執行海秀著「興門教学の研究」より抄出

二、日興上人の本尊意識

日興上人の本尊意識を窺うふべき文献としては、上人の相承並に筆受と伝えられるものに、本因妙抄・百六箇相承・産湯相承・御義口伝・御本尊七箇相承・寿量品文底大事等があり、上人の述作並に口授と伝えられるものに、五重円記・五人所破抄・富士一跡門徒存知事等があり、上人の消息類に原殿御返事等がある。

然していまこれらの諸文献に現れたる本尊思想を分類すれば、大体次の三種に分かつことができる。

第一類は原殿御消息等に現れたる仏本尊思想
第二類は富士一跡門徒存知事等に現れたる大曼荼羅正本尊思想
第三類は相承並に筆受類に現れたる宗祖本仏論思想

即ち第一類の
「原殿御消息」には、大曼荼羅と仏像との関係を論じて、

「日蓮聖人御出世の本懐、南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、未た木像は誰も造り奉らず候に、入道殿、御微力を以て、形の如く造立し奉らんと思し召し立て候を、御用途も候はずに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに、其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進せ給て、固く其の旨を御存知候を、日興か申様は、責て故聖人安置の仏にて候はば、さも
候なん。それも其仏は上行等の脇士も無く始成の仏にて候き。其上、其れは大国阿闍梨の取り奉り候ぬ。なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡せ給へ候へき。御力、契い給わずば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給まては、聖人の文字にてあそばして候を御安置候べし」


といっている。

いまこの文に依れば、宗祖の奉安せられたる一体仏の釈尊が、祖滅後、朗師によって安置せられるに至ったので、波木井の原氏がその一体仏の釈尊と同じようなものを造立せんと試みたもののようである。

ここに於いて興師は、一体仏の造立は始成仏に濫するが故に不可であることを述べ、更に本化の四士を添えたる仏像の造立は経済上の問題も伴うものであるから、仏像造立の出来るまでは、宗祖の認められた紙墨の大曼荼羅をもってこれに代えても何等異なりはないと訓えられたものである。

即ちこの文に現れたる日興上人の思想は、後世に伝えられているが如き、仏像否定でもなく、また大曼荼羅正本尊思想でもない。
むしろ仏像造立を肯定し、大曼荼羅所顕の一尊四士をもって本尊奠定の様式と解されていたとみるべきであろう。

しかるにこの文をもって、日興上人の造仏論者を誘引せんがための巧説であるといい、或はまた、造仏論者に対して、しばらく一尊四士の造立を許されたのみにして、これは真意にあらずといふが如きは、かえって上人の真意を誣ふるものではなかろうか。

少なくともこの消息による限り、この時代に於ける上人の本尊意識は本門の妙法蓮華経の教主久遠実成の釈尊であったのである。

なお興師の仏本尊思想を窺うべき文献として、
「三時弘経次第」「引導秘訣」とがある。

即ち
「三時弘経次第」には明らかに師弟の次第を述べ、久成の釈迦仏をもって本仏とし、この本仏を富士山の戒壇本尊とみなしているのである。

さらに
「引導秘訣」には曼荼羅を説明して

「曼荼羅の事、是れ即ち冥途の挙状(てがた)なり。(乃至・・・)是れ釈迦法王の印判と云う意なり。曼荼羅授与の時、深く此の旨を思うべし。」

といい、また

「題目を書く事は釈迦の智慧を顕すなり。」

ともいって、題目を仏智と解し、この大曼荼羅を拝するには「心に強く仏身を念ずべし」であると相伝しているのである。

しかるに第二類の文献たる
「富士一跡門徒存知事」には

「日興云く、聖人御立の法門に於いては、全く絵像の仏菩薩を以て本尊と為さず。唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし。即ち自筆の本尊是れなり。」

といって、大曼荼羅と仏像との間に軽重を論じ、大曼荼羅正本尊を強調して仏像造立の不用を論じている。

次いで更にその下には

「此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず、正像末に未だ弘通せざる本尊なり。(乃至)六人一同に守護し奉るべし。是れ偏に広宣流布の時、本化国王御尋ね有らん期まで深く敬重し奉るべし。」

