什門の永昌院日受上人著

如実我此土安穏義

 

抑も神儒仏の三道は一も之を廃すべからず。然に但だ信の一を用い、之を以て主と為す。若し信の一無ければ則ち仁義礼智も徒に之れを行うのみ。神道仏道も亦復爾かなり。

而るに世澆季に及び、人皆主人公の信の一字を忘るるに至る。哀しいかな、今ま本門一部法華経の元意を用い、以て之れを弁明せば、

十界の諸法は則ち始めも無く終わりも無し。此れは是れ無始無終十界の体にして、妙理の徳は自ずから妙事の中に遍在せり。故に十界各十界を具す。又、所具の十界に於いても亦各十界を具す。是れ則ち宗祖自解仏乗の事の一念、事の三千の法門なり。

所以に宗祖の曰く「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こして妙法五字の袋の内に此の珠を裏み末代幼稚の頸に懸けるさしむと」文。

今の祖判に「頸に懸けるさしむ」と言うは、即ち信の一字を指す。信の一字は南無の二字なり。

小子知るべし、凡そ釈尊五十年の説法の如きは則ち種々の方便有り、以ての故に人多く廃仏の僻見を起こす。痛ましいかな夫れ本師釈尊、衆生種種の機感に応同し則ち種種の法を説く、曰く「虚虚」曰く「実実」曰く「虚にして実」曰く「実にして虚」なり。若し是の如くの四句分別を用いずんば、則ち諸道猶を教訓し難し、況んや神儒仏の三道に於いておや。知るべし、抑も心法とは活物の妙事なり。

事理一体に由るを以ての故に、衆生縁に随って種種の念を起こす、而も其の強きに牽かれて則ち衆生所具の十界の中の一界の念慮を起こし、以て善悪の業を作す。及び善悪の業に依て善悪の果報を得る。

小子、是の妙事の如きは衆生妄見の所知に非ずと雖も、実に是れ事理一体の妙事なり。将(は)た生仏不二妙事なり。故に或いは三悪道に堕し、或いは三善道に生じ、或いは三乗の果報を得、或いは無上道の果報を得、或いは十方の浄土に往生し、或いは霊山浄土に往生するなり。

問うて云はく「師向きに示す所の如きは、未だ嘗て我此土安穏の義に関せず、希くは之れを弁明せよ」。

之れを唯諾して曰く。

汝先ず之れを解了すべし。凡そ五行各々五行を具し、五臓各々五臓を具し、及び地水火風空識の六大の如く亦各々六大を具すなり。

又是の五行五臓六大の如きも亦悉く事にして各々五行五臓六大を具す。而るに六大の空は但だ事にして、直爾空理なるに非ず。夫れ行臓大の事は固より事理不二に由る故に隔礙事法の妄見の当体に各々能く行臓大の妙事を具す。

又た無念無想の心法も亦事法なり。而るに此の無念無想の心法は本来活物なる故に全く色身を具すること例せば無色界の衆生に色身を具し、及び中有の衆生の心識に全く色身を具するが如し。当に知るべし、亡魂の心識に本来色身を具するに由るを以ての故に、時に臨んで則ち色身の相を示現す。

今先ず爾前迹門所顕の我此土安穏の義を弁明せば、仁王般若経に云はく「裟婆を離れて別に浄土有るに非ず、若し別に浄土有りと謂はば是れ則ち外道の大有経の説なり(取意)」

法華方便品に云はく「諸法実相」と、又云はく「是法住法位世間相常住」と。

私に云はく「本来事理一体なり」と、本師釈尊偏に在世の所化修観の人の為めに則ち之れを施説する所、現事に即して全く是れ理土安穏の法門なるのみ。所以に釈尊大火所焼の時に至って則ち事理不二の理土に安住す、故に毫も火災水災風災の三有ること無し。

