あるホームページに天台宗の圓信著『破日蓮義』を掲示してありました。
「破日蓮義」のお終いに「日蓮党は都て一言も会通に及ばず、舌を巻いて閉口し畢ぬ。」とあるので、日蓮宗門が反論できなかったのかな?と云う誤解を招きそうなので、「破日蓮義」に対する日蓮宗門側からの反論を紹介します。



 比叡山延暦寺沙門圓信の『破日蓮義』に於ける批判。

(圓信)難じて云く。
安楽行品に云く「他の好悪長短を説かざれ」と。日蓮党の常に諸宗を謗ずる事。豈に四安楽行の誡めに背くに非ずや。

(日憲)答て云く。
止観十に云く、「夫れ仏に両説有り。一には摂。二には析なり。安楽行品の如きは。長短を称せざれとは是れ摂の義」と。
仏法弘通の大綱は。析摂二門を出でず。譬ば文武二道を以て天下を治めるが如し。敵有るときは則ち甲冑を著け。敵無きときは則ち衣礼冠の行儀あり。仏法の析摂も又以て此の如し。謗法の怨有ん時は。他人の謬を談ず当宗の立行是れなり。
不信の敵無き時。他の非を云わず。安楽行品是れなり。其の上、天台伝教の他師の謬を破すは寧ぞ四安楽行に背かざるや。

(圓信)重ねて難じて云く。
汝等の立行は。安楽行品の外の事と意得べきか。既に仏説に非ず、誰ぞ一乗妙行と云うや。
凡そ四安楽行とは。法華修行の方軌なり。一切の行人、此の誡めに背くべからず。何ぞ此の外に謗法謗人の行儀有るべきや。不軽菩薩は、罵詈誹謗の四衆に対して身に礼拝を行じ口に二十四字を唱う。汝じ謗法の怨有らん時は。他人の謬を談じ申す事。豈に不軽の行相に背くに非らずや。
 止観の釈の事、他宗の釈を出し申すの條、甚だ其の謂れ無し。況や析伏摂受とは、車の両輪の如し。一を欠けば、利益を成すべからず。汝じが立行、析伏に限ると云う事、仏教の大綱に背くに非らずや。次に天台伝教の他師を破する事。上に記するが如し。

安楽行品に云く。
「又、諸余の法師を軽慢せざれ」と。
文句に云く。
「亦不軽慢とは不円に倚りて偏を蔑にし、実を重じて権を軽んぜざるなり」と。
記に云く
「不倚円等者。仏尚ほ異の方便及び余の法を以て、用て正道を助く。後学教に順ぜば、豈に固違すべきや。実を習らうも尚ほ微に偏小を蔑す。須く仏旨に順じて物機を将護すべし」と。
釈尊既に権小方便を以て一実の妙理を助顕す。後学の輩尤も如来の化儀に順ずべし。然る間、縦ひ法華を習学すとも、権小修行の法師を軽慢すべからずと云う経文、既に分明なり。日蓮党何ぞ文を見ざるや。汝は頗る盲目の者に同じなり。

(日憲)答て云く。
私に会すべき事これ無し。「不倚円蔑偏重実軽権」の文を、妙楽消釈して云く
「問う、仏世は機を観じ、物の苦に堕すを恐れ、先ず小を以て摂し、次に偏を以て引く。末代の弘法、豈に必ず然かならんや。答う。若し始行の者、具に今文の如く小をもって答えず。若し深位の人の始末、法を弘むに。必ず生滅等の三を以て方に、能く円頓を顕す。具には止観の如し。諸文は皆先に漸、後に頓」と。
此の如く釈せば、安楽行品の文は、偏に大師止観の立行なり。
又記に云く
「若し妙境及び円の十観を暁めば、方に此の中の十八観境を了す。若し、しからずんば、彼の止観の文乃ち徒設と成る。彼れ正しく安楽行人の観法に当るなり」と。
此の宗の立行は全く解行を携える。直に首題を唱うるは、此の旨、神力品の付属従り起るなり。四安楽行もて之を難ずべからず。