といって、大曼荼羅そのものを願業の本尊とするものの如くである。これは前の「原殿御消息」に於いて、仏像本尊の出現を所期とするものと全く相反するものである。従って本書に現れたる本尊意識は、本尊の実体を妙法五字にとるところの謂ゆる法本尊である。

ところで
「五人所破抄」には、「門徒存知事」のこれらの文に相当するところを

「日興が云く、諸仏の荘厳同じと雖も印契に依つて異を弁ず如来の本迹は測り難し眷属を以て之を知る、所以に小乗三蔵の教主は迦葉阿難を脇士と為し伽耶始成の迹仏は普賢文殊左右に在り、(乃至)図する所の本尊は亦正像二千の間一閻浮提の内未曾有の大漫荼羅なり、今に当つては迹化の教主既に益無し況や??婆和の拙仏をや、(乃至)執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を 用ゆること勿れ云云。」

とあるが、この文に於ける本尊意識は果たして、
「門徒存知事」に現れたる本尊意識と同一なりや否やについては研究の余地があろうと思われる。

即ちこの
「五人所破抄」の文は大曼荼羅と仏格との軽重を論じたものでなく、脇士に依って仏格を定めようとするものである。
故に大曼荼羅対仏像の問題でなく、大曼荼羅所顕の仏格本尊と、一体仏並に迹仏との優劣を論じたものであるとみるべきではなかろうか。

しかしてこの文の末文たる
「執者尚強欲帰依云々」の十八字は、大石寺六世日時の写本になく、また西山代師の直筆と伝う代師本にはこの文を抹消してあるとのことである。

そこで、この十八字は果たして原本に存していたものか、それとも後人の加筆によるものかの疑いもある。

しかし、たといこの文があったとしても、執者尚強の文は一尊四士の仏像を指すのではなく、それは一体仏を指す意と解すべきであろう。
かように考察し来たれば
「五人所破抄」に現れたる本尊意識はむしろ前の「原殿御消息」の思想に近いものであるということができる。


いまこれらの所論はともかくとしても、興師の遺誡と伝えられる
「五人所破抄」「富士一跡門徒存知事」には、次の第三類の文献に現れているが如き宗祖本仏論の思想は、まだその片鱗だにも現れていないということだけは明らかである。

「五人所破抄」には宗祖の本地論に言及しているにも係わらず、五一の相対として宗祖本仏論を主張していないのは、当時に於いてはまだ宗祖本仏論の思想がなかったことを物語るものであろう。

さて次に第三類の文献に現れたる本尊意識を考察するに「百六箇相承」「本因妙抄」等はいずれも種本脱迹の思想を基調として、この理論の上に下種本仏論を説き、文上脱益の教主は釈迦であり、文底本因妙の教主は某(日蓮)であるというのである。

なお
「御本尊七箇相承」には、その第七ケ条に「日蓮御判置給事如何」という相承を立てて、

「師曰く、首題も釈迦多宝上行無辺等も普賢文殊等も(乃至)悉く日蓮なりと申す心なり。(乃至)法界即日蓮、日蓮即法界なり。」

といって、宗祖本仏論を大曼荼羅の図式の上で説明せんと試みているのである。


これを要するに、これら三類の文献をそのまま確実なる資料として肯定すれば、日興上人の本尊意識には仏本尊思想、法本尊思想、宗祖本仏論思想等の混然たるものがあったと云わざるを得ない。

ところでこれらの文献を文献学的に考察すれば、第一類の文献に比較的確実性があり、第二類の文献は文献的価値として薄弱なものであり、第三類に至ってはその文献に興師の思想が果たしてどれだけ伝えられているかということすら問題になるものである。

もとより第一類の文献に於いても
「三時弘経次第」と「引導秘訣」の如きは、興師の直弟または法孫の作にあらざるかと思われるものであるが、その成立は興師を去ること遠くないものであろう。


かように興師の本尊意識を窺うべき文献それ自体に問題があるので、かかる文献に依って興師の本尊意識を推定して、第一類の文献に現れたる仏本尊思想の如きは興師の随他の巧説であるといひ、或はまた第一類の文献に現れたる思想を、第二類第三類の文献に現れたる思想に依って解釈せんとするが如きは不当の論断であろうと思われるのである。