此れは是れ釈尊能証の智徳全く所証の理体に安住す。故に之れを指して以て我此土安穏と言う義なるのみ。然に衆生常に起こす所の貪欲瞋恚愚癡三毒に因って則ち火水風の三災を感得す、然りと雖も但だ釈尊に於いては理土に住在するに由るを以ての故に、之れを指して我此土安穏と名づけるなり。此れは是れ釈尊専ら修観解了の人の為めに設くる所の爾前迹門所顕の無明縁起の十界なり。是れ則ち天台大師自解仏乗の理本事迹の義にして爾前迹門本迹一致の法門なるものなり。

又た本門所顕宗祖自解仏乗の事の一念事の三千の我此土安穏とは則ち甚だ爾前迹門の理本事迹の義に超過せり。夫れ事理不二と雖も末代今時下根下機の人の為めに釈尊の大慈大悲之れを説き顕したまう所の仏界縁起の法門なり。

無始無終十界本来事理不二、生仏不二なり。所以に十界各々十界を具す。然に今は但だ釈尊を用い以て九界の衆生の主人公と為す。故に一切の凡夫知らず慮(おもん)ばからず釈尊所証の体内に住在せり。然りと雖も凡夫の身・口・意の三業悪縁の為めに牽かれて但だ徒に苦楽昇沈す。悲しいかな。以ての故に吾が本師釈尊偏に我等が為めに則ち極仏果上の慈智一体の仏法界縁起の法門を説き顕したまい、以て我等凡夫即身成仏の下種の法体を示したまう云々。

然に本師釈尊は大火所焼の時何れの処に在(いま)すや。答ふ今言う所の土とは必ず地土を指すに非ず、只是れ其の所居の土を指すのみ。謂はく我が本主は事理一体心法の妙事に在(い)ます。心法は活物の妙事にして其の当体が全く是れ事の一念事の三千題目の法体なる者なり。

小子問うて云はく「既に経に説いて我此土安穏と云う、何ぞ地土に非ずと言うや」

答へて云はく五百由旬の宝塔分明に天地の中間に住在す、故に之れを指して以て虚空会と名づくるなり。謂はく無色界無雲天無想天等の凡夫の諸天の如き、猶火水風の三災を免る。何に況んや釈尊の神力に於いておや。

問うて云はく「師向(さき)に凡夫の妄見を示すが如きは釈尊の体内に住すと雖も而も劫末の三災を免れずと、然に我等若し信力堅固ならば則ち霊山に往生して自行化他を成就するや」

答へて云はく釈尊神通力の大慈大悲の体内に往生して、即時に信力と仏力経力と一体と成り即身成仏す。当に知るべし此の三力一も闕(かく)れば則ち成仏すること能わず云々。

小子知るべし、朱子の学は之れを程子に受く、程子は源と学を周子い受け学ぶ、周子は源と太極の図説を祖印禅師に受けたり。以ての故に其の学巧みと雖も遂に理学に堕す。還って聖学の素意を失す云々。仏学も亦た爾し、謂はく先に小乗の教法を学ぶ者は之に泥著して以て執見を改めず。又た先に権大乗教法を学ぶ者は実大乗の法華経に移ること能わず。又た先に天台大師の判教を学ぶ者は迹門の執見を改むること能わず。所以に強いて宗祖本意を台祖適時の判教に同ず。ああ哀れむべし云々。

問う、「先に一部本門経の題目を信受する我等が如きは一部迹門法華経を信ぜず、則ち執見に堕するに非らずや。」

答へて云はく、我等が執見は忝くも釈尊之れを印可したまう所にして、全く其の罪過無き者なり。謂はく至誠心とは信の体にして主なり。印可決定心、無疑心、清浄心、随順心、無動天心は則ち信が徳用なり。当に知るべし、若し主体の信力を成就することを得れば、則ち自ずから其の徳用を得る。

解了無き者の如きは若し執着堅固の信力無くんば何を以てか成仏の功徳を成就するを得べけんや。

小子の云はく「但だ信力堅固にして解了無き者の如きも亦能く仏意に契うや。」

予答へて云はく、愚者聖教を習わずと雖も、その行蹟能く聖教の本意に契う人有れば則ち孔聖之れを讃めて、能く之れを学ぶ人と曰うが如く、世に論語を読むと雖も聖教に契わざる者有り。所以に他門の学者自我偈を読むと雖も我此土安穏の奥旨を知らざるの人有り云々。

