他土弘通希望は法華難行の故か
「勧持品によると、新得記の声聞たちは、此の土の弘経に堪えないので、他土の流通を望んでいる。無生忍を得た菩薩すら、なお悪世の弘経を恐れるほどだから、初心始行の輩には末世においての法華経修行は成就し難いであろう」との江戸時代の浄土宗からの批判に対する了義日達上人の反論を紹介します。
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【末法の法華弘通は、はなはだ艱難であるが、妨害迫害の巨難は、特に開宗弘教の初めに興起するが、それよりの後の弘経は艱難さは少なくなる。故に先聖の緒を継ぎ、その遺誡をに守って弘通すれば、修行弘通を行ない得る。
故に法師品に「若し是の善男子・善女人、我が滅度の後、能く窃かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり」(開結308頁)と、初心の行者の弘通のあり方を説いてある。
法華経の乃至一句をもって、ひそかに一人の為めに説く人は、則ち如来の使いにして如来の事を行ずるなりと有る。これ末代初心易行の弘法に非らずや。】
(已上は愍諭繋珠論巻之三・71右~72左の趣旨)
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