そこで以下、興師門下諸師並にその系統に依って展開されたる本尊意識について筆をすすめてみよう。

三、日道・日順両師の本尊意識

大石寺四世日道上人の
「三師伝」には、興師の遺誡として、「無脇士一体仏崇本尊謗法事」なる項目の下に、

「小乗の釈迦は舎利弗目連を脇士と為し、権大乗迹門の釈迦は普賢文殊を脇士と為し、法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士と為す」

といって、脇士に依ってその本尊の仏格の異なることを述べ、次いで

一体の小釈迦をば三蔵を修する釈迦とも申し、また頭陀の釈迦とも申すなり。(乃至)・・・一体仏を崇する事かたがたもっていわれなき事なり、誤りが中の誤りなり、仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内未曾有之大曼荼羅なりと図し給う御本尊に背意は罪、無間にに開く云々

といっている。即ちこの文は、一体始成の釈尊を本尊とすることは宗祖の大曼荼羅所顕の本尊義に背くことを述べたものであって、大曼荼羅と仏像本尊との軽重を論じたものではない。

しかして前文に
「法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士と為す」と言明しているのであるから、ここに大曼荼羅の本尊というのは、いわゆる一尊四士の本門本仏本尊の意に外ならないのであって、一尊四士の本門本仏の外に更に大曼荼羅本尊の存在を認めたものではなかろう。

故に次下には

「何ぞ三身即一之有縁之釈尊を閣いて強に一体修三之無常之仏陀を執せんや。本尊の階級に迷へば全く末法の導師に非らずや」

といって、前の大曼荼羅の本尊を直ちに 三身即一の釈尊と論じ、この本門の釈尊をもって、一尊始成仏の造立を破していつのである。従ってこの本尊意識は、興師の「原殿御消息」に現れたる思想とその基調を同じうするものであるということができる。

なおここに注意すべきは、いまこの本文の初めに、「小乗の釈迦(乃至)法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士と為す」といっている文は、「本尊抄」の

「小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」

という文を取意したものであって、これは今日の興門教学に於いて、本文の釈尊が本化の四菩薩の脇士となるという宗祖本仏論の思想と、全く相反するということである。
即ち「本尊抄」に寿量の仏という文を、ここでは本門の一尊四士と解しているのである。

なおまた「三師伝」に依れば、道師は興師の筆受相承類と伝えられる第三類の文献は勿論のこと、第二類の「富士一跡門徒存知事」等すら何等関知せざりしもののようである。従ってその本文に於いても未だ宗祖本仏論の思想は窺われない。


次に重須の学頭三位日順師はその著
「心底抄」に、本門の本尊を論じて

「仏滅後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曾有大曼荼羅なり。朝に低頭合掌し、夕べに端座思惟す。謹んで末法弘通の大本尊の功徳を勘うるに、堅に十界互具現前し、横に三諦相続すること明白なり」

といっている。即ちこの文によれば、師は十界具足の大曼荼羅をもって本尊となしている。

されど師のいわゆる十界具足は、久成釈尊の定慧を顕すものであり、その定慧の功徳体を意味するもののようである。従って師は本門戒壇に於ける受戒の相、並にその本尊を論じて、

「涌出神力の明文、本化の大人を召して久成の要法を授く(乃至)・・・行者既に出現し、久成の定慧広宣流布せば、本門の戒壇其れあに立てざらんや。安置の仏像は本尊の図の如し」

といっている。

いまこの文に依れば、大曼荼羅は本師久成釈尊の功徳体たる事三千の妙法が、本化の菩薩に依って受持者に授与される姿を図顕したものというのである。

即ちこの大曼荼羅は客観的な本仏の立場から観れば自然譲与の姿であり、主観的な行者の立場から観れば大法信受の姿なのである。
しかしてこの大曼荼羅の姿は、在世に於いては本門顕説の時に十方法界通一仏土の浄仏国土として現れたが、いま末法は再びこの大曼荼羅の姿をこの娑婆世界の上に顕現しなければならない。その時客体となるものは、在世の時と同じく本化を脇士とする本門の釈尊、すなわち本門の本尊であり、その本仏釈尊の譲与されるものは本仏内証の事観の妙法、即ち本門の題目であり、その題目を信受することが本門の戒であり、信受する所が戒壇である。すなわち一閻浮提有智無智を嫌わず一同にこの本門の本尊たる久成の釈尊に帰依し、他事を捨てて本門の題目たる妙法を唱える時こそ、在世に於ける通一仏土の再現であり、大戒壇の出現である。