小子知るべし、我等解了無しと雖も本具の内薫外薫不思議の因縁感応力に依て堅固の信力を成就す。謂はく内薫とは、我等本具の仏界を指す。外薫とは、我此土安穏の釈尊を指すなり。抑(そもそ)も無始已来我等本具の内薫の仏界有りと雖も、我等本具の九界の為めに隠覆せられ、本具の仏界薫発せんと欲するの力無し。然に一切の諸仏大慈大悲暫も衆生を捨てたまわず、内薫欲発の時を待ちたまう。所以に吾が本師釈尊の本願力常に我等内薫の未発、欲発、発、発已の四運心を照覧し、則ち大慈大悲我等が内薫欲薫の時に的当して、則ち生仏不二の因縁感応有って、而も生仏相い互いに自行化他の功徳を成就するなり。

知るべし、全く相互に一時に薫発し将た別時前後に薫習するに非ず。故に不思議因縁感応薫習の力と名づく云々。

小子、必ず此の解了の分斉を用い、以て之れを助行と為し、及び此の解了の方便を用い、之れを以て印可決定の信念口唱の正行を成就するに於いては則ち必ず即身成仏するなり。是れ則ち事の一念事の三千の我此土安穏の法門なり云々。

治病抄に云く「一念三千の観法に二有り、一には理、二には事なり。天台伝教等の御時は理なり、今時は事なり。観念既に勝るる故に大難又た色増さる。彼は迹門の一念三千此れは本門の一念三千なり。天地遙かに殊なり。殆ど御臨終の時迄、御心得有るべく候」(文)宗祖此の意を釈して云はく「慧又た堪えざれば信を以て慧に代ふ」と。

問う、観念と信念とは既に各別なり、何ぞ以信代慧と判じたまうや。

答へて云はく、縦ひ智恵有りとも若し信念無くんば則ち即身成仏を得べからず。然に但だ信念の功徳の当体に於いて全く修し難き観念の功徳を備えたり。故に直爾に信念の当体を指して以て観念と判じたまう云々。故に若し印可決定の信力を成就すれば則ち必ず妙法経力するを得るなり。当に知るべし、祖書に我此土安穏の文を判じて曰く「今本時の娑婆世界は火水風の三災を離れ成住壊空の四劫を出でたる常住の浄土なり、仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以て同体なり。此れ即ち我等己心の三千具足三種の世間なり。迹門十四品に未だ之れを説きたまはず、法華経に内に於いても時機未熟の故か。此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於いては仏猶文殊薬王等に之れを付属したまはず。何に況んや已下に於いておや、但だ地涌上行等を召して八品を説いて之れを付属したまう(取意)」と。

今の祖判に謂う所の「本時の娑婆」とは但だ真との一念三千の我此土安穏の文を指す。「所化以て同体」とは但だ宗祖の弟子旦那等を指す。是れ則ち釈尊同体の我等法華の題目を信念するの所住の処は全く是れ我此土安穏の義なり。

其の修行の如きは則ち近にして易なり、易にして勝なり、勝にして要なり。以ての故に全く真との一念三千の観念の功徳を備えたり。故に宗祖の曰く「爾前迹門は真との一念三千も顕れず(取意)」と。

宗祖之れを決判して曰く「爾前迹門にして猶生死離れ難し、寿量品に至って必ず生死を離るべし(文)」と。

問うて云はく、「一切衆生皆な悉く仏界を具す、何が故に無始已来成仏不成仏の二類有りや。又成仏の一類に於いて成仏の遅速の二類有りや。」

答へて云はく、無始已来の衆生の元品の無明煩悩に於いて厚薄の二類有り、又其の厚薄の無明に於いて各々無量無辺の無明有り。而して各々無量無辺の無明を具す。故に八万四千の煩悩の如きも又各々無量無辺の煩悩を具す。而して各々無量無辺の煩悩を具す。言語道断心行所滅なり。

