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「全日本仏教全書・第97宗論叢書第一」収録の「於江州安土法華宗与浄土宗問答略記」を紹介します。

(問答に立ち会った久遠院日淵の語りを弟子の日允師が筆記)
於江州安土法華宗輿浄土宗問答略記

天正七年己卯五月廿五日早晨。江州安土善行院同宿し京都に来る。其の故は、長谷川於竹。菅谷久右衛門。堀久太郎。右三人、信長の命を奉り、「京都法華宗学僧等、早々安土に来たり、浄土宗と法義問答致すべし。聞こし召さるべし」と云々。追い々飛脚到来し、「片時も遅れければ、上意あしかるべし」と云々。然る問、頂妙寺日珖の室に、七八人相い寄り、少の間談話すと雖も、所詮上意の上は、居ながら兎角の談話益なし、遅参いかがなれば、先ず安土に到り、其の様子も聞べしとて、同日巳の刻皆な発行し、亥の刻に安土に到る。是の日大雨にて車軸を降らす如く、路次の困難言うべからず。各宿所を異にして、相談することを得ざらしむ。翌廿六日早晨、善行院に会し、先づ上意の御礼然るべしとて、御奏者以下に馳走すれども、兼ねて子細ある間、承引の方これなし。種々の才覚にて、御礼申すべき旨定まる処、午の刻になりぬ。時に奉行衆の使者来たって云く「普伝と久遠院と早々罷り出るべし、仰せ付けらる旨あり」と云々。是非に及ばず罷り出でぬ。妙顕寺の法音院、妙覚寺の円大房、右の両僧続いて来儀す。町屋に呼び入れぬ。暫くありて御奉行衆三人来臨有って、御使と云って、明廿七日、問答仰せ付らる。然れば罷り下る所の法華宗の寺々、住持竝びに代僧連判いたし、問答負け申すに於ては、京都竝びに御分國中の寺々破却あるべき由、一札をいたし、其の上にて問答仕るべし、去り乍ら其れはあまり迷惑と存ぜば、此のままにて罷り帰るべきか、一途の御返事申しあぐべしと云々。其の時に久遠院申さく、普伝と拙僧と罷り出づべきの旨、御使い候間、先づ罷り出ては御坐あれども、一大事の御返事の義で御坐ある間、老僧共宿にある事にて侯間、御意の旨を申し聞け、御返事申し上げ度く候と云々。時に奉行衆尤の由ありて、然らば先づ宿まで御帰りあるべし云々。早々僧衆を此の處まで、よび寄せて、御返事申すべしと云々。奉行衆は御帰りあり、即ち使者を以て、頂妙寺日珖へ入来有るべきの由申し候處、少し程ありて奉行衆よりは、両度迄使ありて、何とておそきぞ、浄土宗よりは、頓いで一途の御返事あり、法華宗よりおそきなりと、てきめを使うなり。三度に及ぶとき、久遠院申さく、然らば先に申する、今度是れ迄、法華宗罷り越す事は、上意として早々罷り下る可しの由、仰せ出され候旨、京都へ申し来たる候間、遅参如何と存じ、取り敢ず少々罷り下る間、問答の儀は兎も角、上意次第にて御坐候。此の方より一途の段申し上ぐる儀、迷惑に存じ候間、如何様にも上意次第と申す由、頼み奉り候云々。使者三人請け取り出られぬ。
時に日珖入り来せられぬ。即ち此の由を語る処に、尤に候いぬ云々。時に奉行衆より使い来たって云く、各申され候唯今の御返事の分は、上聞に達し難く候、其の故は、上意は一途の返事申し上ぐべき由に候処に両様を兼ねて、御意次第と申される処、上意叶い難く候間、所詮問答致すべきとか。
