文底秘沈決


開目抄上に云く、此の経に二十の大事あり、倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗等は名をも知らず。華厳宗と真言宗との二宗は偸に盗んで自宗の骨目とせり。一念三千の法門は但だ法華経本門寿量品の文の底に秘してしずめ玉へり。龍樹天親等は知っていまだひろめたまはず、但だ我が天台智者のみこれをいだけり。已上

初めに本迹二門の一念三千の勝劣を示し、次ぎに文底秘沈の正義を弁明せん。
第一、今二十の大事を標することは言惣意別なり。謂く惣じて二十の大事を標すると雖も意は別に二箇の大事を取るなり。
二箇の大事とは一には二乗作仏、二には久遠実成なり。二乗作仏久遠実成は能詮なり。一念三千は二門の所詮の法体なり。
二乗作仏は迹門の一念三千を顕し、久遠実成は本門の一念三千を顕すなり。且く爾前に対して迹門に一念三千を説くと雖も、本門に対すれば有名無実なり。本無今有なり。此の意を顕わさんが為めに次下に二の譬えを挙げ玉へり。文に云く、しかりといえども、いまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず二乗作仏もさだまらず、猶水中の月を見るがごとく、根なし草の波の上に浮かぶるににたり已上。

真と云うは則ち偽に対するの辞なり。寿量品は真の一念三千・真の二乗作仏なれば、自ずから迹門は偽の一念三千・偽の二乗作仏なる事疑い無き故に、二の譬えを挙げて、方便品の一念三千二乗作仏は倶に本無今有・有名無実なることを顕すなり。
之れに就いて先に法体を弁じ、次ぎに譬えの意を弁ぜん。

先ず法体を弁ぜば、問う、迹門の一念三千を何ぞ本無今有と云うや。答えて云く、既に未発迹と云う故に今有なり。未顕本の故に本無なり。仏界已に然かなり、九界また爾なり。故に十方法界抄「迹門には但だ是れ始覚の十界互具を説く、未だ必ず本覚本有十界互具を明かさざる故に、所化の大衆能化の円仏皆な是れ悉く始覚なり。若し爾らば本無今有の失何ぞ免がることを得んや」問ひて云く迹門の一念三千を何ぞ有名無実と云うや。答えて云く、迹門の中に於いて一念三千の名有りと雖も而も実義無き故に十章抄に云く「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る爾前は迹門の依義判文迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし」已上。

問うて云く、迹門の二乗作仏何ぞ本無今有と云うや。答えて云く、下種を覚知するを成仏と云うなり。而るに発迹顕本せざれば未だ久遠の下種を知らず、豈に本無今有に非ずや。本尊抄に云く、「久遠を以て下種と為し大通・前四味・迹門を熟と為し、本門に至って等妙に登らしむを脱と為す」已上。迹門の二乗は久遠の下種を知らず、豈に本無に非らずや。而るを作仏と云うは寧ろ今有に非ずや。

問う、迹門の二乗作仏を何ぞ有名無実と云うや。答ふ、三惑を断ずるを成仏と名づく、然るに迹門の二乗は未だ見思を段ぜず、況んや無明を断ぜんや。故に十法界抄に云く、迹門の二乗は未だ見思を段ぜず・・・有名無実の故なり」已上。

次ぎに譬えの意を弁ぜば、上来談ずる所の一念三千二乗作仏の有名無実本無今有なることを顕はさん為めに二の譬えを挙げ玉ふなり。初めに水月に譬える意を云はば、一に本無今有とは、玄七に云く、不識天月但観池月云々と。元と水中に月無し、是れ則ち本無なり。たちまち影を現ず、是れ則ち今有なり。天月を本門に譬え水月を迹門に喩えるなり。合は知るべし。二に有名無実とは歌に「手に結ぶ水に宿れる月影の有るか無きまの世にぞ住むかな、云々」手に結ぶ水に宿れる月は只だ形のみあり、是れ則ち有名なり。あるかなきか実体なし是れ則ち無実なり。