問うて云はく「無始已来の衆生、向後漸漸に成仏せば則ち仏界一人増益し衆生一人減少す、是の如く漸々に増減せば則ち恐らくは衆生界は皆な悉く断滅して但だ仏法界のみ有りや。」

答へて云はく、凡そ十法界の惣体の如きは則ち無量無辺の世間出世間なり、実に是れ辺際有ること無し。故に無辺際にして不可思議なり。所以に十法界惣体の大数断滅するの道理有ること無し云々。若し増減を計する者は只是れ衆生妄見なる者なり。又如来如実の知見の如くば則ち明らかに滅相に即して全く滅の相有ること無し、将た増相に即して全く増するの相有ること無しと照覧したまう。

小子知るべし、無始無終の十法界なれば世間、出世間、無辺際なり。以ての故に虚空も亦た辺際無し。所以に釈尊大火所焼の時に於いても亦た虚空の中に安住したまう。若し火水風の三災の如きは分限有りと雖も虚空に於いて全く分限無し。故に此の一世界娑婆の虚空は全く是れ十方無辺際虚空にして全く是れ此の一世界娑婆虚空なり。以ての故に一大虚空の惣体なるものなり。

当に知るべし、此の虚空の一大に尽十方界の六大を具す。是れ則ち事の一念事の三千の我此土安穏の世界なり。宗祖既に「仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以て同体なり」と判じたまう。而して迷情の凡夫の如きは釈尊体内に住在すと雖も、未だ曽て内薫の仏界所具の菩提心を起こさず。以ての故に衆生六道に流転し苦楽昇沈す。然に我等忝くも過去の因縁に酬(むくい)て、今生に菩提心を起こす。菩提心とは経にに云はく「質直柔軟一心欲見仏」と。是れ則ち上求菩提下化衆生の願力なり。此の願力に依て即ち安穏の国に往生して成仏の素懐を遂ぐるなり。

問うて云はく、「何の因縁に依て今日此の妙法を信念するや」

答へて云はく、無始已来の諸仏及び釈尊毎自作是念大慈大悲常に衆生をして苦を抜き楽を与えしめんと欲す。是れ則ち無始本具の外縁薫なり。又我等も無始已来常に苦を厭い楽を欣(よろこ)ぶ。是れ則ち無始本具の内因薫なり。然りと雖も我等衆生無始本具の九界の妄念の為めに隠覆せられ則ち無始本具の仏界の本心を起こすこと能わず。故に之れを生仏不二事理一体の性德の事の一念事の三千の法門と号す。

小子しるべし、諸仏も衆生も各々一心に三千の諸法を具す。而して所具の三千の諸法全く横に並んで之れを具するに非ず、将た竪に積んで之れを具するに非ず、又復た袋の内に砂を納むる如くなるに非ず。然に因縁有るが故に之れを感じ之に応ず。本具の感応に由るを以ての故に、感に非ずして感じ、応に非ずして応ず。一輪も降らず万水も昇らずして昇り降るが如し。之れを名づけて則ち不思議の因縁感応と為す。当に知るべし、月水無ければ則ち月も降らず、月無ければ則ち水も昇らず、衆生機無ければ則ち諸仏も来たらず、衆生機有れども無仏世には冥益なり。是れ則ち諸仏の出世は顕益なり。末法今世は冥益なるなり云々。

両益倶に縦え解了有れども、若し信念無くんば則ち諸仏の加被力を蒙ること能わず。金器水も若し濁れば則ち月影も水に浮かぶこと能わず。縦ひ解了無けれども若し信力有れば則ち必ず諸仏の加被力を蒙ることを得るが如し。