又た問答迷惑の間、得仕り間敷きとか、一途申し上げ候へと云々。時に久遠院。法音院申す様、最前申し上げ候が如く、上意を恐れ参り申す事に候間、何と成りとも御意に応ずる事にて候。御取り合せ頼み奉る由申し候き。使者’申され様は、同前の儀は我等御使申し難し、爾らば三人の前へ御出で有って、直に仰せられよと云々。此の上は迷惑ながら参じて申すべしとて、法音院。久遠院。奉行衆の使者と同道いたし、佐久間八右衛門宿所にて、奉行衆に対面し、御使へ申し入れる如く申しき。
時に奉行衆、右の旨申し上ぐべしとて、僧衆は還りぬ。皆々善行院へ帰り居りぬ。日既に申の刻に成りぬ。時に奉行衆より使者来る。廿七日早天より問答仕るべしの由、仰せ出され畢んと云々。其の後問答の役者、取り沙汰重々あり候ヘども、日珖門流多く候故に、悉く皆な頭取なれば、彼の義に落着す。先づ第一問答者は常光院日
諦然るべしと云々。久遠院、日珖に対し密々に日諦の義を重々に申す処、日珖我れに任せよと重々申さる。時に久遠院が云う、問答は人々得方あるべし、人の問を待って答を用んとするもあり、叉た先ど問を出して勝を取る人もあるべし、日諦は何れが御すきなるやと云う。珖云わく、諦は人に問われて答うるが得物なりと云々。淵云わく、さらば心易し、明日は我等は側にて肝を煎るに及ばず、其の上御問答者は、常光院なれば、其の外は有るも無きも同じ事なれども、罷り出よ兎も角もと云々。次に問答の法度書の事、取沙汰に付いて、普伝三ケ條申され候へども、珖同心之れ無く、五ケ條書‘之を書き、奉行衆迄で内縁ありて進じ候へども、返事も之れ無し。普伝は近日帰伏の人の由に候間、問答の人数に然るべからずの由、珖申され候。其れに就き勝劣門流、内議談合候て、使者を以て、珖へ重々夜半に及ぶ迄、申され候へども、珖同心なく、常光院に定め畢んぬ。然らば常光院。久遠院。頂妙寺。記録者は法音院と云々。種々評議これあれども之を略す。
廿七日辰の刻に浄厳院へ罷り出ず。
仏殿は南向きなり、内陣の東の方に浄土宗参着す、外陣畳二十畳計しきぬ。法華宗は此の処に着座す。稍暫く有って南禅寺秀長老入来、判者として仰せ付けらる、此れも外陣着座す。次に奉行衆、仏殿の前の芝迄来たり、使いを以て申され様は、浄土宗にも問答者両人、同宿一人宛なり、法華宗には役者四人の由に候間、其の外の僧俗共に一人も無用と堅く申し付けるべしとて、僧俗共に悉く仏殿の縁より下へ打ち落とし引き立てられぬ。普伝も亦た聴聞とて仏前に着座ありつれども、追い立て但だ役者四人計り留めぬ。
浄土宗の方は僧俗とも、のけられたれども、或いは局に入れ隠しぬ。
浄土宗も長老両人、同宿一人、記録者一人、以上四人外陣へ出られ、西方には法華宗なり。東方には浄土宗なり、其の外は外陣の縁、芝の上迄、奉行衆人数、皆々法華宗の方を
取り巻き、長道具にて凡そ二三千もあるかと覚えたりき。雑人は幾千万と云う数を知らず候いき、法華宗の體は、籠の内の鳥と見へたり。其の後暫くありて人しずまりぬ。

(座配図は略します)

浄土宗貞安云く「法華八軸の中に念佛有り耶」。法華宗日諦云く「焉れ有り。問の詮如何」
貞安云く「無間に堕つる念佛を何ぞ法華に説く耶。法華第七に即往往安楽世界阿弥陀仏と曰う、如何」
日諦云く「法華之弥陀と浄土の弥陀と一体か別か」
貞安云く「弥陀は何れに有るも浄土の弥陀と一体也」
日諦云く「然らば則ち何ぞ捨閉閣抛と法華を捨てる耶」
貞安云く「念仏を修する機の前に、念佛の外の余法を捨閉閣抛する也」
此の時、久遠院日淵云く「此の一段は某が申すべし」。日諦云く「いやいや無用」云々。頂妙寺日珖云く「久遠院仰せられて然るべし」と云々。
