「法華経は自力行即ち難行道である」との喧伝に対する江戸時代の日蓮宗先師一音日暁上人の反論の要旨を紹介します。
【 天台大師が『法華文句』に
「経に大力有って終に大果を感ず、務めて当に五種の行を勤習すべし」(正蔵34巻141b)と述べ、妙楽大師の『法華文句記』にも「行淺く功深きことを示して、以て經力を顯す。」(大正蔵34巻344c)との補釈が有り、伝教大師の『法華秀句』にも「妙法の経力を以て即身に成仏し」(伝全巻三・266頁)と有るように、自力のみで無く、経力に依って成仏得脱有りと云うのが法華経の立場である。
そもそも易行道と難行道とが有ると説く『十住毘婆沙論』は、法華経こそが易行道であることを証する助証である。
『十住毘婆沙論』に「仏法に無量の門有り。世間の道に難有り、易有りて、陸道の歩行は則ち苦しく。水道の乗船は則も楽しきが如し。菩薩の道も亦た、是の如し。或るいは勤行精進する有り、或るいは信方便の易行を以って疾く阿惟越致に至る者有り。」(新国訳十住毘婆沙論1・94頁)
と論じて、信に依て成仏得脱に至る方法を易行としている。
『法華経譬喩品』には「汝舎利弗 尚お此の経に於ては信を以て入ることを得たり(中略)己が智分に非ず」と説き、『方便品』にも
「諸余の衆生類は 能く得解することあることなし。諸の菩薩衆の 信力堅固なる者をば除く」
「当に大信力を生ずべし」
とあって,信力に依る成仏得脱すなわち易行道を説いている。】
(已上は『法華安心録・23右(一音日暁著)』の要旨)
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