此れは是れ尿器の水も若し澄みぬれば則ち必ず月影も明白に水に移るが如し。

当に知るべし、末法今時の通機は全く解了の器に非ず、然に若し専ら解了を用い、以て博く渉り深く鑿(うが)ち還って疑慮を生じ則ち甚だ信力を妨ぐるの大患なるなり。

小子問うて云はく「我等少し文字を解す故に愚夫愚婦の如くには非ず。若し分斉の解了を仮らざれば、何を以てか信力を生ずるを得んや」

答へて云はく、汝が言う所の如きは則ち是れ最も爾かなり。然に釈尊既に今時唯信無解の我等が為めに、但だ易行の五字を用い以て上行等に付属したまふ。凡そ今時博識解了の上人の如きも、猶信智一体と成ること能わず。況んや我等が如きの人に於いておや。唯だ願わくは且く分斉の解了を用い、以て助行と為し専ら正行を助け、速やかに信力を助け、之れを以て偏に至誠心に止まるの一途に在るのみ。知るべし此の妙経に就いて即ち広略要の三有り。祖書に云はく「廣の一部を捨てて略の要品を取る。略の要品を捨てて但だ肝要の五字を取る(取意)」と。故に以て之れを正行と為す。

又祖書に云はく「此の南無妙法蓮華経に余事を交えるは、ゆゆしき僻事なり。日出でぬれば灯び詮無し。雨ふるに露何の詮かあるべき。嬰児に乳より外の物を養うべきか。良薬に又薬を加うる事なし」と。

此の祖判の意は、小しく文字を知る人専ら一部及び要品を読誦し則ち自ら之れを誇耀し、己に如かざるの人を軽んじ、只だ初心の信力を妨げるのみに非ず、還って又自己が正行の信力を妨げる罪を招くこと有らんことを恐慮したまい、所以に之れを決判して曰く「今末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し、但だ南無妙法蓮華経なるべし」と。

問うて云はく、「爾前経の如きは則ち無得道の故に余経詮無しと判ずべし。何が故に一部本門経を以て法華経詮無しと判ずるや」

答へて云はく、一部本門経に文義意の三を具す。然に其の文義は専ら在世滅後修観解了の人の為めに則ち施設する所の法門なり。而るに今時解了無き人の為めに則ち文義の一部及び要品を用いず、但だ直ちに経意の題目を用い以て之れを成仏の下種の法体と為す。所謂る経意は只是れ釈尊の仏心印なり。故に此の仏心印の題目の中従り文義の一部及び要品を開出し還って此の題目の体内に会入す。所以に専ら読誦を用い以て本意と為すべからず。故に常不軽品に云はく「読誦経典を専らにせず」と。此れは是れ経意を以て正意と為し、文義を以て傍意と為(する)の故なり。

問う、「神力品の所説の如きは謂く若しは経巻所住の処、若しは寺院若しは僧坊若しは在家若しは山谷広野にても、是の中に皆応に塔を起てて供養すべし。所以は何、当に知るべし是の処は即ち是れ道場なり。諸仏処に於いて三菩提を得(取意)」と。

此の経文の如くば今時法華経を持つの人、所住の処は常寂光土なり。故に我等必ず我此土安穏の霊鷲山を用ふべしと謂うには非ず。以て所期の土と為す。云何」

答へて云はく、末法の初めに於いて後の五百歳の始め希に上根上機宿習開発本已有善の人有るに、或いは現在に即身成仏し或いは命終の時に臨んで即身成仏す。而るに此の二類に於いて各々修観の成仏と解了の成仏と有り。此れは是れ台祖所弘の理の一念三千所被の機類なり。然るに今時下根下機本未有善及び宿習開発に非らざる我等唯信無解の本因妙の行者は只是れ信力の功徳に依て命終の時に至って即ち霊山浄土に往生し正しく修顕得体の成仏の本懐を遂ぐる、是れ則ち全く釈尊と我等と一体の事の一念事の三千の我此土安穏の妙事の徳を顕す云々。

問うて云はく、「夫れ自我偈の文の如くば則ち遙かに天竺の霊山の虚空会を指して以て我此土安穏と説く。然に神力品の如くは則ち直ちに我等眼前の所住の処を指して、以て即是道場と説く義なり。何が故に両品の所説に異義有るや」