法華宗日淵云く「念仏を修する機の前に、法華を捨つの証文、経論有るや」と云って、次に「とても如来一代経中に一字一句もなし。閉口せられよ、閉口せられよ」
貞安「申さう、申さう」と云うて
貞安云く「浄土三部経に曰く、善く方便を立て三乗を顕示す。叉た一向専念無量壽佛と云へり」
此の時、頂妙寺日珖云く「此の一義は拙僧が申すべし」と云って、無量義経を取り、これを開き持ちて、
法華日珖云く「無量義経に此等の文を破して曰く、四十余年未顕真実」と。
貞安云く「四十余年未顕真実の文を以て、これを破せば、方坐第四之妙の一字も亦た之を破すや」
日珖云く「さては浄土三部経、未顕真実なることは決定して、其の上の不審なるや」
貞安云く「其れはあとに反る」
日珖云く「此れは浄土三部経と法華経との諍いなり。先づ念佛所依の三部経は未顕真実なること決定よ」
貞安云く「其れは、あとへ反る。法華第四之妙を知らずや」
此の時、織田七兵衛云く「あとへ反ると云わるるほどに、先づ此れを云われよ」
日珖尚重ねて、未顕真実の文義を申す。其のさからひあやうし。此の時、日淵坐を起ち、奉行衆竝びに七兵衛のあたりによる。叉た貞安ともの其間、半間程もあらん。
日淵云く「未顕真実の一文の上にて相果ることなれども、其れはあとへもどると申さるる程に、其の上にて申さうずるとて、貞安に向かって、
日淵云く「四十余年未顕真実と云って、諸法を捨てる故に、法坐
第四之妙の一字も、之れを捨てるやの義か」
貞安云く「まっさう」
日淵云く「妙に種々有り、何を問う」
貞安云く「汝じ知らずや、。法華の妙よ」
日淵云く「汝じ愚癡なり、法華宗に対して、法華の妙を捨てるやと問うや。法華宗は法華の妙より立て、余法を悉く皆な捨てるなり。汝じ云はふずること無きに依て、戯言を申すか」と云て、奉行衆に向かい此の旨をを申す。
此の時、浄土の僧皆な閉口して言無し。貞安赤面せり。其の時日淵奉行衆に対して云く「聞こし召されよ、申しつめて侯」
此の時、浄土宗関東長老云く「此妙彼妙妙義無殊と、妙は何れも同じ者よ」
日諦云く「但だ方便を帯すると方便を帯せざるを以て異と為すは如何」
日珖云く「老僧申されたれども、声がひくい程に、重ねて申す」と云て、但以帯方便不帯方便の釈を重ねて高声に引き、其の上に文辞一と雖も義は各の異なると引いて、是の時は法華計りにして、余妙は真実ならずと云われたり。浄土宗皆な復た閉ロして言無し。
日淵奉行衆に向かい、「浄土両僧共に申しつめて候」と云ふ。
日諦云く「問答の法なれば袈裟をたまわらうずる」と云へり。
此の時、開東長老無言にして坐を起ち、高声に勝った勝ったとニ声云へり。其の時、總人数一同に閧を瞳と上げる。
関東長老立ちながら日諦の五條袈裟を引き切りて取る。
日淵謂へらく、法問には勝ちたれども、老僧の袈裟を浄土宗に取られては、上聞如何と存じ、坐を起ち関東長老の袈裟を相当に取らんとす。時に数千人一同に打寄り、日淵を取て中に指し上げ、十四五間ほど浄土の居たる中に入る、半棒を持て振る者数千人。奉行衆杖