そこでいま本化の大法を信受する我等は、単に自己の成仏をもって理想とすることなく、在世に於ける通一仏土の如き浄仏国土の建設に向かって不惜身命の精進を捧げなければならないというのが、順師の根本思想であったとみるべきであろう。


かように
「心底抄」の前後の文を考察すれば、師もまた大曼荼羅に依って顕されるところの本尊は、本門の本仏釈尊たることを忘れたものではない。

いなむしろ師は、この本門の釈尊本尊をして「本尊抄」の文にあるが如く、一閻浮提第一の本尊たらしめようとするものである。
そしてそれが願業の本尊であったのである。従って師の確実なる著述にはまだ宗祖本仏論の思想はない。

もっとも師の著書と伝えられる「本因妙抄口決」には、かの「本因妙抄」の思想をもって本門の本果仏は、なを文上脱益の迹仏であり、文底下種本因妙の日蓮聖人こそ久遠元初自受用報身の本仏であると述べている。されど本書は本書の筆致文格並に思想等からみて、よほど後世の成立にかかるものであろうと思われる。彼の玉野日志師の如きは、その著、「両山問答」に本書を順師の作とすることは文政年間以後のことであろうと推定しているほどである。


以上これを要するに、日興上人示寂後の成立にかかる「三師御伝」、興師示寂後十八年の貞和五年に著されたる「本門心底抄」等によれば、大石寺の日道上人にしても、また重須系の日順上人にしても、仏本尊意識が濃厚であって、まだ大曼荼羅対仏像の傍正軽重論や、宗祖本仏論の如き思想は窺われないのである。

四、大曼荼羅対仏像本尊の傍正論

1,重須要法両系の仏本尊正意論

「富士一跡門徒存知事」の追加の文によれば、重須の学頭日澄上人には既に一尊四士の造立があったことを伝えている。またその資日順上人の本尊意識が仏本尊思想であったことは前に述べたところである。

次に日代上人の本尊意識を考察するに、上行院日伊上人の仏像造不の質問に対して代師の答えたる書状に

「仏像造立の事、本門寺建立の時なり。未だ勅裁無し、国主御帰依の時、三ケ大事一度に成就せしめ給うべしの由、御本意なり。御本尊図は其れが為めなり」

といって、仏像本尊こそ願業の本尊であり、大戒壇の本尊であると伝えている。この点、順師と同じような思想に立っているものということができよう。


次に要法系の日尊上人の本尊意識を窺うべき直接資料はないが、その直弟日伊・日大両師の記録によれば、師もまた仏本尊思想であったもののようである。即ち
日伊上人の書状には、

「師匠にて候人、(乃至)老体の今は主師親の本門本尊を造立し見奉りたき望念にて候」

と伝えている。これは日尊上人の本尊意識が主師親三徳の本門本仏本尊であったことを物語るものである。

また日大上人の
「尊師実録」によれば、尊師が興師の遺誡として、

「末法は濁乱なり、三類の強敵之れ有り、しからば木像等の色相荘厳の仏は崇敬はばかり有り、香花灯明の供養も叶うべからず、広宣流布の時分までは大曼荼羅を安置奉るべし」

ということを伝えている。
即ち日興上人が仏像を造立せられざりし理由は、三類の強敵の充満せる今時に於いては、仏像は崇敬に憚りある故に広宣流布の暁までしばらく造立を避けられたもので、そのため携帯に便なる大曼荼羅をもってこれに代えられたというのである。

もっとも安良日将師の「独一本門の大観」によれば、この「尊師実録」の成立については古来より真偽の論があり、また日大の真作であるとしても、その記録が果たして尊師の真意を伝えたものであるや否やの論があるとのことであるが、しかしそれらの緒論は尊師をもって大曼荼羅法本尊論者であったと見なすものの主張であるから、その論拠が薄弱である。


