目次に戻る

法華経難行説に対しての江戸時代の日蓮宗先師・了義日達上人の反論を紹介します。

信心為本の法華経は易行道。
【智解第一の舎利弗さえ悟入するには「非己智分」の誡示を受けているのだから、まして凡愚の我らが智解力を以て仏智を得ることなど不可能である。
「仏法の大海には信を以て能入と為す」と云うのであるから、凡愚の我らであっても、仏道を信楽し、深信至誠に勤励策修すれば、必ず仏道を成就することが出来る。
故に法華経には「以信得入」及び「一念信解」と説いてあり、涅槃経にも「阿耨菩提は信心を因と為す。是れ菩提の因は復た無量なりと雖も、若し信心を説かば則ち已に攝尽す」(大正12巻573a)と説いてある。
また、本業瓔珞経にも「一切衆生初めて三宝海に入るには、信を以て本と為す」(大正24巻1020b)とあり、金剛般若経にも「若し復た人有って是の経を聞くを得て、信心清浄なれば則ち実相を生ず」と説かれている。
これらの経文に依て「初め仏法に入るに信を以て本と為す」ことが分かる。

それ、解有って信無きは入道の器に非ず。提婆達多は六万法蔵を誦したと云うが堕獄を免れなかった。槃特は唯だ一偈を覚えただけであったが、悟ることが出来たように、解無きも信有れば即ち仏道を成就できるのである。
だから、今時の凡夫も妙名を唱誦し信心勇猛に畢命を期とせば、万行ここに攝尽し、万徳ここに周備して速やかに仏果を成ずることが出来るのである。】(愍諭繋珠論巻之一・51葉の要旨)

三力具足を説く法華経は易行道


【法華経修行には、最勝の経力・諸仏の願力・行者の信力の三力が円足するので易行の成仏道である。
故に無量義経には「是の如き無上大乗無量義経は、極めて大威神の力ましまして、尊にして過上なし。能く諸の凡 夫をして皆聖果を成じ、永く生死を離れて皆自在なることを得せしめたもう。」(開結48頁)と、また法華経には「此の経は能く大に一切衆生を饒益して、其の願を充満せしめたもう。」(薬王品・開結525頁)と、経力の功能を説いている。

法華最上の法力は遙かに群典に勝れて大威徳力有り。よく垢障覆深の凡夫をして疾く仏果を成ぜしむるのである。法華経は、行者の自力のみで成仏を目指す経ではない。
「自力道の法華経は成仏叶い難し」と云うような批判は全く的外れである

また法華経に「諸仏の本誓願は 我が所行の仏道を普く衆生をして亦同じく此の道を得せしめんと欲す」(方便品・開結117頁)とあるように、諸仏の誓願は数多く有るが、三世十方の諸仏共通の根本的な誓願は「一切衆生をして同じく仏果を得せしめんと欲する」と云う誓願である。
この故に、我ら愚縛の凡夫が深信に妙法を習修すれば、諸仏の本誓願に適うので、仏の願力の衛護を受け得脱へと進むことが出来る。

故に妙楽大師も「もし諸仏菩薩の願力を以て加被して知らしむること無くんば、なを方等に在って弾を聞き、般若にして加説することを得ず。況んや法華に於いて、まのあたり記莂を蒙らんや」(止観輔行三下・大正46巻251a)と、諸仏菩薩の願力加被の必須性を述べている。

もし諸仏の願力を被らなければ、身子、目連といえども、なお得脱出来なかったであろう。況んや今時の凡愚は必ず大悲願力を蒙って、はじめて仏道を成就できるのである。

如来の慈悲は、諸の衆生に於いて平等であるけれども、しかも罪ある者に於いて、心則ち偏に重しとは是れ涅槃経の誠言である。
末代凡愚、よく此の経を持せば、必ず仏の加被を蒙ることは磁石の鉄を吸うようなものだ。必ず行者をして大涅槃に至らしめること、決定として疑い無い。「法華経は自力道だから末代凡愚には不適当」などと云う指摘は全く的外れである。

高山の水は深谷に降るように、最頂の教には劣機を救う力が有ることは、その理は必然である。汝等は「法華経の位は極めて高いから劣機の凡夫には不適当である」と言っているが、法華経が法位高上ならば、下根を摂引し劣機を済度すること更に疑い無い。また浅薬は軽病を癒やし、最大良薬は深重の病を癒やすこと、まさに是れ現実の現象であろう。

重病人に譬えられる今時の下劣重障の凡夫は、妙法の経力に由らなければ何を以てか生死を出離することが出来ようか。妙楽大師が「しかるに円頓の教は本と凡夫に被る」(止観輔行四末・大正46巻273c)と述べているのである。

法華の勝れた働きを識らないで、一概に「ただ是れ法位高上のみ」と捨てなげうつ事は大変は誤りである。】
已上『愍諭繋珠論』 巻之一・51右~54右の趣旨
目次に戻る