(圓信)重ねて難じて云く。
汝が党類は既に吾が宗独り如説修行の人と云う也。講経の筵毎に諸宗を謗じ畢ぬ。今日至る安楽行品は、大師止観の立行なり。我等が所用に非ずと申す事。誠に以て適時の陳答にして、比れ興の至極なり。既に安楽行品に依らざれば何を以てか如説修行と云うや。 
又当宗の立行は。神力品従り起り、直に首題を唱うると云う事如何。神力品に云く、
「当に此の経を広く説くべし」と。又云く、「応当に一心に受持読誦解説書写して如説の如く修行すべし」と。
只だ首題計り唱うべしと云う事。全く之を見ざる者なり。
又如説修行は豈に四安楽行を離れんや。安楽神力の両品の修行は各別なりと申す事。甚だ経文に背く者なり。
又法華経修行人は権小の学者を謗ずべしと云う事。神力品の何処に之れ説くや。

安楽行品に云く、
「亦仏道を学する者を軽詈し、其の長短を求むることなかれ。若し比丘比丘尼優婆塞優婆夷の声聞を求むる者、辟支仏を求むる者、菩薩の道を求むる者、之を悩まし其をして疑悔せしめて、其の人に語って汝等道を去ること甚だ遠し、終に一切種智を得ること能はじ。所以は何ん、汝は是れ放逸の人なり、道に於いて懈怠なるが故にと云うこと得ることなかれ」と。
此の文意は、縦い自ら法華を修行するとも、小乗を学ぶ者を謗じるは、汝じ法華を知らざる故に、一切種智成仏叶うべからずと云う事にして、都て之れ有るべからずと云うなり。
日蓮党諸宗を謗ずる事は、如来の既に誡める所なり。何ぞ之れ慎しまざらんや。

(日憲)答て云く。
しからば貴僧は何ぞ我宗を軽詈して一巻を製作するや。是れ豈に自讃毀他に非ずや。
惣じて安楽行品は摂受の修行にして初心の方軌なり。当時の悪世の方軌に非ざる故に、勧持品の説相の如く之を修行する者なり。爰を以て記の八に云く、
「持品は即ち是れ悪世の方軌にして、安楽行は是れ始行の方軌」と。何ぞ彼の品の文を以て此の宗を難ずるや。

(圓信)重難して云く。
汝じ講経の砌りに於いて、常に諸宗を謗ずる故、其の不審を決せん為め、一巻の疑問を学ぶ者なり。是れ全く自讃毀他の為に非ず。汝じが若し人法を謗ぜざれば、我れ何ぞ疑問を学せんや。疑問の由って来るは、汝じの謗法従り起る者なり。

なかんづく、「汝等道を去ること甚だ遠し。終に一切種智を得ること能わず」等の一段の文。未だ会通を聞かざれば、此の度分明に申すべきなり。 
又答て云く「安楽行品は初心始行の方軌なり。勧持品は当時悪世の方軌なり。当宗は勧持品に依るなり。安楽行品を以て之を難ずべからず」と云う事。
始行とは行人に約し、悪世とは時節に約せば、只だ是れ一具の弘通なり。全く各別の事に非ず。
勧持品の時、五百八千の声聞、悪世の弘経を厭い、他方の流通を欣う。
大師釈して云く、
「初心始行菩薩の未だ悪世に苦行して通経する能わざるを引かんが為め、復た安楽行品を開らかんと欲す」と。
勧持安楽の生起、汝じ何ぞ之れを見ざるや。安楽行品に云く
「於後悪世云何能説是経」と。
安楽行豈に悪世の方軌に非ずや。