次ぎに根無し草に譬える意を云はば、一に本無今有は、小町の歌に「まかなくに何を種とて浮き草の波のうねうね生いしげるらん。云々」と。まかなくに何を種とてと云うは本無なり。波のうねうね生いしげるらんと云うは今有なり。二に有名無実とは資治通鑑に云く「浮は物の水上に浮かぶが如し、実著かず」文。水の上に草有りと雖も実著かず、豈に有名無実に非ずや。応に知るべし、迹門に諸法実相一念三千を明かすと雖も、又大通下種二乗作仏を説くと雖も、本門寿量の説顕われざれば則ち本無今有有名無実なり。故に「真の一念三千も顕れず二乗作仏も定まらず、猶を水中の月、根無し草の如し」と云うなり。然るを何ぞ本迹一致と云うや云々。

第二、
文底秘沈の正義を弁明せば、先ず他家の異義を出さん。
文とは、或は謂く「如来如実知見等の文なり。此の文、能知見を説くと雖も文底に所知見の三千有る故なり」云云。或は謂く「是好良薬の文なり。是れ則ち良薬の体妙法の一念三千なる故なり」或は謂く「如来秘密神通之力の文なり。是れ則ち文面は本地相即の三身を説くと雖も文底には即ち法体の一念三千を含容する故なり」或は謂く「但だ寿量品の題号の妙法なり。是れ則ち本尊抄に一念三千の珠を裏むと云う故なり」或は謂く「通じて寿量一品の文を指す。是れ則ち発迹顕本の上に一念三千を顕す故なり」或は謂く「然我実成仏已来の文なり。是れ則ち秘法抄に此の文を引いて正しく一念三千を証す。御義口伝に事の一念三千に約して此の文を釈する故なり、云々」或は謂く「文とは方便品の十如実相の文を指すなり。底とは然我実成仏の文に一念三千の義有る処を指すなり。十章抄に云く、文は略開三の十如実相より出たれども、義は本門に限る云々」或は謂く「一品二半は在世脱益にして文上なり。八品要付は末法の下種にして文底成り、云々」或は謂く「寿量品の一念三千は在世脱益の応仏のいきを引きたる方は倶に理の一念三千にして而も文上なり。久遠名字の本因下種口唱事行の三千を文底と云うなり、云々」

今謂く所説皆な是れ人情の臆度にして経意に背き祖意を害す。用ちうべからず、信ずべからず、云々。

正しく文底の正義を示すとは、先ず報身応身無始無終、或は十界無始色心常住、或は無作三身、或は事本覚、或は内証の寿量品、或は生仏不二・自他不二・因果不二・始本不二等と云うは咸く文底秘沈の真の一念三千の功能にして、寔に難信難解の中の三説超過最極究竟の難信難解なり。唯だ独り寿量の教主妙覚果地の境界にして爾前迹門の極果の境界に非ず。況んや菩薩二乗をや。何に況んや凡夫をや。龍樹大士云く「唯だ信得すべし、識得すべからず云々」。然るに我等宿幸有って門流の法味を嘗め更に余食を受けず。恭しく斯の深義を信受す。眷々服膺(けんけんふくよう)せよ。宗祖の云く「信は価の如く慧は宝の如し云々」。以信代慧にして信心強盛ならば則ち自ずから己心の本覚を彰すべきものなり。敢えて疑うべからず、疑うべからず。蓮祖に信順し奉り且つ先哲に相承して且つ其の大意を弁ずべし。

、受師の云く「文とは寿量品の『然我実成仏已来◯劫』の文なり。底とは其の義の甚深なる処を指す云々」。また云く「吾が祖所謂寿量品の文底とは釈尊の本因本果所顕無始の報応事常住及び真の事一念三千の妙旨を指す。此れは是れ未聞法未下種の時の理即の全体無始報応事常住の古仏にして事理倶に成仏し竟るなり。此の故に本因本果も亦無始なる者なり云々」(已上界抄)。
私に云く、然我実成仏とは釈尊五百塵点劫の昔し能成の三身を説き顕し玉ふ文なり。天台云く「我とは法身、仏とは報身、来とは応身なり云々」(取意)。此の義経文に顕著なり。故に文上と云う、然りと雖も所証の法体無始の古仏報応事常住及び真の事の一念三千とは其の義幽遠にして顕し難し、故に文底と云うなり。
開目抄上「一代前後の諸大乗教迹門本門に法身の無始無終は説けども応身報身の顕本を説かず。但だ涌出寿量の二品のみ之れを説く云々(取意)」十法界抄「応に知るべし。四教の四仏の則ち円仏と成る、且く迹門の所談なり。是の故に無始の本仏と知らず云々」