次に尊師の資、日大上人の本尊意識もまた仏本尊思想であったとみるべきであろう。されどその仏像の造立形式に於いては果たして一尊四士であったかどうか疑問である。

「尊師実録」に一尊四士を略本尊といい、「直兼問答」に二仏並座の儀式の造立を認めている点から考察すれば、師は大曼荼羅勧請の諸尊全体の造立を意図していたものかも知れない。しかしいづれにしても師の本尊意識は本門の釈尊であったであろうと思われる。

次に日伊上人の本尊意識もまた尊師の思想を受けて仏本尊的である。即ち本尊造立の件に就いて日代上人に質したる師の書状には

「四教果成の仏の中、円教果成の仏は虚空を座とするは塔中釈迦なり、就中大聖人の三ケ大事の一分なり(乃至)・・・一向仏像造立有るべからずの難、実に一片の義なり、所詮、料足微少の間、宝塔造立すること能わず、・・・たとい遅速の不同有りとも御書の如く造立せしむること決定なり、ここに愚案を廻らして云く、末法流通の行相は折伏を以て表と為し、摂受を以て裏と為す(乃至)・・・今仏像造立摂受の行はしかるべからずか、観心本尊抄撰時抄の如くば、西海侵逼の時、上一人より下も万民に至まで、妙法蓮華経五字の首題を唱え奉って、高祖聖人に帰伏し奉り候わんと見候へば、其の時御本懐を遂げられ、本門の本尊を取り立て、造立の後は国中乃至他邦まで一同に三箇の大事皆以て流布せん。なかんづく本門の本尊をば建立有るべく候、其れまでは公家に奏し、武家に訴え申し候わんこそ折伏にては候へ」
とある。
即ち塔中の釈尊をもって本尊とし、これを本門三箇大事の随一であるといい、しかもこの本尊を大戒壇の本尊であるといっているのである。

しかしてその釈尊を指して、「円教果成の仏」といっているのは、宗祖本仏論者のいわゆる脱益仏に相当するものであるが、師はこの脱益仏を直ちに三ケ大事に於ける本門の本尊であると見なしている。

従って宗祖本仏論者の如き思想は、日尊上人を始めとして、その資、日大・日伊両師に於いても見出されない。

かように考察し来たれば、彼の「本因妙抄」「百六箇」の両血脈書が日尊・日大へと相承されたという所伝、並に尊師本と伝ふる写本の価値も疑わしいものでである。

これを要するに、初期の初めに於ける重須要法の両系に於いては仏本尊的であったということができる。んもっともその後、重須系に於いては、要法寺辰師の「与本因坊書」によれば、大曼荼羅法本尊思想へと傾き、遂に仏像造立堕獄論を主張するに至ったもののようである。

五、宗祖本仏論の台頭とその推移

前述の如く、興上の直弟または法孫たる日道・日尊・日代・日大・日順等の著述の中には、宗祖本仏論の思想はまだその片鱗だにも現れていない。いなむしろそれら諸師の本尊意識は本門の教主久遠実成の釈尊であったのである。

従って興上の筆受相承類と伝えられるが如きものは文献的に考察して、甚だその価値の薄弱なものであるといわざるを得ない。ここに於いて、確実なる文献による限り、宗祖本仏論の思想の最初に現れたものは、恐らく妙蓮寺日眼上人の康歴二年(興滅四十九年)の著述にかかる
「五人所破抄見聞」であろうと思われる。

即ち本書には

「総じて法華の教主を色々に沙汰すれども、ただ始成正覚の仏界なり」

といい、更に威音王仏と不軽、釈尊と日蓮聖人とを対比して、

「威音王仏と釈迦牟尼仏とは迹仏なり、不軽と日蓮とは本仏なり」

と言明している。

而してこの宗祖本仏論の思想は其の後、大石寺日有、保田日要、大石寺系日教等の堆積保田両系の学匠に依って強調されるに至ったもののようである。(・・・)

大石寺系の教学の組織は勿論、後の日寛上人を俟たなければならないが、その教学の創始者は実に大石寺九世日有上人であるということができよう。・・・

(日有)師の口述をその弟子日住の筆録したる
「化儀抄」には

「当宗には断惑証理の在世正宗の機に対するところの釈迦をば本尊には安置せざるなり、その故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊をば名字初心の感見には及ばざる故に釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我等が高祖日蓮聖人にて存すなり(乃至)・・・脱し終われば種に還る故に迹に実体なきなり」