安楽行品に云く、
「一切の法を観ずるに空なり。如実相なり。不顛倒せず等云云」。天台大師此の一段の文に約して十八空之れを釈す。
十八空とは、専ら大品経、大般若経、仁王経の諸説なり。
若し此の如き諸経、成仏の要に非らざれば、四安楽行の人、何ぞ般若経の諸説の十八空を観ずるや。
勧持品に云く、
「濁悪世の比丘。仏の方便随宜所説の法を知らず、悪口して顰蹙し」と。
二万八万の菩薩。如来の滅後に於いて、法華を弘むる時、更に異の方便を以て第一義を助顕するが故に、種々の因縁を説き、余の深法の中に於て、示教利喜せしむ故に、種種の喩を用う、是れ釈尊の方便随宜説法を其の本と為す故なり。
菩薩の滅後の弘経も亦此の如く、権小方便を説いて衆生の心を誘引するなり。
然るに無智の比丘有って、此の随宜方便を知らず、菩薩の所説を聞いて心に疑惑を懐き、或は誹謗し或は顰蹙する輩、之れ有るべしと云なり。
日蓮党法華講談に於いて、余経の法門を交えるべからずと云う事。既に是れ二万八万の菩薩等の斥う所の悪比丘なり。悲しむべし々々。

右已上の二箇條。日蓮党は都て一言も会通に及ばず、舌を巻いて閉口し畢ぬ。(原漢文)
(以上は、圓信の批判と日憲上人の答え)

円明日澄上人からの反論。

圓信の「破日蓮義」に対する批判書である円明日澄上人「日出台隠記 」(原漢文)よりの抜き書きを紹介します。

「会して云く」というのが比叡山延暦寺沙門圓信の「破日蓮義」に対する日澄上人の反論です。



(円信)
安楽行品に云く「不説他人好悪長短」と。日蓮党常に諸宗を謗ずる事、豈に四安楽行の誡を背くに非ずや。
(円明日澄師の反論)会して云く。
汝は既に数箇条に及び、他人の好悪長短を説く。此の文に背けば、余処に求めず。自縄自縛の難勢なり。
其の上、他宗の誤りを呵責するは此の文に背くとの難は、天台は南北を破し、伝教は六宗を破す、是れ等如何。
然るに此の文は摂受行を説くと云う事、処処の定判なり。

止十(大正137c)に云く
「安楽行の長短を称せざが如きは、是れ摂の義なり」と。
疏八(118c)に云く
「大経は偏に折伏を論じて一子地に住す、何ぞ曽て摂受無からん。此の経は偏に摂受を明かす。頭破七分は折伏無きに非ず」と。

此の品は豪勢を遠離すと説く、摂受の義なり。
然るに末法の今は専ら折伏を行ずべきの時なり。
涅槃疏に云く
「昔時平らかにして法弘まれば、応に戒を持つべくして、杖を持つことなし。今時、嶮にして法かくれば応に杖を持つべくして戒を持つこと勿(ナ)し。今昔倶に嶮ならば応に倶に杖を持つべし。今昔倶に平らかならば応に倶に戒を持つべし。取捨宣しきを得て一向にすべからず。」と。

邪智謗法充満の時機に向かわば「在於閑処修摂其心行」を修する事は時機を知らざる修行なり。

位に約せば、此の品は初心始行の人。観行五品の中の初随喜の位なり。
記の八(319a)に云く
「此れは是れ観行初心の則なり」と。
之に依れば、天台大師己心所行の摩訶止観の修行は此の品の行相に附くなり。
記の八(321a)に云く
「委(クワ)しく相状および離合を釈せば、具に止観第五の記の如し。若し妙境乃び円の十観を暁めば方に此の中の十八観境を了す。若ししからざれば彼の止観の文乃ち徒設となる。故に彼れ正しく安楽行人の観法に当たるなり。故に知んぬ、始行は須く彼の意に達して、方に弘経すべし」と。

彼れとは止観なり。今妙解に依って以て正行十境十乗の妙観を立つ。此の品の十八空観境を暁めば了知すべしと云うは、彼の正観章の観行即の位なり。

然るに末法の今の行者は尚を名字即にも及ばざる一毫未断の凡夫なり。安楽行品の如き修行は叶うべからざる事なり。

疏の八(120a)に云く
「十悩乱に遠ざかるは遠に即するがゆえに近を論ず。亦た是れ戒門に附して観を助く」と。
記の八(319b)に云く
「初門の如きは但だ是れ要に随って略して十を引く。戒未だ周(アマネ)からず。何となれば若し正しく円戒を立つるに須く梵網を指すべし。」と。

