真宗系のコンテンツの講者は
【「法華経薬王品」に「もし女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於いて命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の囲繞せる住処に往いて、蓮華の宝座の上に生ぜん。また貪欲に悩まされず。また瞋恚・愚癡に悩まされず。」と阿弥陀仏は素晴らしい仏であると説いてある。】とも語っています。

ところが、『薬王品』を読んでみると、「薬王品聞法受持の功徳」「如説修行の功徳」によって「安楽世界の阿弥陀仏の住処に往けるよ」と言明していますが、阿弥陀仏の称名が往生の因だと説いてないし、何処にも【阿弥陀仏は素晴らしい仏である】と説いて無いです。

妙楽大師が【ただ得聞是経如説修行と云う、即ち浄土の因にして須く更に観経等を指すべがらざるなり。】(法華文句記巻第十下)
と注釈しているように、『薬王品』では、極楽世界往生の因行として法華経の聞法受持・如説修行を勧めているのです。                        
さらに妙楽大師は続いて
【既に如説修行と云う、即ち経に依って行を立つ。具に分別功徳品の中に、直に此上を観ずるに四上具足するが如し。(中略)故に同居の穢を離れずして同居の浄を見る。】
と教示し、同居の穢土である娑婆世界に、同居浄土等の諸土を具していると云う浄土観に立って修行するのが、法華経の如説修行というものであると注釈しています。同居の穢土を離れないで、同居の浄土を見ると云う法華経の浄土観ですから、『薬王品』の「安楽世界」は、観経が説くような、浄穢隔別思想に立つ十万億土の彼方に存在すると云う西方浄土を指していないのです。

恵心僧都も「観心略要集」に、法華円教の立場から【四土は本と是れ一なり、三身本と法界に遍ず、我が身即ち弥陀、弥陀即ち我が身、裟婆即ち極楽、極楽即ち裟婆なり。譬へば因陀羅網の互いに相ひ影現するが如し。故に十万億国土を過ぎ安養の浄刹を求むべからず。浄穢は只だ是れ迷悟の差別なり。迷者の為めには裟婆の外に極楽有り、覚悟の前には裟婆即極楽なり。故に深信観成の人は裟婆に於いて四種仏土を見る】(昭和新纂天台宗典440頁)
と説明しています。 

『分別功徳品』には「善男子・善女人、我が寿命長遠なるを説くを聞いて深心に信解せば、則ち為れ仏常に耆闍崛山に在って、大菩薩・諸の声聞衆の圍繞せると共に説法するを見(方便有余土の相貌)、また此の娑婆世界その地、瑠璃にして坦然平正に、閻浮檀金以て八道を界い、宝樹行列し、諸臺楼観皆悉く宝をもって成じて、其の菩薩衆咸く其の中に処せるを見ん(実報報土の相貌)」
とあって、信解の深まりによって、此の土に即して方便有余土・実報報土を感見すると教示しています。いわゆる「一土一切土・四土具足」と云う教理が法華経の思想なのです。

『薬王品』は、西方十万億土の浄土への往生を求める当時の阿弥陀信仰の人たちを、法華経受持修行に誘導し真の浄土を求めさす為めに、「是の経典を聞いて説の如く修行せば、此に於いて命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の大菩薩衆の囲繞せる住処に往いて、蓮華の宝座の上に生ぜん」と、説示したでしょう。

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