廻向について

「華厳経」の「巻第十四・金剛幢菩薩十廻向品第二十一之一」
に、菩薩の十種の廻向に就いて説明する中で、
(菩薩は)是の如き等の無量の善根を修す。善根を修し已(おわ)りて、是の如きの念を作(な)さく『我が修習する所の善根は、悉く以て一切の衆生を饒益し、究竟して清浄ならしめん。此の修する所の善根を以て、一切衆生をして、皆、悉く地獄、餓鬼、畜生、閻羅王等の無量の苦悩を除滅せしめん』と。また此の念を作(な)さく『我、此の善根を以て廻向して、一切衆生の為めに舎と作(な)らん、苦陰を滅せが故に。・・・』菩薩摩訶薩は、是の如き等の無量の善根を以て廻向して、一切衆生をして一切智を究竟せしむ。」
(昭和新纂国訳大蔵経・経典部第九巻438頁)
と、善根を廻向して迷苦の者を救うと云う廻施の功能を明言しています。

『摩訶般若経』には
「阿耨多羅三藐三菩提に廻向するは、是の功徳を持って、一切衆生を調えんが為め、一切衆生を浄めんが為め」(昭和新纂国訳大乗経大智度論4・175頁)とあるように廻向思想があります。
また龍樹菩薩の『宝行王正論』
「このようになされた福徳や、自らがすでに行った、またまだ行っていない(福徳)によって、生きとし生けるものがことごとく無上の菩提心をおこしますように」(中央公論社刊。大乗仏典14・311頁)
との菩薩の誓願を挙げています。
この誓願には「功徳の廻向の功徳をもって、他者が道心を起こさせる」と云う思想が見えます。
『梵網経下』にも、
「もし父母兄弟死亡の日に、応に法師を請じて菩薩戒経律を誦せば、福、亡者を資(たす)け、諸仏を見たてまつり、人天上に生ずることを得」(若父母兄弟死亡之日。應請法師講菩薩戒經福資亡者。得見諸佛生人天上。)
とあるように、親族の修福が亡者を助けると云う思想や、
『地蔵菩薩本願経』
「死後に報有り。織毫(せんごう)も之れを受く。父子至って親しけれども岐路各別なり。たとい相ひ逢うとも敢えて代わって受くることなし。」(地獄名号品第五)とあるように自業自得の原則に立ちながら、「命終の時に臨んで、父母眷属宜しく為めに福を設けて以て前路を資(たす)くべし。・・・もし能く更に為めに、身死の後七七日の内に、広く衆善を造り、能く是の諸々の衆生をして永く悪趣を離れ、人天に生ずることを得て、勝妙の楽を受けしむれば、現在の眷属も利益無量ならん。」(利益存亡品第七・国訳一切経・大集部5・239頁)
他者(親族)が衆善を行えば亡者は人天に生ずることが出来ると説いてる思想があります。(ただし、何れも命終の当日ないし四十九日の間に亡者の為めに修善すべきことを説いています。)

『随願往生十方浄土経』には一歩進んで
「三宝を信ぜず法戒を行ぜず。・・三塗八難の中に堕在し、諸々の苦悩を受け休息あることなし。父母兄弟及び諸の親族、その為めに福を修す、福を得ると為すや否や。仏の言(のたま)わく、普広よ、この人のために福を修すれば、七分の中一を獲ると為す。何が故にしかるや、その前世道徳を信ぜざるが故に、福徳七分の一を獲せしむ」
と有って、すでに地獄等に堕ちた者も親族の修福の功徳を受けられると云う思想が有ります。

『大乗本生心地観経』にも
「其の男女は勝福を追うふを以て、大光明有って地獄を照らし、光の中に深妙の音を演説して、父母を開悟して発意せしめん」
(巻第三・国訳一切経経集部6・198頁)
と、父母の没後に諸功徳を修すれば、地獄にある父母をして開悟発意せしめることが出来る。とあります。
こうした大乗仏典の教説に基づいて追善供養廻向が行われてきたのでしょう。

自業自得の道理を超越して、他者の善根(他者の業)を廻向(移送)して貰い、苦境から救われると云う思想の基は、仏の神力、功徳力で苦境を脱し得た説話に有るのではと思います。
例えば、
「大般涅槃経」の「梵行品第八の五」に有る餓鬼の説話です。