安楽行の人は梵網の如く戒行具足すべし。

末法灯明記を見るに云く
「末法の中、但だ言教のみ有っ行証無し。若し戒法有れば破戒有るべし。既に戒法無し、何の戒を破するに由りて而も破戒有らん。破戒尚ほ無し何に況や持戒をや。故に大集に云く『仏涅槃の後には無戒が州に満つ』と。」

又云く
「末法に唯だ名字の比丘のみ有り。設ひ末法の中に持戒の者有らんも既に是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ずべけん」と。

此の釈の如きは、梵網経の如く円戒具足すべしと云う安楽行品の行相は末法に蒙らしむるにあらず。

聞くに又云く
「其の名は同じと雖も而も時に異なり有り、時に随いて制し許す。是れ大聖の旨なり。故に世尊に於いて両判の失無し」と。

戒法の制許は時に随う故に、分別功徳品の滅後の五品は本門流通にして末法当時に蒙らしむ。故に初二三品には戒門を制するなり。

記の九(323c)に云く
「本迹二処の流通の意別にして本門流通は永く余部に異なる」と。此の意なり。
次に定恵に約して云えば、疏の八(120a)に云く
「其の心を修摂すとは、近に即するが故に近を論ず。亦是れ定門に附して観を助くるなり。
一切法空を観ずるは非遠非近に即して、近を論ず。亦是れ恵門に附して観を助く」と。

記の八(319b)に云く
「若し円の定恵に、須く十法成乗を須いて、具に諸境を辨ずるなり」と。

此の如き戒定慧の三学を整束して末法に法華を修行すべき事、末法極悪不善愚人は更に叶うべからず。後五百歳の当時、記の九に唯だ初心の初めを除く、解無き故にと判ず、三学悉く闕けると雖も但だ信を以て詮と為すなり。
又、順逆二門に約する時は、安楽行品は順縁なり。末法の今は逆縁化導にして不軽品の如くなり。

記の十に云く
「安楽行は始行の弘経の故に不軽と其の儀十別あり。彼は則ち順化を以ての故に軌儀を存し、此れ乃ち逆化を以ての故に恒迹を忘する」と。

末法の今は汝等邪智謗法の僧俗充満の時機の如し。故に安楽行品の如き軌儀を閣いて、不軽菩薩の如く罵詈打擲を顧りみず之を弘め逆縁を結ばしむるの時なり。何ぞ安楽行品を以て之を難ずるや。

記の十に云く
「彼は則ち難問する所有らば方に乃ち答えを為す、此れは瓦石を以て打擲すれど、猶を強いて之を宣ぶ」と。

此の釈を以て日蓮の弘通を見るに粗ぼ不軽菩薩と云わる。云云。
(或いは。粗ぼ不軽さる菩薩なり。云云。)
(「以此釈見日蓮弘通粗所不軽菩薩。云云」訓読?)

十九。
(円信)
勧持品に云く
「濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らず。悪口して顰蹙す」と。
二万八万の菩薩如来の滅後に於いて法華を弘む時、更に異の方便を以て第一義を助顕す。故に種々の因縁を説く、余の深法の中に於いて示教利喜す。故に種々の譬喩を用う。是れ釈尊の方便随宜の説法を其の本と為す。故に菩薩の滅後の弘経は是の如く権小方便を説き、衆生の心を誘引するなり。
然るに無智の比丘有って此の随宜方便を知らず、所説を聞いて心に疑惑を懐き、或いは誹謗し、或いは顰蹙する輩、之れ有るべしと文は云うなり。
日蓮党は法華講談に於いて余経の法門を交えるべからず と云う事、既に是れ二万の菩薩等の斥う所の悪比丘なり。悲しむべきなり。