答へて云はく、抑も釈尊仏心印の 我此土安穏の法門の如くば全く是れ我等本具の我此土安穏にして既に生仏不二、以ての故に但だ釈尊の一体を挙げれば則ち我等が当体全く釈尊の体内に在り、故に更に我等無し。若し但だ我等が一体を挙げれば則ち釈尊の当体全く我等が体内に在り、故に更に釈尊無し。是れ則ち生仏一体の法門なり。然りと雖も若し迷悟及び自他に約して以て之れを分別せば、専ら衆生を用い以て之れを自と為し、之れを迷と為し、自迷に望めて則ち仏身を以て之れを悟と為し、将た悟を以て之れを他と為す。

当に知るべし、仏は只だ是れ他にして全く自に非ず、将た他は只だ是れ悟にして全く迷に非ず。以ての故に自迷と他悟と大いに差別なり。此れは是れ生仏一体の重に於いて則ち差別を弁ず。以ての故に不二にして二、常同にして常差別なり。差融自在の事の一念事の三千及び我此土安穏の妙事の法門なり。

小子知るべし、若し在世解了の人の如きは則ち親り寿量品所顕の生仏一体事理一体の妙理を聴聞し専ら直ちに事理一体の妙理を解了し以て生仏一体事理一体の自力の一途に励む。然に今時無解唯信の我等の如きは僅かに生仏一体事理一体の妙事を聞いて、専ら一向に生仏一体の而二を信念して但だ生仏一体の而二の釈尊の他力の本願を頼む一途に在り。

小子問うて云はく「常に師、我が釈迦牟尼仏我が為めに之れを説きたまう大慈大悲の本願力の南無妙法蓮華経と口熟するを聞く。而るに凡そ経文は明白に一切衆生の為めに之れを説きたまうと在り。何が故に、師は但だ我が為めに則ち之れを説きたまうと口熟するや」

答へて云はく、汝じ予が口熟する所則ち偏屈の見と計するか。若し爾らば汝が見は反って偏屈に堕つ。今は謂はく釈尊一切衆生の為め之れを説きたまふは是れ則ち但だ我が為めに之れを説きたまふ所なり。而るに但だ我が為めに之れを説きたまふ、是れ則ち一切衆生の為めに之れを説きたまふ所なり。知るべし釈尊の大慈大悲は一味平等融通無礙なりと雖も不思議の因縁感応に依て則ち一切衆生各々大慈大悲の本願鑑機三昧力を蒙る故に其の因縁各々別々なり。是れ則ち常平等にして常差別なり。豈に但だ我が為めに之れを説きたまふに非らずや。而るに常差別にして常平等なり、豈に一切衆生の為めに説きたまう所に非らずや。当に知るべし、二にして不二、不二にして二、差融自在不思議の因縁感応の妙事の法門なり。

小子予文法を学ばず、固より文字に乏し。況んや耄にして言う所も亦分明ならず。汝じ文法及び文字に拘(かか)わって則ち文義の之(ゆ)く所の素意を害する莫(なか)れ。夫れ此の書の所詮は但だ如実本国土妙義、将た如実事寂光義に在り。故に此の書を名づけて以て如実我此土安穏義と題す。知るべし、詩経を引用するに就いて則ち断章取義及び取意、将た随義転用等の古例有り。況んや我が仏家に於いておや。又孔聖等の内鑑冷然の辺をや云々。

追加

問うて云はく、「本来事理一体なり、何が故に台祖事理を分対して以て理本事迹と判じたまふや」

答へて云はく解了可発の凡夫の機感多く理は是れ常住なるべし事は是れ無常なるべしと計す。所以に釈尊専ら此の機感の為めに則ち先ず方便を設け以て理常住を説いて而して事常住を解えしめんと欲す。故に直爾に事理一体を説かず。故に「是法住法位世間相常住」と説きたまう。文句に云はく「是法住の一行は理一を頌(じゅ)す」と。当に知るべし、事常住の徳用は全く理常住の妙体に在るのみ。古書に云はく「権門に附傍して以て迷情凡夫の為めに則ち之れを説きたまう云々」と。御義口伝下に云はく「世間相常と説くと雖も事常住に非ず(略抄)」と。十法界抄に云はく「迹門所談は無始本仏を知らず。又無始色心常住の義無し。又未来常住にして過去常に非ず」と。(已上)

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