「恒河の川辺に居る五百の餓鬼は、悪業の報いて、水の流れが火の流れとしか思えないで、飢渇に苦しんでいた。餓鬼たちは、河の側のウドンバ林で禅定していた釈尊に救護を求めた。
餓鬼達は仏力を以ての故に河の水を飲む事が出来た。水を飲み終わった餓鬼に釈尊は種々に法を説き、説法を聞いて餓鬼達は悟りを目指す心を発
(おこ)し、餓鬼の形を捨てて、天身を得た(取意)」
(国訳大蔵経涅槃部一・375頁)
と云う説話は、自業自得の理を超越して、仏力によって、飢渇の苦が除かれています。
「大智度論」の「巻第三十」に羅頻周比丘(らびんしゅうびく)の説話もあります。
「羅頻周比丘は持戒精進の人であったが、乞食しても六日間も食を受けられなかった。餓死してしまいそうなので同道の比丘が、自分が乞食で受けた食べ物を、羅頻周比丘に与えると、鳥が取ってしまった。同道の比丘が「あなた方の大神力で此の食べ物を守護して、羅頻周比丘に与えて欲しい」と舎利弗尊者と目連尊者とに頼んだ。
頼まれた目連尊者が食べ物を与えたが、食べ物が変成して泥になってしまった。次には舎利弗尊者が乞食で受けた食べ物を与えると、今度は羅頻周比丘の口が開かなくて食べられない。最後に釈尊が食べ物を与えると、仏の福徳の無量の因縁を以ての故に、羅頻周比丘は食べ物を口にすることが出来た。
(取意)」(昭和新纂国訳大蔵経論律部第四巻・940頁)
と云う話です。自業自得の理を超越して、仏の福徳の力によって、飢えの苦をのがれたと云う説話です。

こうした仏の福徳、仏力によって苦境を脱したと云う説話の思想が
他者の善業の功徳の廻施を受けて、苦境を脱するという、廻向の思想に発展したのではないかと思われます。

ミヤンマー仏教僧からの批判。

ところが、あるホームページに日本仏教に於ける先祖供養を批判している法話が載っていました。
それは、パリー仏典を根拠としているのミヤンマー(ビルマ)仏教のお坊さんの見解です。下記の意見です。
(以下引用)
仏陀本来の教え(仏教)には先祖供養はありません。先祖を祭る行事もありません。それは、仏教とは違うほかの宗教(儒教・神道など)のことであります。
「悪行を犯して死んだ人間を、供養をすることによって助けることはできない。」「悪行を犯した人間を、別の人間が清めることはできない。」というのが仏教の教えであります。
この世において身・口・意による悪行を犯した先祖の方も同じ家族の者も、死後、例外無く、阿修羅、餓鬼、畜生、地獄という欲界悪趣地に向かって堕ちる。その悪業の清算が済むまでは、悪趣地に留まり苦しみを受け続けます。しかし、ここに永遠に留まることはなく、悪業の寿命が終れば、又別の世界に輪廻転生します。・・・
来世における結果は前世の行為によると因果応報の理を説き、さらに一切の有情にとって業だけが自分のものである(=業自性:kammassakata)と説くのが仏教であります。・・・この『盂蘭盆経』というお経は、布施の功徳を先祖供養に結びつけた中国でつくられた「偽経」であります。偽経とは、疑経とも言われ、お釈迦様の教えをわからないように偽装した、中国・朝鮮・日本などでつくられたお経のことであります。・・・パーリ語『餓鬼事経』(Petavatthu)には、悪業の清算も終りに近ずき、次の世界に転生する時期にある一匹の餓鬼が、比丘たちが雨安居明けの儀式において総懺悔して食べ物などの布施に歓喜している姿を見て、この布施は自分を救済するために親戚縁者たちによって行なわれたことを知るや、大いに感激し、その喜びを所縁にして心を善に向かわせ、善趣地に転生できたという話があります。これを「得達の随喜」(pattanumodana:自ら得たものを喜ぶ)と言います。
(以上引用終わり)
このお坊さんの見解は、
1,他者の善行の功徳によって救われると云う事は、自業自得の原則に背く思想である。
2,餓鬼が飢えから救われた事例が『餓鬼事経』に列挙されているが、親戚縁者の施しの功徳によって救われたのではなく、餓鬼自身が親戚縁者の善行を喜ぶ事による善報である。
3,父・母・子には、それぞれ独立した心と業を有している。俗に言う「血のつながり」は一切関係ない。