(日澄)
会して云く、
此の文は八十万億那由佗の菩薩所説の偈なり。何ぞ二万八万の菩薩と云うや。尚ほ文の起尽に迷う。況や文の元意を知るべきや。
文意は汝等が如き濁世の悪比丘、如来の方便随宜所説を知らずして是れ真実との謂いを成じ、還って如説に此の経を弘むる人を、外道の論議をなすと説きて謗ずべしと云う文なり。

二十。
(円信)
安楽行品に云く
「一切の法を観ずるに空なり、如実相なり、顛倒せず等」と。
天台此の一段の文を十八空に約して之を釈するなり。十八空とは専ら大品経、仁王経、大般若経の所説なり。若し此の如き諸経、成仏の要に非らざれば四安楽行の人、何ぞ般若経所説の十八空を観ずるや。

(日澄)
会して云く。
記の八に云く
「又、此の十八空の名は大品に在り」矣。「十八空の名は大品経と同じと雖も其の義は大いに別なり。無量義経に云はく文辞一なりと雖も而も義は各おの異なる」と。
籤の二に云く
「今、一家の釈義は名は通じ義は別なり、蓋し是れ常談なり」と。

例せば止観第五に不可思議境を釈するとき、華厳経の心如工画師の文を引き、文句第九に本地二身を釈すとき、成論の二如来を引く」と。
今又、此の如し。十八空の名を借りる計りなり。名は大品に在りと云うは此の意なり。
無量義経に云く
「摩訶般若未顕真実」と。
何ぞ未顕真実経を以て成仏の要と定むるや。沙に金を混じ、石に玉を乱す者なり。

二十一。
(円信)
安楽行品に云く
「諸余の法師を軽慢せざれ」と。
文句に云く
「亦軽慢せざれとは、円に倚せて偏を蔑し、実を重んじて権を軽ろんぜざるなり。」と。
記に云く
「不倚円等とは、仏尚ほ異の方便及び余の法を以て用いて正道を助く。後学教えに順ぜば豈に固違すべけん。実を習うも尚ほ微かに偏小を蔑っす。仏旨に順じ物機を将護すべし。」と。
釈尊既に権小方便を以て一実の妙理を助顕す。後学の輩尤も如来の化儀に順ずべし。
然る間、縦い自ら法華を習学すとも、権小修行の法師を軽慢すべからずと云うは経文解釈に分明なり。日蓮党何ぞ之を見ざるや。

(日澄)
会して云く。
此の宗の意は諸余の法師を軽慢するには非ず。只だ謗法を呵責する計りなり。
是れ即ち法華・大経の説に依るなり。
次に、仏尚ほ異の方便を以てと云う事は、既に将護物機と云う、例せば、釈迦小を以て尚ほ之を将護すと云うが如し。此の品の行相は未だ法華を謗ぜざる機に対して之を用いる順縁の化導の故に此の如く釈するなり。
後五百歳の当時は諸人已に法華を謗ずる時なり、国なり。更に将護物機に及ぶべからず。故に而強毒之して逆縁を結ばしむるなり。
汝全く化導の時機を知らざるなり。
記の八に云く
「末代の弘法豈に必しも然かならんや。(末代弘法豈必然耶。)」と。

二十二。
(円信)
安楽行品に云く
「亦仏道を学する者を軽罵し、其の長短を求むること勿れ。若し比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の声聞を求むる者、辟支仏を求むる者・菩薩の道を求むる者、之を悩まし其れをして疑悔せしめて、其の人に語って汝等道を去ること甚だ遠し、終に一切種智を得ること能わじ。所以は何ん。汝は是れ放逸の人なり。道に於いて懈怠なるが故に」と。
此の文意は縦え自ら説の如く法華を修行すとも小乗の学者を謗ずる汝は法華を知らず。故に一切種智成仏は叶うべからずと云う事なり。都て之れ有らずと云うなり。
日蓮党の諸宗の人を謗ずる事は如来の既に誡める所なり。何ぞ之を慎まざらんや。