といっている。
即ちこの文によれば、脱益の本尊釈尊と下種益の本尊宗祖との間に法体論的な勝劣を論ずるものでなく、それはただ時機に約する相違である。

従ってこの思想はいわゆる理深解微の批難を免れないものである。
即ち脱益の釈尊は客観的な価値体としては、下種益の本化に勝ると雖も末法下機のために無益であるという思想に外ならない。

従ってこの思想は客観体そのものの価値の高度を基準として本尊を定めたのではなく、機根を主体として、それに適応する客観的な本尊を定めんとしたものである。

ここに於いて宗祖本仏論の思想はやがて宗祖脱仏論へと展開し得る可能性があったのである。即ち弁阿闍梨の筆録したる
「日有御談」には

「上行菩薩の後身日蓮大師は九界の頂上たる本果の仏界と顕れ、無辺行菩薩の再誕日興は本因妙の九界と顕れ畢りぬ」

といって、暗に宗祖脱仏、派祖本仏の思想を洩らしている。

なを日要述日我記の
「顕仏未来記聞書」によれば、日要上人当時、大石寺には「大聖冥益・当住顕益」の思想があったもののようである。

要するに日有上人の宗祖本仏論は、本尊意識として充分なる展開を遂げたものであるが、然しその学的根拠の基礎づけがまだ薄弱であった。而してそれが学的に法体論上に於いて組織されたのは保田日要上人の宗祖本仏論であろうと思われる。

保田妙本寺十一世日要上人は日有上人に遅るること二十八年の後輩・・・(日要)師の著「
冨士門流口伝草案」には

「本化上行菩薩は久遠元初支分の弟子同体の師弟一身の因果とは此れ本化の御事なり、娑婆世界一切衆生、最初下種の本地有縁の主師親なり、殊に本朝に御出現し、教弥実位弥下の大本尊(乃至)・・・三国未弘の万法能生種子の大曼荼羅、正像未弘の本尊とは此の代大士、御再誕凡夫即極の当体蓮華仏、当位即妙の当体、日蓮大聖人是れなり」

といって、本因為体の上から宗祖本仏論を論じている。

また師は
「顕仏未来記聞書」に、宗祖内証の寿量品は神力結要久遠の要法にして在世の寿量品に非らずといい、然して久遠の寿量品、即ち文底の寿量品の教主は本因為体下種の本仏にして、宗祖は正しくその本仏の示現である。故にその本仏に対して宗祖を迹と呼べども、それは「今日其の体を有りの儘に出世して弘め玉ふ故に一種迹には似れども迹にして迹に非らず」であり、「本の迹は迹に非らず」であって、「釈迦の応仏と迹の辺は同じからず」と論じ、在世に現れざりし久遠の本法と本仏は正しく末法の日蓮聖人に依って顕示されたものである。在世所説の寿量なお文上の迹体であり、その教主未だ本を開せざる迹仏にすぎずと論断しているのである。

かくして師は在世本門の寿量と、その教主に絶対性を認めずして、それらをもって垂迹施権の迹とみなしている。
ここに於いて久遠の本法と本仏は、末法の日蓮聖人に依って始めて如実に顕示されたものなるが故に、その日蓮聖人をもって本尊とすべきであると主張している。
従って師は当時に於ける大石寺系の宗祖脱仏論に対しては、それは勿体無き所論であるといい、「日蓮脱益の仏に非らず」と破している。

次に左京日教は・・・晩年大石寺に帰入して日有上人の門に学び大石寺系の教学を主張したのである。

師の著、
「百五十ケ条」には
「当流には日蓮聖人を以て本門の教主と仰ぐ所なり(乃至)・・・当流相伝の御正筆には、上行菩薩の脇士となるべしと有り云々」
といい、また

「下種の導師を以て本門の教主釈尊と申すなり」
といっている。更に「穆作抄」には

「此の上行菩薩は釈尊の本果妙の成道御唱へ無き本因妙の時の師匠して御座す。其の菩薩界常修常証の菩薩なり、我本行菩薩道の本因妙の菩薩の御師は有るべからず(乃至)・・・釈迦とは本因妙の種子より本果の成道は出たれば(乃至)三世諸仏の師匠となり玉ふ上行菩薩なり」
といっている。なお本書の造仏破立の下には、