を以て雑人を打払いし時、日淵を擲げ捨たり。日淵前の坐所へ立ち帰らんとするとき、傍より杖を以て面を打ちぬ。血流れ出でぬ。然れども本所に立ち帰り、奉行衆に対して申す。御存知の如く、法問には勝ちぬ。却て此の如く此投。上へは有り様に仰せあげ候へと云ふ。奉行衆云く、存分の如く申し付けらずると也。堂の外陣に経論を引き乱しふみさき、悪口怨嫉言語に及ぶ所に非ず候らいき。其の後奉行衆云く、此の處は余りに人多なれば局へ入よと云て、堂ノ西方三畳敷の處へ押し入れ、其の内へも侍一人入れおき、表に某等十四五人。其の外か付々の衆居れたり。暫くあって御小人猿と申す仁来たりて云く、上より仰せつけられ候今日の法論に、若輩の衆奉行に仰せつけられ候故に、不慮出来し候。法問の事を上には御存知之れ無く、去り乍ら浄土宗慮外共仕り候處は治定に候間、重ねて御成りなされ、双方召合され、其の上にて有様に仰せつけられべき候間、心易すく存ずべき旨と申され候時に、我等も日珖も一定の義と存じ候らいき。御返事に、御使畏れ存じ候。御諚の如くに候間、萬端然るべく候様にお取りなし頼み奉る由申し候。其の後、普伝を町中方々尋ねられて尋ね出だし、又た三畳敷に押しいれ、塩屋伝内も此の処に来ぬ。
日も午の終わり未の初めに成りぬ。其の時、信長殿堂の縁に来たり玉ふ。南禅寺秀長老立ち向かいたり、信長殿仰せられようは「長老は年寄りの骨折りじゃよ、今日の法論きかれて候か」と。秀長老云く「年がよりてまいらせて、耳が遠く候」と云えり。信長殿「そうで候わめ、候わめ】と仰せられて「早う帰えられよ」とて、秀長老を帰されぬ。
我等おもうに秀長老の申し様、甚だ謂われ無し。判者に召さるる時、「年寄って耳きこえず」とこそ申すべけれ。左はなくして罷り出でて、法論果て、「年寄って耳きこえず」とは、心得ざる詞と存じ候らいき。
其の後、浄土長老貞安を召し出さる。東の局に入り置ければ、頓いで罷り出でぬ。
先ず信長殿より御言を出されて「今日の法論、近頃手柄で候。前々処々にて法論ありし種々の沙汰は聞きたれども、今度の様に手柄なことは知らなんで候。ここで果てたことじゃ程に、天下日本国にかくれ有るまい」と仰せらる。
左右に竝び居たる衆皆な云く「大唐までも異義は御座あるまい」となり。
浄土宗僧衆へ「早く帰られよ」とて帰されぬ。然れば最前の御使に「御成りの上に双方召し合わされ聞こし召す」と、ありつることは、普伝を尋ね出さん手だてなりと存ぜらる。
其の外、初中終のさせらし様、御手だての様子申し尽くされず。
其の後、「伝内めを連れて来よ」とありしかば、我等と同処にありつるを引き出し、外陣の坤の隅の方に引き居たり。仰せに云く「あの伝内めが、いたずらによりて、此の如き事を仕出かせり」とて、種々の様子ども暫く仰せられ、「それつれて行け」とありしかば、堂の表へ引きおろし、頓(いそい)で討たせられたり。
其の次に「京の僧共普伝もつれてこよ」とありしとき、小人衆
はらはらと来たり、両人にて、おのおの我等が両手を執り、御前四五間隔てて、日諦、日珖、日淵三人を引き居き、普伝は三人より三間ばかり後に引きすえたり。
其の時仰せけるは「其れ普伝ここへつれてこよ」と。頓で引き立て、御前二間程おきて引き居たり、仰せに云く「其の方は去年迄何宗にてもなし、上のなりあがらん様に成らんと申す由、慥かに聞きたり、総じて法華宗と云うものは、人に物を取らせても、我が宗になしたがると聞けり、故に汝を法華宗に成さば、彼の宗で外聞と思いて取り持つを、汝は欲で法華宗に成しなんどの義さまざまありつ。」
普伝申さる「十年以前より法華経でなくては仏に成る経は御坐なひと云うことを見定めて御坐あれども、種々に遅々して此の春より法華宗に罷り成りて候」とありしかば、信長殿仰せには「いやいや法華経のよきことは、そちが云わずとも我も知れり。見れば年寄りじゃ、生きたりとも幾程のこともあるまい、あれつれて」とありし時、引き立て堂のきざはしより下ろし、頓(いそい)で芝の上にて首を刎ぬ。
