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真宗系コンテンツで
【「法華経以外の深法こそ真実」と云う真実なんである。「法華経嘱累品」に「もし衆生あって信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於いて示教利喜すべし」とある。法華経を信じられなかったり、行じられない者には余の深法を教えよとある。
法華経を読むと、法華経は、普通の人たちに信じられない行じられない事が次々と明らかになってくる。助かるには、「他の深法を教えよ」とある。
「他の深法」とは「大無量寿経巻下」に「深法を聴きて歓喜信楽し疑惑を生ぜず」とある。「深法」と云われるのは一切経の中で「大無量寿経」だけ。「大無量寿経が真実だよ」と教えているのが法華経。「法華経薬王品」に「もし女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於いて命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の囲繞せる住処に往いて、蓮華の宝座の上に生ぜん。また貪欲に悩まされず。また瞋恚・愚癡に悩まされず。」と阿弥陀仏は素晴らしい仏であるとといてある。】
と語っています。この見解について批判します。

天台教学では、教理を円・別・通・蔵教の四種に分類し、純円教の法華経が真実教、華厳経は別経と円教で構成、方等部(一般大乗経)は蔵通別円の四教で構成、般若経は通別円の三教で構成しているので、法華経以外は純円教では無いと判別します。

純円教の法華経こそ真実経である故に、「薬王品」にも「法華経聞法乃至如説修行の功徳で安楽世界に往ける」と法華経の功徳を語っています。「法華経」のどこにも「大無量寿経が真実だよ」などと云う文義は無いです。
また、真宗系コンテンツの講者は
【「法華経嘱累品」に「もし衆生あって信受せざらん者には、当に如来の余の深法の中に於いて示教利喜すべし」とある。法華経を信じられなかったり、行じられない者には余の深法を教えよとある。「他の深法」とは「大無量寿経巻下」に「深法を聴きて歓喜信楽し疑惑を生ぜず」とある。「深法」と云われるのは一切経の中で「大無量寿経」だけ。「大無量寿経が真実だよ」と教えているのが法華経。】
との趣旨を語っています。

真宗系コンテンツの講者は【法華経を信じられなかったり、行じられない者には】と、「行じられない者には」を故意に付け加えています。
『嘱累品』には「信受せざらん者には当に如来の余の深法の中に於いて示教利喜すべし」とあって、【行じられない者には】と云う言葉は有りません。

法華経弘宣を諸菩薩に委嘱することが主題の『嘱累品』ですから、「法華経を信じようとしない者には、法華経以外の別・円の二教で構成されている大乗経で、一時的に示教利喜させ、機根が成熟したら法華経に誘導し仏慧をえせしめなさい」との句意です。

真宗系コンテンツの講者は【「深法」と云われるのは一切経の中で「大無量寿経」だけ。】と語っていますが、「深法」「甚深法」「深妙法」を『大正大蔵経テキストデーター』で検索すると、数多くの経が自らを「深法」「甚深法」「深妙法」と称しています。【深法は「大無量寿経」だけ】などと断言できません。

その上、証真の『玄義私記』には「若し余の深法と言うは只だ是れ別教。若し余法深法と云えば則ち三教に通ず。今一義に拠る。教隣近の故に円を助くるに便の故なり。」(天台大師全集第四巻2567頁)と注釈し、『玄義講義』も「蔵通は唯だ余にして深に非らず、余にして深は別教。」(天台大師全集第四巻2567頁)と注釈し、天台教学では「余の深法」とは別教を指すと解釈しています。「余の深法」とは『大無量寿経』のみを指していないと云うことです。

また、真宗系コンテンツの講者は、【「法華経薬王品」に阿弥陀仏は素晴らしい仏であると説いてある。】との言っていますが、そんな経文は無いです。
『薬王品』では、十喩を挙げて、法華経が諸経の中で最も深大・最も是れ第一・諸経中の王等と讃えた後、受持の功徳を列挙し法華経の功徳の大なることを語っています。その功徳の一例として、「安楽世界への往生」を挙げているだけです。特に阿弥陀仏の安楽世界を挙げた理由は、「他の浄土より阿弥陀仏の安楽世界の周知度が高かったから」と天台教学では説明しています。

また『薬王品』には
「此の法華経の乃至一四句偈を受持する、その福最も多きにはしかじ」
「若し人此の法華経を聞くことを得て、若しは自らも書き若しは人をしても書かしめん。所得の功徳、仏の智慧を以て多少を籌量すとも其の辺を得じ。」
「若し人あって是の薬王菩薩本事品を聞かん者は、亦無量無辺の功徳を得ん。」
等と有って、法華経の易行性を示している点を見逃さないで欲しいものです。

また、『薬王品』は「もし女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、」安楽世界の阿弥陀仏の下に往けると有るように、法華経聞法乃至法華経如説修行が往生の因行だと言明していますが、阿弥陀仏の称名が往生の因だと云っていない点に留意すべきです。
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