「当家の意は脱益の釈尊をば造立し奉らず、ただ日蓮上人の御影を造立し奉るべき事、本尊に契当せり。下種の導師にて御座すが故なり、(乃至)此の御本尊は何事を表するや、末法の導師の作用を本尊と顕すなり、譲り給う法体は妙法蓮華経なり、所詮は上行の御身法華経なり、此の法華経を互為主伴して七字を御本尊に崇め奉つて導師を本とする時、日蓮聖人の体内所具の釈迦多宝十方三世の諸仏菩薩と唱ふなり、能具所具を知らず造り顕す時、導師に迷惑すれば信が二頭に亘るなり」

と論じている。然して師は本因下種の法本尊思想を基調としているのであるから、その宗祖本仏論はやがて貫主本尊論または己身本仏本尊論へと傾いている。即ち
「類聚翰集私」には
「末法の本尊は日蓮聖人に御座すなり、然るに日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次其の次に仏法の相属して当代の法主の所に本尊の体有るべきなり」
といい、
「六人立義破立抄私記」には、師弟相対互為主伴の所へ本尊の実体を認めて
「当時の上人は日蓮聖人なり」
といい、更に観心本尊とは
「吾が身本尊に成る信成就すれば観心本尊なり、観心は法華経、本尊は吾身なるべきなり
と論じているのである。

これを要するに宗祖本仏論の思想は、仏格本尊の確立を忘れたる法本尊大曼荼羅正意論思想より展開されたものであるということができる。

即ち信仰の主体たる絶対価値体としての客観教門の本仏本尊を確立しなかったため、大曼荼羅に於ける妙法の七字が本仏因果の功徳体であることを忘れるに至ったのである。

従って妙法は果を具足せざるところの因であるとなし、または単なる理法であるとなして、ここに宗祖本仏、己身本仏の思想を展開せしめる根拠があったのである。

六、結論

前述の如き推論が許されるとっすれば、初期の興門教学に於ける本尊意識は、仏本尊より法本尊へと展開し、それが更に宗祖本仏論へと展開したものであると云う事が出来る。

即ち日興上人の直弟間の本尊意識に於いては、本門本尊としての一尊四士と、大曼荼羅との間に何等の区別もなく、またその間に何等の軽重も認めて居ない。

いなむしろ、その本尊意識を克実すれば、それは大曼荼羅所顕の久遠本仏、即ち一尊四士の形相に依って現されるところの本門の教主釈尊であったのである。

しかしてこの本門の釈尊の因果の功徳体、即ち事一念三千の相を図顕したのが大曼荼羅であると解していたもののようである。

故に大曼荼羅は、本門の本尊たる本門の教主釈尊の仏心を図顕したものに外ならないのであったのである。

しかるに其の後、本尊勧請の問題を巡って、大曼荼羅対仏本尊の傍正論が起こり、本尊奠定の形相論の問題は、本尊に於ける本質論へと展開したのである。

かくして一尊始成仏不造の問題は仏格否定の仏像不造論となり、仏格本尊否定の法本尊へと展開したのである。

しこうしてこの仏格否定の法本尊大曼荼羅正意論の思想は、観心主義的な思想、即ち四重興廃に於ける教観相対思想の爛熟に伴って、宗祖本仏論の思想を胚胎せしめるに至ったのである。

即ち本門の教主釈尊より一重立ち入りたる本仏、換言すれば観心の仏の存在を認めんとしたのである。
しこうして、そのいわゆる観心の仏を宗祖となし、また自己となすに至ったのである。

これは要するに、本門の観心は本仏心なることを忘れて、本門の教に於いてなを教観の興廃を論ぜんとしたがためである。

かように考察し来しは、日興上人の著述んまたは筆受相承類として、私が前に挙げた第二類・第三類に属する文献の如きは、文献学的に観ても、また思想史的に考察しても、本尊意識の展開せるそれぞれの段階に於いて成立したものであろうと思われるのである。

(興門教学の研究260〜280頁)

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