と云う見解です。

『餓鬼事』の廻向思想

パリー仏典の研究者である藤本 晃博士は著書『廻向思想の研究』(国際仏教徒協会刊)において、『餓鬼事』の廻向思想を検討し
「『布施を指定する』という文言が『布施行を誰かのために行う、施物を誰かのために布施する、福徳が誰かに生じるようにと願う』というほどの意味であり、『布施から生じる福徳を他者に移譲する』
という意味を持たないことが推測できた。
餓鬼自身が行った随喜という、他者の善業を喜ぶ心の善業によって、餓鬼は即座にその果報である富楽を得、苦しみから免れていたのである。餓鬼は餓鬼自身の随喜の果報を享受しているのであり、施主から福徳や果報を与えられているのではなかった。
救済される餓鬼自身も随喜という自業を行っていることは明示されていたのである。故に餓鬼の救済は、自業自得の法則を逸脱していない。(取意)」
と論じています。
そこで、『餓鬼事』に有るいくつかの説話を読でみましたが、「廻向を受ける者も自分で随喜という善業をおこなったからすくわれた」と云う側面もあると読み取れますが、施主の布施が必須条件になっていますので、施主の布施行によって餓鬼が救われたと云う側面も無視できないと読み取れます。
ミヤンマーのお坊さんも、藤本博士も、自業自得の原則に矛盾しないよう、説話の解釈をしすぎているいるように思います。
ミヤンマーのお坊さんが「仏陀本来の教え(仏教)には先祖供養はありません」といっていますが、阿含経はともかく、上に掲示しました「心地観経」はインド大乗後期の経でが、すでに、四恩の一つとして父母の恩を詳説し、上記の「心地観経」の文のように追福を勧めています。

中国随時代の慧遠の会通

松浦秀光師が著書『禅家の葬法と追善供養の研究』(山喜房仏書林刊)において、中国随時代の慧遠(592年没)の『大乗義章』にもすでに、廻向思想が因果の道理と矛盾すると云う問題を取り上げて会通している事を紹介しています。
(以下引用)
「釈して云はく、『仏法は自の業は、他人果を受く、また他の業は、自己報を受くることなし』と雖も、彼此互相助縁無きに非ず。
相助くるを以ての故に、己が善を以て、彼に廻施することを得。廻向を以ての故に、未来世に於いて、常に能く衆生を捨てず、利益し助けて善を修せしむ。故にすべからく廻向すべし」(大乗義章第九聚法第四、廻向義)と。
則ち果は自業自得であっても、縁即ち助成条件の善に依って、善果に変成することを得るのである。ここに廻向の意義が成立する。
例えば、米の因は籾であって果もまた籾である。これは自業自得果であるが、これに条件としての耕作管理肥料などの助縁が優秀であれば、これを加えた籾と加えぬ籾とでは、結果たる籾であることは同一であっても、その実物は雲泥の差があるものになることは明である。この条件を縁といい、正しくは増上縁と名づける。すべてのものは因のみで果を得ることはなく、必ず縁を俟って得るのである。」
(328頁)
と述べ、慧遠は、自業を因とし、廻向功徳を縁として会通していると解説しています。

