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問答に参加した日珖師の「安土問答記」資料として紹介します。
安土問答記
人皇百六代正親町院御宇天正四丙子時、将軍織田信長公城郭を江州安土に築く。同七年巳卯春、同所西郷浄土宗正福寺住僧霊誉玉念、原上州小島哀愍寺開基なり。当時安土の繁栄に依て来たって此の寺に転住す。彼岸修正会を開き、一七日の間、四衆を集め講談す。侫弁を振るい邪義を陳ぶ。以て吾が宗を誹謗す、然に浄土宗の俗輩、之れを一箇の学匠と称え、帰依尊敬す。敢えて其の非義を咎むる者無し。
時に蒲生郡平木村浄土宗光明寺住僧某、大脇伝内、建部紹智二人に依て、異体同心、日夜修行怠慢無し、之れを聞いて直ちに正福寺に詣で、将に駁する所有らんとす。時に玉念講座に在って口を極めて我が宗を謗り、忽ち手に一書を捧げ、高声にに之れを読んで曰く、平等覚経に曰く、阿の字は十方三世仏、弥の字は一切諸菩薩、陀の字は八万諸聖教。皆な是れ阿弥陀仏の故なり、往生成仏の肝要は唯だ阿弥陀の三字に止まる。故に釈迦大日皆な無益なり。日蓮宗の生盲、之れを見れば則ち驚愕し目を醒まさん。
其の時、普伝等皆な扼腕切歯し黙聴するに忍ばず、乃ち前に竝び之れを詰問して曰く、其の文、則ち汝が宗の口実にして、此れ嘗て七箇不通の責めを蒙るに非らずや、奸僧了誉の二蔵義に始めて之れを編録す、其れ偽経なること必なり。或いは秘密神呪経に在りと種々に曲会す、而れども終に面目を失い遁れざるなり。汝じ三蔵の目次に漏れ、大蔵の名目に列ねざる者を以て衆人を誑惑(きょうわく)すること尤も奇怪なり。未だ汝じが宗祖法然等嘗て之れを引いて拠と為すを聞かず。是れ後人の妄作なること疑い無し。真実仏説の如くんば、則ち我等三人是の座に在って、応に速やかに改宗し弟子の列に就くべし。速やかに現証を示すべし、猶予有ること勿れ。
玉念乃ち閉口し赤面す。是に於いて満座の聴衆皆な疑念を作す。三人又た詰めて曰く、汝じ尚自宗の書に昏し、何ぞ他宗を謗ずるや。乃ち、仏祖報恩と為て其の法衣を剥奪せん。斉しく起き之に迫る。聴衆哀れみを求む、饒(ゆる)して之れを恕し、忿りを懐いて去る。玉念深く之れを啣(かこ)ち、且つ謂わく俗士の為めに挫辱さる、徒に黙止しては則ち宗風の競わざる所なり。鬱悒(うつゆう)日に渉って所措を知らず。乃ち西光寺住僧聖誉貞安に及び、之れを謀る。貞安は素と武士某の子なり。城中の諸士と多く旧交す。中ん就く菅谷九右衛門と最も親し。因って菅谷に誂(あつら)え、信長公に請い、公場に在って吾が宗を挫伏し、以て前日の恥辱を雪がんとす。信長公素と吾が宗に宿憾(しゅくかん)有り。是れを以て速やかに之れを可(ゆる)す。
同年五月二十七日同郡慈恩寺村浄厳院に於いて両宗対論場を開く。浄土宗は則ち貞安、玉念、助念、東故の四人なり。
我が宗は則ち信長公の特旨として予を命ず。乃ち五月二十五日早朝、使者安土より来たり特命を告ぐ、辞し難ければ則ち安土に至る。
其の時、同行は妙覚寺常光院、経操は妙満寺久遠院、記録者は妙顕寺法音院の四人なり。
問答判者は南禅寺秀長老、信長名代織田兵衛尉平信澄、法論奉行菅谷九右衛門、堀久太郎、長谷川阿竹にして、各威儀厳然なり。
時二十七日辰の刻なり。
浄土宗貞安問うて曰く、法華八軸の中に念仏有りや。
法華宗常光院答へて曰く、之れ有り。
貞安曰く、無間に堕ちる念仏を何ぞ法華に説くや。
