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【大慈悲を室と為し、柔和忍辱を衣とし、諸法空を座とする四安楽行を修行しなければならないと説いているが、末法劣機の凡夫には実践不可能な修行である。故に法華経は末法には不適当な経である】と云うような法華経批判を語っています。
江戸時代でも浄土真宗側が【大慈悲を室と為し、柔和忍辱を衣とし、諸法空を座とするの上に、四安楽行を修し、五種法師を具して応に其の益有るべし。もししからば法華の修行も今時の下根に望んでは、難修難行なること、分明なり】と、同様の批判を寄せています。
この非難に対する江戸時代の先師・了義日達上人の反論を下記に紹介します。

○【名字即と云う未熟初心の弘者であても、説法の席に臨む場合には、必ず堂に登り服を整え座に坐して説法するものだ。人を教導する場合には必ず慈悲心が働いている。是れ則ち室なり。たとえ一句を説くといえども、聴者を正道に導き聴者の悪を止め、また自らも一層正道を歩まんとの思いを強くするものだ。是れ則ち衣なり。他を益そうとの念いは、相手と自分との区別が薄くなっている、即ち「物我を忘する」心理状態であるので、是れ則ち諸法空の座と言える。
故に法華の一句を、ひそかに一人の為めに説くだけの者でも室・衣・座の心は有るものだ。未熟初心の者には行じ難いとは言えないであろう。故に妙楽大師も『止観輔行第六』に「寂滅忍衣をきて、大慈の室に居し、妙空の座に坐して、まさに能く善巧に他を利することを為すべし。是の如きの利他は名字の位の中に已に巨益有り。なんぞ五品及び無生を待たん」(大正46巻349c)と述べ、未熟初心の名字位の者でも、分に応じた衣・室・座の三軌を具し大きな利益を顕すことが出来ると説いているのである。
「法華の修行は必ず四安楽行に住す」と決めつけ法華経は末法衆生に不適切な経であると思い込むことは愚蒙至極の至りである。
法華経には無相安楽行と有相安楽行の二行が説かれている。
無相行とは、身・口・意・誓の四行を行じて、初めより理観を専らにし十八空を観じる行法で、安楽行品に示されている。
また、理観を修せず専ら法華の文字を誦する行法を有相安楽行と云う。そこで、法華の修行は唯だ一種で無い事、また有相安楽行は末法劣機未熟初心の行者にも容易に行じ得る行法である事が解る。

五種法師は難修難行道に非ず。

五種法師と言うは、必ず五種の行を整束して修さなければならないと云うものでは無い。
法師功徳品に「若し善男子・善女人是の法華経を受持し、若しは読み若しは誦し、若しは解説し若しは書写せん。乃至 是の功徳を以て六根を荘厳して皆清浄ならしめん。」(開結463頁)とあるが、この文の中の「若し」の字が表すところは、五種の中の一行だけを行じても皆な六根浄を得られることを意味しているのである。故に、嘉祥大師の『法華玄論』には「しかるに経に云く、若しは読誦し乃至書写する者といえり、必ずしも五師を具してまさに六千の功徳有るにはあらず。よく読みよく解し説の如く修行するも、また六千を得」(大正34巻446a)と説明し、「若し」の字を以て、五法師を欠けることなく行じなくとも良いと釈している。

末代初心名字即の人は、受持あるいは読誦の一行に依て、まさに相似六根浄に入ることを得ると説かれているのだから、「五種法師を具して修行する事は、今時下根にとって難修難行である」と云う批判は的外れである。】(已上は愍諭繋珠論巻之三・72左~78右の要旨)

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