二、然我実成仏とは、釈尊久遠成道の時、我等衆生も亦釈尊の事の無作三身事本覚等の功徳を具足するなり。釈尊も亦、久々遠々の昔し我等が如きの凡夫の時、釈尊の本師無始の古仏の報応事常住の仏徳を具足し給ふなり。釈尊は久遠に顕して我等は今日顕わる故に、始本異なりと雖も全く不二なり。是れ則ち文底の真の一念三千なるべし。
本尊抄「寿量品に云く、然我実成仏已来無量無辺百千万億那由佗劫等云々。我等が己心の釈尊乃至五百塵点所顕の無始の古仏なり」(文)。智証大師の云く「釈迦如来久遠成道皆な衆生の一念心中に在り」(文)。此の義甚深にして文上には説き顕し玉はず。故に文底と云うなり、云々。

三、
然我実成仏とは明らかに釈尊の久遠真実の成道を説くなり。然れども釈尊の成仏は即ち我等衆生の成仏を顕すなり。故に御義口伝下に云く「如来とは釈尊、惣じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり(是れは経文の表、文上なり)今日蓮等の類の意は惣じては如来とは一切衆生なり。別しては日蓮が弟子旦那なり。無作三身とは末法法華経の行者なり(此れ即ち文底なり)」又曰く「我とは釈尊久遠成道なりと云う事を説かれたり。(此れ則ち経の面、文上なり)然りと雖も当品の意は我とは法界の衆生なり。十界の己々を指して我と云うなり。実とは無作三身の仏なりと定めたり(是れ則ち文底なり)云々」

四、然我実成仏とは本尊抄に「我が内証の寿量」と云う是れなり。受師云く「我が内証の寿量とは本地難思の境智を指す云々」と。此れ即ち釈尊所証の法体真の事の一念三千なり。此の妙法は迹仏尚知り玉はず。況んや菩薩凡夫をや。立正観抄に云く「本地難思の境智の妙法は尚を迹仏等の思慮に及ばず云々」と。記九末に云く「是の人は能く本迹の妙理は仏の本証なありと知る。もし但だ事中の遠寿を信ぜば何ぞ能く此の諸菩薩等をして増道損生して極位に至らしめん。故に本地難思の境智を信解す」と、已上。文の中に事中の遠寿とは五百塵点の事成の長寿を指すなり。是れ則ち能証にして文上なり。本地難思の境智とは所証の法体を指すなり。是れ則ち文底なり。乗師の云く「境智と云うと雖も智を正と為す云々」と。私に云く「境を用て智を摂し、理を用ひて事を摂す。此れ即ち寿量品の冲微なり。故に文底と云う云々」と。

五、然我実成仏已来等の文底の真の事の一念三千は我等衆生無始広劫より本来具足の妙体なり。如来は久遠に顕し給ふ故に本覚と云うなり。我等は今日顕す故に始覚と云うなり。然りと雖も全く始本不二なり。
真間仏供養抄に云く「釈迦仏御造仏御事無始広劫より未だ顕しまさぬ己心の一念三千の仏を造り顕しましますか欲令衆生開仏智見(乃至)然我実成仏已来是れなり(文)」と。衆生所具の一念三千は無始無終にして本有常住なり。此の義幽邃にして文上に顕し?(がた)し、故に文底と云うなり云々。
且く五箇条に約して文底の義を談ずと雖も、其の実は只だ一ヶ条なり。了易からしめん為め一往分かつのみ。異解すべからず云々。