常光曰く、汝が宗の念仏、無間に堕ちること治定か。貞安閉口。
常光重ねて曰く、浄土門の弥陀は法華の弥陀と一仏か、別仏か。
貞安答へて曰く、念仏は那(なに)の経中に在っても悉く一仏と説くなり。
常光曰く、汝じ師敵対なり。祖師法然の曰く捨閉閣抛と、法華の弥陀捨つるは如何。
貞安答へて曰く、捨閉閣抛とは法華の弥陀を捨てるに非ず、念仏を修する機の前には外の余法を捨閉閣抛と謂うなり。
常光曰く、機の前には法華を捨てるとの証文如何。
貞安曰く、法華を捨てる証文之れ有り。浄土所依の三部経に曰く、善く方便を立て三乗を顕示す。一向に専ら無量寿仏を念ず。
常光曰く、汝じが依経は方便無得道の文なり。法華を捨てる証文になるべからず。貞安閉口。
常光重ねて曰く、無量義経に曰く、四十余年未顕真実と云々。善く斯の文を視よ。汝が宗其の他の諸宗の依経は悉く皆な無得道にして成仏を得ること能わざるの経なりと云う証文のみ。
貞安曰く、若し四十余年を以て他経は皆な無得道と言うは、則ち方座第四の妙の一字を捨てるか。
常光曰く、方座第四の妙とは、法華本迹二十妙に非ず。法華二十妙の外は麁法に攝属なれば則ち悉く皆な之れを捨てる。故に経に曰く、正直に方便を捨て但だ無上道を説くと云々。汝じが宗お三部経も亦た四十余年間の所説なれば則ち捨てると云う仏の金言已に治定す。早く無得道の三部経を捨て法華真道に帰入すべし。貞安閉口。
此の問答を為すも深重の法門に係わらざる故に、予は常光院に委任しおて、一語を発するに及ばず。然るに貞安三たび閉口す。因って奉行の下知を待つ。然に判者奉行皆な其の優劣を断決せず。蓋し信長公の私意に出るなり。
時に普伝等三人群衆の中に在り、問答の始終を聞き、貞安の閉口を視て、而も判者奉行の私意を挟むるを察し、奮起突進して貞安に向かい、詰責して曰く、汝じ閉口三たびに及ぶ、蓋(なん)ぞ約の如く速やかに法衣を脱がざる。
貞安曰く、汝は問答の対伴に非ず、と之れを擲(な)げるに柄香炉を以てし、入らんとす。普伝走り之に従って曰く、汝何ぞ遁去するや、乃ち衣袖を牽き、席に復せしむ。其の時、満座大噪(おおさわぎ)す。
是に於いて奉行菅谷九右衛門高声に大呼して曰く、静黙々々、今日の問答は日蓮宗の負けなりと。
茲(ここ)に浄門の信心の徒、貞安閉口に因って大いに面目を失い切歯握汗し、吾が宗の輩は喜色面に溢れしが、忽ち菅谷の一言を聞いて、勝負当を失い、則ち又た騒動なり。
予密かに想う。織田公吾が宗に含むところ有る故、此の紛紜を致す。此の時に於いて宗義を主張すと雖も安(いずくん)ぞ弁白することを得ん。時を待つにしかず。乃ち京都に還る。然に普伝等忿々禁ぜず、尚訴を奉行判者に届け、其れ私有るを疑い強く其の理非を詰め糺さんと欲す。信澄及び奉行大いに之れを憤り、則ち普伝等三人を捕らえ、信長公の旨を得て之れを死罪に処し、又た其の席上の沙弥輩を捕らえ、法衣を剥奪し、刀を抜き、之れを劫(おびや)かし、以て十六本山の誓紙を要求し、皆な花押を代署せしむ。且つ将軍名代を恐れず一座騒動せしむは普伝等の所為と論じ、乃ち我が宗の宣教を禁ず。
寔(まこと)に、浮雲の皎月を翳(か)ざすが如し。嗚呼(ああ)時なるかな。何(いつ)の日復た大光普照を覩ん。
時天正七年巳卯六月 仏心日珖略記畢る
(原漢文)
(大日本仏教第97・宗論叢書第一・127~129頁)
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