さて我等三人に向かい「あの老僧は」とありしとき、日珖申さく「妙覚寺学頭」と。又た仰せらるようは「汝は堺の油屋浄?が弟じゃな、疑いもなくよく似たり。」又た仰せられようは「新発意か房主か有るとはどれぞ」とあるとき、日淵手を執られながら、少しうつぶきぬ。其の時仰せられようは「まだ年少かし」、面の血流れたるを見て「あの様にはすまじひ者よ」とありて、「其の手を放せ、いらぬことよ」とありし時、三人の手を執る小人六人退きぬ。
次に「そち衆が様になることは、人毎に法華宗をよく云う者一人もなし、我は知らねども人がよく云へば、よいかと思う。あしく云へば、わるきかと思う。其の宗をほむる者一人もない、其れはなぜに、あしく云うぞと思へば、人にかからず我が宗計り弘めて居れば、あしく云う者はあるまいを、人のことにかかりて云う処で人がにくむ、其れはなぜに、かかるぞと思へば、欲が深さに他宗のことを云うぞ。とてもかようなる上は、一筋に思い切る者か、宗旨をかゆる者か、一途に返事をいわれよ。但し、ここで当座には返事がなるまい、新発意あれつれて立て、談合して云いせよ」とありし時、御前衆「早く罷りたて 罷りたて」と云う。小人衆又た引き立てて、さきの局へ打ち籠めて、番衆百人計り有りて、三人の間に座し、少しも談合をさせぬ様にしておかれぬ。
信長殿は山へ御帰りありぬ。暫くありて奉行衆三人御使とて来て云く「先刻直ちに仰せらる、おのおの定んで聞かせらるべし、一途の御返事とあり」
其の時日珖申されけるは「ここをば私の御返事申すべし。仰せの如く具に承け候らいき。此の上にても宗旨を改め申す事、中々是非に及ばず候、又た存切覚悟迄も迷惑にて御座候。唯だ何くにも山居仕り候て、有るも無きもの軆と仰せ付けられ候ように御取り成し」と云へり。
奉行衆「其の分程がよかるべし」と云々。奉行衆帰られぬ。
暫くありて、書き物をさせられて、免れんの風聞あり、其の時日淵日珖に対して申さく「自然一人首を刎ね、其の外人事は苦しからず。此の上にても是非に及ばず、宗旨は相続する様に成るならば、某し一人出され、若し又た財宝を出して然るべき義ならば、貴師分別の上に有るべし」と再三申し、又た奉行衆来たり「仰せ」と有って三箇条書き物して案文を出され言のよしを云いのけ種々に申して、先案文は奉行衆に返し申す。日淵申さく「上意と申しながら此の書き物つかまつりまじく候、おのおの存切りられよ」と度々申しぬ。
其の時、法華宗の僧俗衆百人計り召し籠めして置かれし処より、使者を以て申し越されけるは、「此の度、僧俗二三百人も此の所に在らん、一度に害せられば、京都も同じかるべし、然らば御分国中同意とある間、僧俗尽く害せらること、一両人の分別の上にあり、先ず一往いかようにも同心有るべし」」と種々ありし。
日珖も此の義の如きなり。日諦は無言なり。無念是非に及ばざれども、御分国中とある時は、仏意も如何と、未練故やらん思われて、同心とは申さねども、是非に及ばざ體になりぬ。
さて此の局は用心あししとて、堂内東の方の局に移されたり。
是の日廿七日なり。夜に入って番衆数百人、獄卒も是の如くならんと思わる。