(日澄)
会して云く。
文意は、初心始行の人、機を知らざる故に、円行を以て三教の行人を呵すべからず。其の故は或いは退善根の義あるべし。或いは前に疑い後に悔し、大小倶に失するを云う。此等の過が有る故に呵責すべからずと誡むるなり。
此の『学仏道者』とは、小乗権教を仏説の如く之を修行し実経をしらず、又法華を謗ぜざる人々なり。此の人を能く将護して円に入らしむべしと云うなり。

然るに末法当時は諸宗の学者、仏道を学し三乗を求むに似ると雖も権に執する失有るの上、又実を謗ずるの罪を犯すなり。此の如き人は摂受門の時も折伏門の時も同じく之を呵責するなり。

然れば即ち天台妙楽、初心始行の位摂受の修行にして、南三北七の法蔵・澄観・嘉祥・慈恩等が一代の浅深勝劣を判ずる時、已に法華を謗ずる故に、一々之を呵責す。是れ即ち仏法中怨の誡に依るゆえなり。

当時天台宗小乗権教の行人大いに称揚讃歎す、斗(ニワ)かに之を呵責せず、還って破権門理の釈に任せ之を呵責す。此の宗大いに之を下す故に、遠く法華大経の説に背く。近くは天台妙楽の釈に違す。像法の時の摂受の行此の如し、況や末法の今、念仏真言禅天台等の諸宗、盛んに法華を謗ずる時、『亦勿軽罵』の文に任せて之を呵責せざれば『仏法中怨』の責めを蒙る故に、日蓮『我不愛身命』の経文に任せ、二十余年の間、身命を顧りみず諸宗の大謗法を呵責し身に刀剣の疵を蒙り、『及加刀杖者』の文に叶い、豆州佐州の両国に流罪せられ、『数々見擯出遠離於塔寺』の説に当たる。其の外、忍性道隆行敏等の諸宗の僧侶を始めとして、将軍家に讒奏し、『向国王大臣婆羅門居士及余比丘衆誹謗説我悪謂是邪見人説外道論議』の文に叶う。日蓮の出世無くば此等の経文は言有って実無き者のごとくなるべし。
(「日出台隠記 」以上)



天台宗圓信の「破日蓮義」に有る質問と同意趣の質問を真迢が

「既に(安楽行品の)文の中に『於末法中、末世法滅時』とも云へり。故に末法今時法華を弘通せん者は叶わぬまでも安楽行を学ぶべし。是れ正しく初心始行の弘経なり。勧持品の深位の弘経は末法の凡師に相応すべからず」

と投げかけて居ます。

それに対して日遵上人が「諌迷論」に、また、観妙日存上人が「金山抄」において反論しているので紹介します。


(以下「諌迷論」より引用)

安楽行品の説相を以て、総じて末法弘経の方軌なりと云う事、いわれなき義分なり。
経文の心をたずね見るに勧持品に於いて深位の菩薩の弘経の相、至って鄭重なり。
是れに因って文殊菩薩ふかく是れを歎じて、『是諸菩薩甚為難有敬順仏故発大誓願於後悪世』等と宣べて、深位の菩薩の発誓弘経の相、事すでに畢んぬ。
時に文殊、重ねて悪世法滅の時節に於いて、亦た初心始行の菩薩は、いかんが法華経を弘通すべしやと問いたまえり。

時に如来、文殊に対して答えたまわく『末世法滅の時に於いて初心始行の菩薩、法華を弘通せば摂受門に住して随力演説すべし』と有って、四安楽行の法規を説きたまえり。
是れ則ち、後心の菩薩は折伏の弘通、初心の菩薩は摂受門の伝法なり。
然るを安楽行品の摂受門を以て、総じて末法弘経の方規なりと治定する事、是れ真迢が一つの不可なり。

次に末法は本未有善の逆機なり。最も折伏門の弘経を以て毒鼓の縁をなし、下種益を盛んにし大機を建立すべし。何ぞ順機摂受の弘経を取って総じて末法弘通の格式とせんや。是れ真迢が二つの不可なり。

