏できなければ、他の八界も仏になることはできない。また菩薩は「全ての衆生を度脱せん。」との誓願を起こしている。しかし、二乗界に成仏の可能性が無いならば菩薩の誓願も成就しないことになって、菩薩も仏道成就の願を満たせないことになります。法華経以前の諸経のような「二乗以外の衆生は成仏の可能性はあるけれども、二乗は永久に仏になれない」との教説は、その実、「二乗以外の衆生も成仏出来ない」と云うことに成るのです。講者のように【二乗の成仏は、私たちに直接的な関係の無い事】などと、うそぶくことはとんでもないことです。
法華経前半や法華経以外の諸経に於いては、仏はそれぞれに修行して成仏した各々別存在の仏であることになっています。
しかし、法華経寿量品の経説では、釈尊が過去常の久遠実成の仏であり、諸仏は皆な久遠釈尊の分身であって、釈尊が根本の仏であると教示しています。喩えると天の一月が久遠実成の釈尊で、地上の池や湖などに映っている月影が諸仏に相当するのです。
「久遠実成」の教説は諸仏を釈尊一仏に統一すると同時に、また、久遠実成の釈尊の本住処である娑婆世界こそ真の浄土であると云う教説であり、また、久遠釈尊こそ真実根本の主師親三徳を具える救済主である事を説示しているのです。
また、釈尊の過去常が明かされて、始めて真の十界互具の教説が成り立つのです。真の十界互具が明かされて、法華経の成仏観や浄土観が確立するのですから、講者のように【仏は過去に成仏した仏と云っても、これも現在の私たちの救いには直接的な関係の無い事だから、真実の御経と誇る意義が無い】などと、うそぶくことは甚だしい認識不足です。