翌廿八日巳の刻、奉行衆三人、堂の外陣に来たり、三使を以て書き物つかまつるべき由に候らいき。其の中、九太郎の使い馬淵右衛門と申す仁、狡猾の人にて、重々申して「然らば此の如く二通書かれよ」とあり、其の時日淵もうすさく「一通かくも百通かくも、外聞実義を相果たす段は同じ、然れども二通迄は入り申すまじきことと存ず、何の御用に二通とは仰せらるや」と申せしかば、馬淵云く「此れは一大事の義にてあれば、一通は御山に止め置かるべし。一通は浄土宗へ遣かはさるべければ、一通は宛所を奉行衆、一通は浄土宗へさせらるべしとの御意なり」と。
日淵申さく「大段問答には勝つ申すの由を書くべきことにはあらざれども、左無くば御分国中、一宗を踏み殺されんとある迷惑さに、打ちさえ上意に打ち任せ、奉行衆迄書き申さふづるかとの義で社(こそ)あれ、此の段に罷り成りたりとも、法華宗が法問に勝ちながら、浄土宗へ宛所の書き物とならば、二通ながら一字も書くまじ」と申しかば、与右衛門居丈高になり、目を見張り荒らかに申されけるは「何と書くまじと申すか。此れは一々文章御前の御好みなり。少しも奉行衆の才覚に非ず。中々苦事」とて大いに叱りぬ。
日淵申さく「馬淵殿此の上にては左のみ叱れそ、其の目にも怖れ申すまじ、覚悟一筋に存切たっと」と申しかば、「覚悟は定めて有らん。然れども成敗に軽重種々の品どもあり。其の期に臨どみ後悔あるべし」とあり。
日淵云く「覚悟と云うは、釜を立て煮るるか、又は磔に掛けあるるか、又は一寸宛て刻まるいるか、如何様になぶり殺しにもあれ、一字も書くまじ」と云う。
此の時、馬淵少し色を直し言をやわらげ「其れは兎もあれ後悔あるべし、能く能く思案せられよ」となり。
日淵申さく「此の一大事の処に少しも逗留有ては、あしからん左のみ、ねばられそ。右の如く申すよし御返事あれ」と申す。
日珖は、うつむきて「是非に及ばず」と二言申されし計りなり。
外に兎角申す仁もなし。
日淵申さく「奉行衆へ申したらば、頓で御山へ申さるべし。御耳に立てからは取りかへされじ。思案あれ」となり。
日淵申さく「成る程、一字も書くまじいぞ。早や御返事あれ」と申せしかば、「此の上はさらば罷り立つ」とて立たれぬ。
恐らくは不惜身命の義、日淵一分は働き候か。成敗の軽重を相い待つのみなり。
馬淵与右衛門又た来て申されるは「奉行衆へ右の如く存分具に申す処、御理りの段も一筋有るの義と存ず、然れば先ず奉行衆への宛所計り書かられべし。御山へ持ち参じ随い分御取り成し申すべし。上意苦事の由あらば、幸いに御覚悟のことなれば、其の段は等閑に非ざるなり」
此の上は日淵も総て事を一身に任せては、御分国中如何と存する間、
是非に及ばず連判しぬ。
諸寺の役者も一人宛て連判せらぬる。
翌廿九日に、此の処は如何とて、桑峯と云う寺へ移さる。奉行衆三人来て、僧衆一人宛請け取り、両手を引きはり、町中竝びに野外を渡る。殿主の下を通るとき、兼ねて申しつる書き物をさせ、其の後害せらるべし、但し書物無しに死して社(こそ)と、日淵度々日珖へ申せしは、爰(ここ)ぞと、日珖へ申しける。然れども別の事なく打ち通り、桑峯に到りぬ。爰にてぞ有るらんと思いつれども、左も無くして、六月十二日迄、六畳敷きの所に六七人籠居させられてありつ。
此の如き難は上古も稀なるべしと覚えたり。面目を失い、仏意も如何なれども、其の砌の體、後々異談之れ有るべき故に、之れを註する者なり。疑う勿れ云々。

久遠院日淵   底玄之れを書す

(大日本仏教第97・宗論叢書第一・116頁~126頁)

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