次に末法は五濁熾然にして、正法を弘通し順逆の二縁に逗ずること甚だ以て大切なり。
権者の所為は且く論ぜず、実行の初心の菩薩、耐えざるところなり。
深位の菩薩、和光同塵の徳を施し、いかにも権実の法門に達識して五濁の悩乱を恐れず、強いて一乗妙法の奥義を演暢すべし。しかるを初心始行の凡師を以て、末法弘経の師範に擬せんと云う是れ真迢が三つの不可なり。

譬えば強敵に向かう時は仁義血気知略の三徳をかねたる名将をえらんで大将に立つべきが如し。

問う、しからば安楽行品に末法弘経の方規を顕示したまうは只、教門一途の施設にして実に此の法軌を用て弘経する人なしと云うべしやいかん。

答う、しからず四安楽行の方規、何ぞ所用なきに、むなしく設けたまうべきや。
凡そ末法の弘経は五濁障重の時節なり。不軽菩薩の弘経は像法の時なるすら、尚を本未有善の機縁なれば而強毒之の逆化をなしたまえり。況や末世法滅の時に於いてをや。
最も深位の菩薩、強障を忍受し、折伏門の弘経を正意とし、逆機に対して来縁をなしたまうべし。
されば釈尊、末法の弘経をば尚を迹化深位の諸菩薩を簡去したまえり。況や実行初心の菩薩をや。

しかれども法華弘通の功徳広大なれば、始行初心の菩薩も我が器量に相応して、十悩乱を遠離し、山林幽谷に閑処して身口を慎み、門者あれば答し、随力演説の弘経、摂受門の説法あるべし。

故に安楽行品の方規むなしく施設したまうには非ず。さればとて末法正意の伝持とは心得べからず。只だ人に約する一義のみ、通総するには非ず。不軽の記に十義を以て不同を判じたまえり。学者往見したもうべし。(諌迷論四・57紙左~59紙左)

(諌迷論の引用終わり)


観妙日存上人の「金山抄」(1672年刊行)に於ける反論。

真迢側からの批判

禁義に云く「安楽行品の文に処々に末法と説き玉へり。諍ひなく末世今時は安楽摂受の弘通を用ゆべし。伝教の守護章に云く『正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是れ其の時なり。何を以てか知ることを得ん。安楽行に云く、末世法滅の時也』云々。
学者偏執を捨てて明らかに経釈を定規とせよ。末法に安楽行を用ゆべからずと云うは、釈尊伝教に敵対する者なり。

金山抄の反論

安楽行品の悪世末世の言は皆な像法の末を指す故に、意安楽の文に云く『また文殊師利、後の末世の法、滅っせんと欲する時に於いて』已上。又、云く『是の菩薩、後の末世の法、滅っせんと欲する時に於いて』已上。
末法後五百歳は白法隠没と説いて、正しく仏法滅尽の時にして、欲滅の時には非ず。
真迢何ぞ経の欲滅の言を見ずして、摂受末法にありと云うや(是れ一)

止観に四運を釈して云ひ、未念。欲念。念。念已と云へり。
欲念は現念已前なり。経に既に欲滅と云う。故に正しく末法の法滅已前なること明白なり。何ぞこれに迷うや(是れ二)

又、守護章に既に末法太だ近きに有りと釈せり。知んぬこれ末法法滅已前の滅っせんと欲するの時なり。何ぞ此の文に背くや(是れ三)

況や伝教の出世は末法已前なるをや(是れ四)

又、既に法華一乗の機今正しく是れ其の時と釈せり。機とは可発の義なり。可発とは、欲発にして正発にあらず。正発をば機と名づけず。既に伝教の時を指して可発と云う。あに経文の欲滅の言と符合せるにあらずや(是れ五)

故に四安楽行の摂受は、像法の弘通にして、末法の方軌に非らざること明々赫々たり。真迢、摂受を以て末法の軌とすること大いに仏祖の経釈に違す。釈尊伝教に敵対する者なり(是れ六)
具には第一巻三十八条のごとし。

(以上、金山抄巻第五。65左~67右)

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