問う、報身応身無始無終の相貌如何。
答ふ、相続の義に約して之れを談ず。文句一に云く「次ぎに本迹を示すは、久遠に菩薩道の行ずる時、先仏の法華経を宣揚す(乃至)亦本迹有り、但だ仏々相望するに則ち無窮なり云々」と。記一に云く「然るに本因の所稟は亦是れ彼の仏の迹説なるを以て、無窮を恐るるが故に、但だ今仏の因果を本と為るに在り。理に拠るに余仏の化を稟けざるには非ず(乃至)故に本迹を明かすに且く他を廃す。故に今経の寿量を指して釈迦の本と為す。更に前仏の所説を指すことを得ず。前仏に復前仏有り故に無窮と云う(已上)」と。
知るべし。無始無終とは釈尊久遠成道の時の前を指し玉ふに前仏々々無窮にして無始なり。又未来を指し玉ふに無辺にして無終なり。又我等今日従り釈尊五百塵点劫已前の本因本果を指すに無始なり。未来亦無終なり。世々番々斯の如し。衆生界も亦随って無始無終なり云々。
問ふ、事三千の事とは唯だ釈尊の事成証得に約して之れを談ずるや。答ふ、釈尊久遠成道の時、始めて証得し玉ふに非ず。先仏先仏各々修顕得体の妙法にして実に無始事常住の一念三千なるものなり、云々。

問ふ、生仏不二因果不二自他不二始本不二の相貌云何。又十界無始色心常住の義如何。
答ふ、十法界抄に云く「是の故に無始の本仏と知らず。故に無始無終の義欠けて具足せず。又無始色心常住の義無し」(已上)。
本尊抄に云く「十界久遠の上に国土世間既に顕わる。一念三千殆ど竹膜を隔つ」(已上)。
開目抄上「爾前迹門の十界の因果を打破して本門十界因果を説き顕す。此れ則ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わって真の十界互具百界千如一念三千なるべし」(已上)。
今此の御文に依って推知すべし。夫れ境智の二法は無始無終なり。境とは十界三千の諸法なり。境もし無始無終なれば智も亦 無始無終なり。無始の九界は無始の仏界に具し、無始の仏界は無始の九界に備わる故に生仏不二なり。
本因とは、九界なり。本果とは仏界なり。今之れを説き顕す。豈に因果不二に非らずや。又、自心に他の十界を具し、他心も亦余の十界を具す。豈に自他不二に非らずや。即ち釈尊は先に顕し給ふ故に本覚と云い、我等は今日に顕す故に始覚と云い、前後有りと雖も妙体全く一なり。豈に始本不二に非らずや云々。
所詮、開目抄の無始の十界互具の法門、正しく文底の真の事の一念三千なり云々。
或る人の云く「文底秘沈の真の一念三千の奥旨、粗之れを聞くことを得、誠に一代綱骨・一切経の真髄・法華経二十八品の魂魄・寿量品の肝心ならんと深く之れを信じ奉る。但し此の御辞に託して他門の諸師、種々の邪会を設け却って経の意を害し、祖判に?ること浅ましき次第なり」と。余の云く爾なり。詮ずる所は御書幽密に解了しがたし。故に紛紜たる曲解を生ず。今愚案するに文底秘沈とは華厳真言の偸盗を恥ずかしめん為めの御辞なり。謂く華厳の澄観真言の善無畏等天台大師の止観を見て邪智を発し偸に盗んで華厳真言の二経に入れ、以て己家の珍と為す。故に吾が祖、之れを恥ずかしめて謂く「汝等偸に盗み得たる」と。
一念三千とは天台大師の己証迹門の所詮なり。此れは是れ猶を水月の如し、又浮き草の如し、有名無実本無今有の法門なり。寿量品の肝要たる真の事の一念三千とは則ち上行別付の宝珠、寿量品の文底秘沈にして時を待ち機を待ち給ふ故に龍樹天親の二聖は黙識して弘め玉はず。天台大師は在懐して宣べざれば汝等は争か盗むことを獲んや。黄石を崇めて宝珠と為す。鳴呼
(ああ)黒闇の人なり云々。若し爾らば濫りに文上文底の言を用うべからず。
予が先師之れを用いることは与えて諸家の邪義を奪う手段なり云々。

慶応元年乙丑太歳初冬
空中山二十二世日鑑 記


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