日蓮聖人の親子観。

弘安二年九月の『寂日房御書』に               
「父母となり其の子となるも必ず宿習なり、若し日蓮が法華経釈迦如来の御使ならば父母あに其の故なからんや、例せば妙荘厳王浄徳夫人浄蔵浄眼の如し、」(昭定1669頁)
とあるように、日蓮聖人は、親子の関係を結んだのは甚深の因縁あっての事と認識されていました。
そして、建治元年六月の『浄蓮房御書』
「父母の遺体は子の色心也。浄蓮上人の法華経を持ち給ふ御功徳は慈父の御力也。・・・此は又慈父也、子息也。浄蓮上人の所持の法華経いかでか彼の故聖霊の功徳とせなざるべき。」(昭定1078頁)とあり、日蓮聖人には親子には繋がった深い関係があり、子供の善行の功徳は親の功徳にもなると云う思想があります。
日蓮聖人は、法華誹謗の罪で地獄に堕ちた父親の烏龍が、子供の遺龍の法華題目書写の功徳により救われたと云う中国に伝わる法華霊験記をしばしば引用されています。その霊験記に「彼遺龍が手は烏龍が生める処の身分也。書ける文字は烏龍が書にてあるなり』と説給しかば、」(法蓮抄・昭定948頁)とあります。
こうした霊験談を通し、親子、先祖子孫の深いつながりが有り、子供、子孫の善行は親、先祖に影響を与えるものであると確信されていたのでしょう。
また、『法蓮抄』
「されば経文に云く『若し能く持つこと有るは即ち仏身を持つなり』等云云、天台の云く『稽首妙法蓮華経一帙八軸四七品六万九千三八四一一文文是真仏真仏説法利衆生』等と書かれて候。
之を以て之を案ずるに法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す此の文字の数は五百十字なり、一一の文字変じて日輪となり日輪変じて釈迦如来となり大光明を放って大地をつきとをし三悪道無間大城を照し乃至東西南北上方に向つては非想非非想へものぼりいかなる処にも過去聖霊のおはすらん処まで尋ね行き給いて彼の聖霊に語り給うらん、我をば誰とか思食す我は是れ汝が子息法蓮が毎朝誦する所の法華経の自我偈の文字なり、此の文字は汝が眼とならん耳とならん足とならん手とならんとこそねんごろに語らせ給うらめ、」

(昭定950頁)
また、
「自業自得果うらみがたかりし所に金色の仏一体無間地獄に出現して仮使遍法界断善諸衆生一聞法華経決定成菩提と云云、此の仏無間地獄に入り給いしかば大水を大火になげたるが如し、少し苦みやみぬる処に我合掌して仏に問い奉りて何なる仏ぞと申せば仏答えて我は是れ汝が子息遺竜が只今書くところの法華経の題目六十四字の内の妙の一字なりと言ふ、八巻の題目は八八六十四の仏六十四の満月と成り給へば無間地獄の大闇即大明となりし上無間地獄は当位即妙不改本位と申して常寂光の都と成りぬ、」(上野尼御前御返事・昭定1893頁)
また、
「しかるに法華経の題目をつねはとなへさせ給へば此の妙の文じ御つかひに変ぜさせ給い或は文殊師利菩薩或は普賢菩薩或は上行菩薩或は不軽菩薩等とならせ給うなり、譬えばちんしがかがみのとりのつねにつげしがごとく蘇武がめのきぬたのこえのきこえしがごとくさばせかいの事を冥途につげさせ給うらん、又妙の文字は花のこのみとなるがごとく半月の満月となるがごとく変じて仏とならせ給う文字なり。」(妙心尼御前御返事・昭定1747頁)
と教示されていますが、この教示は、『大乗起信論』に有る
「真如の内なる薫習力(因)と外からの縁とがかね具えられたならば、いわゆる、自分自身の内に真如の薫習力があり、また、外から諸仏・菩薩などの慈悲によて願護された場合には、人は生死の苦を厭う心をおこし、涅槃のあることを信じて、善根を修習するようになるのである。・・用薫習とは、人間に対して、外から仏や菩薩が働きかける縁のちからをいうのである。」(堀口東四郎氏・大乗起信論現代語釈読。117~118頁)
と云う、諸仏や菩薩の働き掛けが仏道修行に向かう強い縁になると云う思想や、また、菩薩が光を放って地獄の衆生を救う方法の一つの姿として「法華経」の序品に挙げてある「また菩薩の 林に処して光を放ち 地獄の苦を済(すく)ひ 仏道に入らしむるを見る」
との文や、また『大智度論』に有る
「答えて曰わく、是の菩薩は不可思議神通力を以てカナエ(大なべ)を破り、火を滅し、獄卒を禁制し、光を放ちて之を照らせば衆生の心楽しむ、乃ち為めに法を説くに、聞いて則ち受持す」(昭和新纂国訳大乗経大智度論4・123頁)
という、菩薩は地獄の衆生の為めに説法し救済するという思想が根拠になっている(繋がっている)のではないかと推測します。
至心の供養廻向を行ったことを知って、施主の意を憐れんで、施主に代わって、大菩薩が光を放って、教導してくれるのでしょう。

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