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「法華経は自力難行道だ」との主張に対する江戸時代の先師・了義日達上人の反論を下記に紹介します。
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【天台大師が「教門に於いて道を得るを名づけて信行と為し、観門に於いて道を得るを名づけて法行と為す」(『法華玄義』大正33巻784b)と」説明していますが、仏典では衆生の機根を、信行根と法行根との二つに大別します。
信行根とは、教えの聴聞を通して信を生じ悟りを得る人。
法行根とは、教を聞いて観法を修し悟る人を指します。
『譬喩品』には「汝じ舎利弗、なお此の経に於いて信を以て入ることを得たり、況んや余の声聞をや。其の余の声聞も仏語を信ずるが故に此の経に随順す。己が智分に非ず」(開結168頁)と説いてあるように、舎利弗たちは、明らかに信行で得悟した事になっています。
迹門流通分の『法師品』には「妙法華経の乃至一偈・一句を聞いて一念も随喜せん者には、我れ亦阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く。」(開結305頁)と有り、本門流通の『分別功徳品』には「能く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量あることなけん。若し善男子・善女人あって、阿耨多羅三藐三菩提の為の故に、八十万億那由他劫に於て五波羅蜜を行ぜん。・・・是の功徳を以て前の(一念信解の)功徳に比ぶるに、百分・千分・百千万億分にして其の一にも及ばず。」(開結438頁)と説いて、信心得道を明かしています。
さらに『提婆品』も「妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ず」(開結348頁)と有り、『随喜品』には、五十展転随喜の功徳は八十年の布施に勝れることを明かしています。
これらの説示は、滅後末世の衆生の為めに慇懃に信受得道すなわち信行の修行を勧示しているのです。
このように機根の劣った末世衆生の為めに、信受得道の方法を説いてある法華経に向かって「法華経は自力難行だ」などと非難することは大変な間違いです。
聖道自力・浄土他力の分判󠄂は誤り
「聖道自力・浄土他力」との分判には、経証が無く、曇鸞の往生論註及び浄土十疑論に有る分判󠄂です。
そもそも、衆生に諸仏の教導を受ける善因(内因)が無ければ、外縁としての諸仏が応ずる理は無いし、また諸仏の助縁が無ければ衆生に内善がく有ったとしても、悟りを発する理は有りません。
すなわち衆生の内因純熟するが故に諸仏がまさに応ずのであって、これを感応道交と云うのです。ゆえに浄土教のみ偏に他力に依て自力を欠くと云う理は有りません。
『起信論』にも「因縁具足して乃ち成弁することを得る。木中の火性の如し。是れ火の正因なり、もし人知ること無く方便を仮らずして、よく自ずから木を焼くこと、是の処り有ること無し。衆生もまたしかなり正因薫習の力有りといえども、もし諸仏菩薩善知識等に値遇し之れを以て縁となさずして、よく自ずから煩悩を断じ涅槃に入ることは、則ち是の処り有ること無し。
もし外縁の力有りといえども、しかも内の浄法に未だ薫習の力有らざる者もまた究竟して生死の苦を厭い涅槃を楽求することあたわず。もし因と縁と具足すれば、いわゆる自ずから薫習の力有り。」(大正32巻578c)と論じているように、もし内善と外縁との二が具足しなければ、一切成弁しないものです。
良忠の『選択伝弘』に「聖道浄土二門ならびに仏加自力有りといえども、聖道は是れ自強く他弱し、浄土門は是れ他強く自弱し。(已上取意)」と弁明しているが、この弁明は、先ず聖道自力・浄土他力と定めた上で、強弱の会通をしているけれども、そもそも聖浄二門を以て自他に相配すること自体に経証が無いのですから、強弱の料簡を用いても「聖道自力・浄土他力」と分判する正当性を擁護出来ないでしょう。
また本願他力の強きに因って、衆生皆な往生を得ると云うので有れば、諸仏は法界に遍し、一切衆生をして苦を離れ楽を得せしめんと欲しているのだから、どうして、往生出来ない衆生が居るのだろうかとの疑問が解消されないでしょう。
衆生が安養界に往生出来る場合も、九品の差異が有ると浄土経は説いていますが、そもそも、その差異はみな衆生の業業不同に由ります。もし一向に仏願他力に拠るものであるならば、往生の状態に九品の差異を感見することなど無いはずでしょう。
また『十住毘婆沙論』に「仏名を聞いて往生を得るとは、もし人、信解の力多く、善根成就し業障礙すでに尽きぬ、是の如くの人、仏名を聞くことを得ん」(大正26巻33a)と有って、信解の力多く諸の善根成就し業障微薄の者は仏名を聞いて即ち往生を得ると述べている。この文の「信解の力」等は是れ行者の自力のことであり、「仏名を聞く」とは本願他力の事である。故に『十住毘婆沙論』の文は、自他具足してまさに往生を得ると述べているのであって、「偏へに他力に由って往生を得る」とは云えないはずです。
『天台止観第二』にも「常行三昧とは、此の法は般舟三昧経より出でたり。翻じて仏立となす。仏立に三義有り、一には仏の威力、二には三昧力、三には行者本功徳力なり。よく定中に於いて十方現在の仏、その前に在って立ち給えるを見る」(大正46巻12a)と述べ、さらに妙楽大師が「三力とは、偏に弁ずべからざ故なり。因縁和合し感応道交するが故に三力を須ちう。彼の経に云く、随って何れの方の仏にもあれ、見んと欲せば即ち見る。何を以ての故に、是の如き三昧は仏力の所成なり。仏三昧の中に在って立ち給えるを見るとは、三事有るが故なり。彼の仏力持し、三昧力持し、本功徳力持するなり。是の三事を用ちう、是の故に仏を見る」(大正46巻185a)と補釈しています。
天台大師は般舟三昧経に依て常行三昧を説明し、一には仏力、二には三昧力(法力)、三には行者本功徳力(行人の自修力)の三力を以ての故に能く仏を見ると述べ、此の三力は一をも欠いてはならないと説いているのです。
故に、妙楽も「三力偏に弁ずべからず因縁和合し感応道交するが故に三力を須ちう」と補釈しているのです。
衆生の内因と諸仏の外縁とが感応道交して、すなわち諸仏を見、また往生を得る事を認知すべきです。行者の自力を欠いて。偏に他力に拠って往生を得ることは有り得ないのです。
聖道門は偏に自力と貶すことは経説無視した大きな間違いです。】
(已上は愍諭繋珠論巻之四・11右~44右の要旨)
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